少年は二日かけて三十六丁目まで向かった。もともと日にちに余裕はあったから、特に急がなくてよかった。喫茶店の主人から田舎の農婦まで、みんなハヤテのことを覚えていた。少年の記憶と変わらない、美しい少女の姿で。


 途中、伏龍街の港に留まった貿易船を見た。


「オースティン貿易商社……」


 その会社の貿易船には、神話の戦乙女をモチーフにしたロゴが描かれていた。それは、少年の勘違いでなければ、ハヤテの姿をしていた。


 彼女はこの会社に、──この街に、愛されていたのだろう。それがわかっただけで満足だった。


「ツムギ、ひとりで来られたんだね」


 祖母は葬式場でひとり、少年を待っていた。祖母の家には頻繁に行っていたが、高校に上がって入寮してからは一度も会っていなかった。久しぶりに会った祖母は、以前より白髪が増えていた。


 祖父が好きだったというシオンの花を一面に飾った葬式場は、静謐せいひつに満ちていた。


「あ、ツムギくん。久しぶりですね」


 裏から祖母の弟・アスターが出てくる。家系図で言えば大叔父にあたる存在だが、少年は彼のことを「アスター」としか呼んだことがない。


 白髪混じりの姿は、しかしまだ若々しい。彼の存在により、沈黙が少し吹き飛んだ。


「ばあちゃん、ばあちゃんの実家に行ったよ」

「実家? 実家ならいつも来てる──」

「あー、待ってくださいツムギくん! ちょっとこっちに……」


 アスターは少年の腕を掴んで、軽々と通路まで運んでいった。祖母はそんな少年と彼女の弟を不思議そうに見ている。


「あのー……君のおばあさんは、その、色々あって実家を捨てているんですよ」

「捨ててる?」

「そう、うん、いつか姉上からお話があると思いますけど……」

「……とりあえず話しちゃダメってこと?」

「そういう認識で大丈夫です」


 アスターは少し悲しそうな顔をした。彼も編集長として色々と仕事があるらしく、あまり会ったことはなかった。


「アスターの口から聞きたい」

「えー、なんでですか」

「ぼく、あんまりアスターのこと知らない」


 アスターはそう言うと、とたんに嬉しそうな顔を浮かべた。


「ええ、ボクのことが知りたいとおっしゃる?」

「なにそれ。まあそうなんだけど……」

「いいですよ、ボクでよければ教えますよ。先輩のことも、姉上のことも、全部! 仕事が落ち着いたらすぐ駆けつけます!」


 なんでそんなに嬉しそうなんだろう、と思いつつ、少年は彼のそばを通り抜けて葬式場に入った。


 初めてまっすぐ、祖父の遺影を見る。祖父の遺影は、若いころのものだった。白黒の、無表情の祖父が写っていた。


「なんで若いころの、って思ってます?」


 アスターは少年の後ろから声をかけてきた。少年は無言で頷いて、葬式場の畳を踏んだ。


「あの人、二十六のときに死んでるんですって」

「死んでる?」


 少年は振り向いて、その質問をアスターに反芻した。祖父もハヤテのように死んで蘇生された存在なのだろうか。そうしたらこの葬式はなんのためのものになるのか。


「ああいや、違いますよ。二十六のとき、万博でお父様に会ったそうなんです。そのとき、相当ショックを食らったらしくて」


 お父様。死者蘇生技術の創始者だ。何があったのか聞こうとしたが、アスターの濁し方からするに、彼はおそらく何も知らない。


「『俺は死んだ。遺影はこの写真に』って言って、ボクにあの写真を撮らせたんですよ。あはは、面白い人でしょ」


 祖父は、黒い髪に薄い色の瞳を持っていたらしい。


「こうして見ると似てますね、ツムギくん」


 アスターも葬式場の畳を踏みしめた。少年の顔を覗き込んで、失礼にも吹き出した。


「同じ色の髪、同じ色の目。口を尖らせると更に似てます。もう少し背は高かったんですけど。ふふ。今いくつですっけ」

「失礼だよね……十六だよ」


 少年は胸を張って、もう高校生なんだよ、と言った。アスターははいはい、と言いながら、頭を二回撫でた。


「ボクがそのくらいの歳の頃ですね。先輩が姉上と将来を誓って、姉上と離れたのは」

「それも話してくれる?」

「ええもちろん。鮮明に覚えてますよ」


 アスターと少年に気を遣うように、祖母は小さな声で少年を呼んだ。


「ツムギ、おじいちゃんにお花あげる?」


 忘れていた。少年は肩から掛けたバッグに手を突っ込みながら、祖母のほうへ走った。


 お花ではないが、あげたいものはあった。


「棺開けるね」


 祖母はゆっくりと桐造りの棺の蓋を開けた。そこには干からびた老人が両手を組んで横たわっていた。


 遺影とは似つかない、白く荒廃した髪。少年は死が人間を侵食していくさまを見せられたようで、怖くなってしまった。


「じいちゃん」

「そうだよ、おじいちゃん」


 少年は祖母の花を受け取って、一本入れた。そしてカバンから取り出した冊子も、そこに入れた。


「死体復活ノ書」


 紙を適当に束ねた、本といえるかもわからないぼろぼろの紙の束。しかしその本はひどく日焼けしている。きっと祖父の大切なものだった。


 少年は幼いころ、これを家で見つけた。中を読んだものの、昔の言葉ばかりで理解できなかった。


 でも、これを後世に残してはいけないことはわかっていた。だから少年はこの十六年間、胸の中にしまっていたのだ。


「……それは?」

「ボクも見たことないですね」

「え、そうなんだ。実はぼくも内容はあんまりよくわからなくて」


 どうやら、これは本当に世に出してはいけないものらしい。少年はいけないものでも隠すかのように、祖父の腕の奥へそれをしまった。祖父の身体は、ひどく痩せていて、背筋がぞっとした。


「ハヤテさんなら知ってそうだけど」

「ハヤテさん……うーん」

「お母様ですか……」


 なぜか微妙な反応をするふたりが不思議で、少年は思わず尋ねてしまった。


「ハヤテさんは?」


 答えたのは祖母だった。


「それが……おじいちゃんが死んだあたりからかな。どこにもいないの」


 少年は、何かを感じとった。


 祖父と似ているからだろうか。彼らの考えが、読めてしまった。


「あ」


 ハヤテは、死んだのだ。


 もしかすると、多分、きっと、おそらく。よくわからないものの、そんな気がした。


『ハヤテは、ユキマサのことを愛してた』


 山が聳える街で会った女性は、そんなことを言っていた。はたから見ても、彼らは愛し合っていた。五十年以上も。


「ぼく、どこにいるかわかるかもしれない」


 お前百までわしゃ九十九まで、みたいなことだろうか。彼女は愛しい人が亡くなる一秒前まで、生きたかったのだろう。


「ここ、じいちゃんの家のお墓があるんでしょ? 連れてってよ」


 少年は葬式場をアスターと抜け出して、近くの墓地まで歩いた。むわりとした夏の青臭い熱気が、鼻をいている。


「ここですね」


 少年が連れてこられたのは、「桐ヶ谷家之墓」と書かれた墓石の前だった。動かない墓石の背後に、二本の卒塔婆そとばが立っていた。


「あれ、二本……」


 アスターは墓誌に目線をやった。少年もつられてそれを見て、そしてやはり予想は的中した。


 何とか信女と何とか童女という戒名が、仲良くふたつ並んでいる。その下に、亡くなった年月日と、俗名が書いてある。ひとつは桐ヶ谷幸恵、もうひとつは桐ヶ谷颯だった。


 はやて、と読むのだろう。少年は初めて、彼女の名前に触れた気がした。


「はやて」


 初めて、彼女の名前を呼んだ気がした。

 日付を確認する。


 「幸恵」のほうはもうずっと前。計算してみると六十年も前だった。行年三十二才。


 「はやて」のほうはちょうど一か月前。行年十六才。


 ほんとうに、祖父が死ぬ寸前に彼女はこと切れたのだ。献身的というか。自己中心的というか。


「へえ、お母様、十六歳だったんですか」


 アスターは、よくわからない表情で立っていた。知らせてくださいよ、先輩、と言って、涙を拭った。子供みたいだと、少年は思った。泣き顔は自分に似ている、とも思った。


「アスター、大丈夫だよ」


 少年が声をかけると、アスターは一瞬泣き止んだ。


「じいちゃんも同じ墓に入る」


 そう言うと、また泣き出した。面倒な大人だと呆れた。でも、芯まで冷えてしまった少年の代わりに、彼は熱い涙を流してくれた気がした。触れた涙の雫は、ホテルで流したものより、ずっと熱かった。


「星神のいない幸せな星で、一緒に住んでるよ」


 アスターは嗚咽の声の隙間を縫って、少年に告げた。


「ツムギくん、話しますよ」


 アスターは少年の細く小柄な身体を見下ろして、顔に涙を落としてきた。


「好きなだけ。君が望むだけ。全てを、ボクの寿命が許すだけ」


 アスターは、縋り付くように言った。


 忘れられたときが本当の死とは、よく言ったものだ。

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