肆
ユキマサはハヤテの食事にいちいち感謝なんて言わない。でも、昔一度だけ、言ったことがあった。
『ハヤテ、いつも飯ありがとう』
それが高校二年生の春、ハヤテに初めて発した言葉だった。感謝していないわけではないのだ。たまたま一瞬、忘れてしまっただけかもしれない。なんにせよ、彼の発言は、ハヤテがしていることを軽んじた結果ではなかった。
そうわかるとだんだん怒りが静まってきて、怒っていた自分が馬鹿らしくなってきた。
「アスター、今日夕飯食べてくか?」
「えっ、いいんですか?」
夕飯代が浮くのでうれしいです、とアスターは現金な喜び方をした。かわいげが欲しいものだ。
「でももう部屋取っちゃったのか」
「あ、それならご心配なく。部屋取ってません」
「……は?」
ハヤテが呆然としていると、アスターが彼女の背後に視線を移した。
「先輩、呼びましたんで」
そろそろ着くんじゃないですかね、という言葉にひやりとして、ハヤテは後ろを振り向いた。そのときホテルの入り口がゆっくりと開いて、タイミングよくユキマサが姿を現した。
「エスパーですか先輩!」
「いやタイミングがわからなくて待機してた」
だいぶ短くなった煙草を口から離すと、ふたりが座るソファの脇を通り抜けて机の灰皿に煙草を押し付けた。
「ハヤテ」そしてそのままハヤテの顔に目線を移し、語りかけるように言った。「すまなかった。いつも飯を作ってるのはおまえなのに」
「お前よく自分から来たな」
「アスターに借りを作るといろいろ面倒だからな」
力関係がときたま逆転するが、それも彼ら独特の距離感だ。ユキマサはハヤテの視線の先にあるカラーテレビを見て、へえ、こんなものか、と呟いた。
「買う気になったか?」
ハヤテはソファから立ち上がって、ユキマサに直接尋ねる。
「考えておくよ」
いいよとは言わなかったが、とりあえず一歩前進した。帰るぞ、とユキマサが踵を返すと、それに合わせてアスターも立ち上がる。
「ああそうか、アスター、おまえも来るのか」
「お邪魔ですか?」
「いいや」
ユキマサは振り返らずにそのまま進んでいく。アスターとハヤテがそのあとについて歩き出すと、彼はアスターに向けて言った。
「エリカさんの手紙コレクションがある」
「え!? 行きます行きます、槍が降っても行きます!」
アスターがそう言った瞬間、ユキマサが微笑んだ気がした。こういうところは息が合っていて気持ち悪い。でも、退屈はしないなと思った。
家に帰ると、ハヤテは多めに買っておいた鶏むね肉をすべて使って唐揚げを作った。久しぶりに三合も米を炊いた気がする。
鶏肉を一口大に切り、下味をつけ、溶き卵と片栗粉をまぶして油に落としていく。バチバチと音を立てて揚げられる唐揚げを見て、アスターはおお、と声を漏らす。
「ボクが付け合わせ、作りましょうか?」
アスターは料理をするハヤテを横で見ながら、そんな提案をした。
「え、ちょっと怖い」
「大丈夫です、実家では姉上とボクと弟と妹で当番を回していましたので」
アスターは胸を拳で叩いて自信満々にそう告げる。彼の性格からするに嘘を言っているわけでもなさそうだ。
「じゃあ頼むよ。キャベツはそこ」
アスターは快い二つ返事でキャベツを手に取り、慣れた手つきで千切りにしていく。いつもひとりで料理をしているので、隣に人がいると変な感じがした。
『さっちゃんは手先が器用じゃのう』
昔そこに立っていたのは、セイジロウだった。子供にしては物知りな彼は、幸恵にたくさんのことを教えた。いつだったか、彼の立ち位置は忠に代わり、忠もやがていなくなった。
「先輩は料理とかなさらないんですか?」
隣に立っているのはアスターだ。ハヤテは突如白昼夢から覚める。
「前の家を燃やしてから立ち入り禁止になった」
「あはは、先輩のやることはいつも極端ですねえ」
失ったものは多い。しかし得られたものも多い。そうやって人生は編まれていく。彼女の人生はかなり歪だが、そのぶん様々な色が混じっている。
「そうなんだよ、こいつできないものはとことんできないんだ。洗濯と買い物はなんとかできるからやらせてる」
「お母様のご苦労をお察しします……」
アスターは苦笑するが、ハヤテはとくに重く受け止めていなかった。
前にも後にも問題は山積みだが、とりあえず今幸せならいいか、と思ってしまえるのも彼女の性質だ。
唐揚げが黄金色になって揚がる。ハヤテはアスターが千切りにしたキャベツを添えて、三枚の皿にそれぞれ盛り付けた。すぐ側のちゃぶ台に皿を置くと、ユキマサが人数分の箸と白米を持ってきた。
「じゃあ食べましょうか」
いただきます、と唱えて、ハヤテは唐揚げを口にした。衣が油と混じって溶けていく。ハヤテは揚がった鳥皮の部分が特に好きだ。
醤油で味をつけた唐揚げの塩味で米が進む。ハヤテはしばらく無言で唐揚げをつまんでは口に入れた。
「これがおふくろの味ですか」
アスターが沈黙を破る。君のおふくろじゃない、と言おうとしたが、それなら彼はどこでおふくろの味を知るのだろうと考えてしまった。
「初めて食っただろ」
「いえ、それでもなんだか懐かしい味がします」
アスターは唐揚げを口に含んで、噛み締めるように咀嚼した。
「ボクの母上の料理もこんな味だったんでしょうか」
今となってはもう確かめるすべはないが、それでもアスターは笑っていた。
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