弐
少年は二日かけて三十六丁目まで向かった。もともと日にちに余裕はあったから、特に急がなくてよかった。喫茶店の主人から田舎の農婦まで、みんなハヤテのことを覚えていた。少年の記憶と変わらない、美しい少女の姿で。
途中、伏龍街の港に留まった貿易船を見た。
「オースティン貿易商社……」
その会社の貿易船には、神話の戦乙女をモチーフにしたロゴが描かれていた。それは、少年の勘違いでなければ、ハヤテの姿をしていた。
彼女はこの会社に、──この街に、愛されていたのだろう。それがわかっただけで満足だった。
「ツムギ、ひとりで来られたんだね」
祖母は葬式場でひとり、少年を待っていた。祖母の家には頻繁に行っていたが、高校に上がって入寮してからは一度も会っていなかった。久しぶりに会った祖母は、以前より白髪が増えていた。
祖父が好きだったというシオンの花を一面に飾った葬式場は、
「あ、ツムギくん。久しぶりですね」
裏から祖母の弟・アスターが出てくる。家系図で言えば大叔父にあたる存在だが、少年は彼のことを「アスター」としか呼んだことがない。
白髪混じりの姿は、しかしまだ若々しい。彼の存在により、沈黙が少し吹き飛んだ。
「ばあちゃん、ばあちゃんの実家に行ったよ」
「実家? 実家ならいつも来てる──」
「あー、待ってくださいツムギくん! ちょっとこっちに……」
アスターは少年の腕を掴んで、軽々と通路まで運んでいった。祖母はそんな少年と彼女の弟を不思議そうに見ている。
「あのー……君のおばあさんは、その、色々あって実家を捨てているんですよ」
「捨ててる?」
「そう、うん、いつか姉上からお話があると思いますけど……」
「……とりあえず話しちゃダメってこと?」
「そういう認識で大丈夫です」
アスターは少し悲しそうな顔をした。彼も編集長として色々と仕事があるらしく、あまり会ったことはなかった。
「アスターの口から聞きたい」
「えー、なんでですか」
「ぼく、あんまりアスターのこと知らない」
アスターはそう言うと、とたんに嬉しそうな顔を浮かべた。
「ええ、ボクのことが知りたいとおっしゃる?」
「なにそれ。まあそうなんだけど……」
「いいですよ、ボクでよければ教えますよ。先輩のことも、姉上のことも、全部! 仕事が落ち着いたらすぐ駆けつけます!」
なんでそんなに嬉しそうなんだろう、と思いつつ、少年は彼のそばを通り抜けて葬式場に入った。
初めてまっすぐ、祖父の遺影を見る。祖父の遺影は、若いころのものだった。白黒の、無表情の祖父が写っていた。
「なんで若いころの、って思ってます?」
アスターは少年の後ろから声をかけてきた。少年は無言で頷いて、葬式場の畳を踏んだ。
「あの人、二十六のときに死んでるんですって」
「死んでる?」
少年は振り向いて、その質問をアスターに反芻した。祖父もハヤテのように死んで蘇生された存在なのだろうか。そうしたらこの葬式はなんのためのものになるのか。
「ああいや、違いますよ。二十六のとき、万博でお父様に会ったそうなんです。そのとき、相当ショックを食らったらしくて」
お父様。死者蘇生技術の創始者だ。何があったのか聞こうとしたが、アスターの濁し方からするに、彼はおそらく何も知らない。
「『俺は死んだ。遺影はこの写真に』って言って、ボクにあの写真を撮らせたんですよ。あはは、面白い人でしょ」
祖父は、黒い髪に薄い色の瞳を持っていたらしい。
「こうして見ると似てますね、ツムギくん」
アスターも葬式場の畳を踏みしめた。少年の顔を覗き込んで、失礼にも吹き出した。
「同じ色の髪、同じ色の目。口を尖らせると更に似てます。もう少し背は高かったんですけど。ふふ。今いくつですっけ」
「失礼だよね……十六だよ」
少年は胸を張って、もう高校生なんだよ、と言った。アスターははいはい、と言いながら、頭を二回撫でた。
「ボクがそのくらいの歳の頃ですね。先輩が姉上と将来を誓って、姉上と離れたのは」
「それも話してくれる?」
「ええもちろん。鮮明に覚えてますよ」
アスターと少年に気を遣うように、祖母は小さな声で少年を呼んだ。
「ツムギ、おじいちゃんにお花あげる?」
忘れていた。少年は肩から掛けたバッグに手を突っ込みながら、祖母のほうへ走った。
お花ではないが、あげたいものはあった。
「棺開けるね」
祖母はゆっくりと桐造りの棺の蓋を開けた。そこには干からびた老人が両手を組んで横たわっていた。
遺影とは似つかない、白く荒廃した髪。少年は死が人間を侵食していくさまを見せられたようで、怖くなってしまった。
「じいちゃん」
「そうだよ、おじいちゃん」
少年は祖母の花を受け取って、一本入れた。そしてカバンから取り出した冊子も、そこに入れた。
「死体復活ノ書」
紙を適当に束ねた、本といえるかもわからないぼろぼろの紙の束。しかしその本はひどく日焼けしている。きっと祖父の大切なものだった。
少年は幼いころ、これを家で見つけた。中を読んだものの、昔の言葉ばかりで理解できなかった。
でも、これを後世に残してはいけないことはわかっていた。だから少年はこの十六年間、胸の中にしまっていたのだ。
「……それは?」
「ボクも見たことないですね」
「え、そうなんだ。実はぼくも内容はあんまりよくわからなくて」
どうやら、これは本当に世に出してはいけないものらしい。少年はいけないものでも隠すかのように、祖父の腕の奥へそれをしまった。祖父の身体は、ひどく痩せていて、背筋がぞっとした。
「ハヤテさんなら知ってそうだけど」
「ハヤテさん……うーん」
「お母様ですか……」
なぜか微妙な反応をするふたりが不思議で、少年は思わず尋ねてしまった。
「ハヤテさんは?」
答えたのは祖母だった。
「それが……おじいちゃんが死んだあたりからかな。どこにもいないの」
少年は、何かを感じとった。
祖父と似ているからだろうか。彼らの考えが、読めてしまった。
「あ」
ハヤテは、死んだのだ。
もしかすると、多分、きっと、おそらく。よくわからないものの、そんな気がした。
『ハヤテは、ユキマサのことを愛してた』
山が聳える街で会った女性は、そんなことを言っていた。はたから見ても、彼らは愛し合っていた。五十年以上も。
「ぼく、どこにいるかわかるかもしれない」
お前百までわしゃ九十九まで、みたいなことだろうか。彼女は愛しい人が亡くなる一秒前まで、生きたかったのだろう。
「ここ、じいちゃんの家のお墓があるんでしょ? 連れてってよ」
少年は葬式場をアスターと抜け出して、近くの墓地まで歩いた。むわりとした夏の青臭い熱気が、鼻を
「ここですね」
少年が連れてこられたのは、「桐ヶ谷家之墓」と書かれた墓石の前だった。動かない墓石の背後に、二本の
「あれ、二本……」
アスターは墓誌に目線をやった。少年もつられてそれを見て、そしてやはり予想は的中した。
何とか信女と何とか童女という戒名が、仲良くふたつ並んでいる。その下に、亡くなった年月日と、俗名が書いてある。ひとつは桐ヶ谷幸恵、もうひとつは桐ヶ谷颯だった。
はやて、と読むのだろう。少年は初めて、彼女の名前に触れた気がした。
「はやて」
初めて、彼女の名前を呼んだ気がした。
日付を確認する。
「幸恵」のほうはもうずっと前。計算してみると六十年も前だった。行年三十二才。
「はやて」のほうはちょうど一か月前。行年十六才。
ほんとうに、祖父が死ぬ寸前に彼女はこと切れたのだ。献身的というか。自己中心的というか。
「へえ、お母様、十六歳だったんですか」
アスターは、よくわからない表情で立っていた。知らせてくださいよ、先輩、と言って、涙を拭った。子供みたいだと、少年は思った。泣き顔は自分に似ている、とも思った。
「アスター、大丈夫だよ」
少年が声をかけると、アスターは一瞬泣き止んだ。
「じいちゃんも同じ墓に入る」
そう言うと、また泣き出した。面倒な大人だと呆れた。でも、芯まで冷えてしまった少年の代わりに、彼は熱い涙を流してくれた気がした。触れた涙の雫は、ホテルで流したものより、ずっと熱かった。
「星神のいない幸せな星で、一緒に住んでるよ」
アスターは嗚咽の声の隙間を縫って、少年に告げた。
「ツムギくん、話しますよ」
アスターは少年の細く小柄な身体を見下ろして、顔に涙を落としてきた。
「好きなだけ。君が望むだけ。全てを、ボクの寿命が許すだけ」
アスターは、縋り付くように言った。
忘れられたときが本当の死とは、よく言ったものだ。
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