肆
二十分ほどで五丁目に到着し、そこからは地図を見て歩く。ユキマサは地図が読めないので、ハヤテの案内でパーティ会場であるウォルコット・ホテルまで向かった。
ウォルコット・ホテルはゴシック建築の建物で、この時代には珍しく十六階建てだ。ハヤテは見上げるのを諦め、長身のユキマサでさえ
「パーティは二階だ。ほら行くぞ」
「なんかちょっと怖くなってきた。やっぱ近所の店でローストビーフでも買おう」
「どの口が言う」
ハヤテが珍しく怯えるので、ユキマサは心の準備ができるまで待った。五分、十分と苦悶し、十五分になったとき、ふいに顔を上げた。
「よく考えたら中立派・反対派にユキマサが声を掛けられたら救えるのは私だけか」
「まあそうだな」
「じゃあ仕方ない」
「なんだったんだこの時間」
ユキマサは呆れつつも、ウォルコット・ホテルに入っていく。
電気式のエレベーターを見てすっかり上機嫌になったハヤテは、意気揚々とパーティ会場に乗り込んだ。
パーティ会場はシャンデリアの光で眩しく、ビルの見かけよりずっと広かった。周囲を歩く客は誰もが真剣な面持ちで、全員が高そうなスーツやドレスを纏っている。
「ほらハヤテ。ジュースでも飲んでなさい」
「肉は?」
「まだだ。会長の開会の言葉が終わったらな」
少し人が多すぎて怖くなった。ハヤテはユキマサの腕にしがみつきながら、甘いオレンジジュースを口に含んだ。
ユキマサはふらりと歩き、ひとりの男性に声をかけた。彼は伏龍街の外に本社を構える会社の社長で、ユキマサのことを褒めたたえていた。
「ニシナ博士。今回もありがとうございました。
ところであの件ですが──」
「……ええ、はい。分かりました。情報ありがとうございます」
「そういえば博士の技術を弊病院でも取り扱いたいとのことで相談が──」
「そうですね。ええ。検討してみます。あちらの方の進捗はいかがでしょうか?」
どうやらリストは正確らしい。周りのユキマサとの話を聞きつけた人間が、沢山集まってくる。
蘇生技術は富裕層に人気がある。従業員の労災による死をできるだけ少なくしたいとの切実な理由だ。簡単な外傷で死んだ場合、慰謝料や手当のほうが治療費よりもかさむ場合がある。
また、金のある人間は心にも余裕がある、とはユキマサの弁だ。確かにみな、余裕のある微笑みを浮かべている。そういう人間は生理的な拒否感よりも理性が勝つのだという。
「立派だな、ユキマサ」
たくさんの紳士との話が一段落ついたところで、ハヤテはそう呟いた。ユキマサはきまり悪そうに、しかし嬉しそうに、笑った。
その後もユキマサは規則性のない動きで次々に参加者に声をかけていく。みな一様にユキマサを褒めている。ユキマサも緊張していないようだった。
ハヤテが二杯目のオレンジジュースを飲み干したころ、突然辺りが静まり返った。そしてそのあと、老人の声が会場に響く。
これがユキマサの言っていた開会の挨拶だろう。人に隠れて老人の姿は見えないが、話の内容からしてウォルコット・カンパニーの会長らしい。
この会社が作られた経緯を一から話すが、どうもユキマサの話と違う。初めは食品会社だったというが、ハヤテにとって姿の見えない老人よりユキマサの方が信頼に値した。
「なあユキマサ、肉は?」
「まだだって。静かにしなさい」
ユキマサの言葉通り待っていると、突然明かりが消え、スポットライトが人混みの向こうで当たった。
「お、お待ちかねの肉だ。シェフの紹介もしてるぞ」
「行っていいか」
「まだだ。開会式が終わったらサインを出すから、もう少し待ってくれ」
ユキマサが遠くを眺めていると、不意に人差し指である方向を指した。先程スポットライトが当たった方向だ。ハヤテはここぞとばかりに人混みをかき分け、そちらの方向へ向かう。
「あ、ハヤテ、俺も……」
「おや貴方はニシナさんでは? お久しぶりです、先日従業員を施術していただいたベック建築会社の者ですが……」
ユキマサは咄嗟に背後を振り返り、声をかけてきた紳士とにこやかに握手を交わす。話をしているうちにだんだんと人が集まってきて、ハヤテを追うどころの話ではなくなってきた。ユキマサはなるべく態度に出さないように、ハヤテの行く末に気を揉んだ。
ハヤテはビュッフェ形式で皿にビーフストロガノフを盛っては食べ、パンで適度に腹を満たしていた。初めて食べたビーフストロガノフはとろけるような食感で、今までに食べたどの肉料理よりも美味しかった。ソースも玉ねぎの甘みがよく効いていて、毎日食べてもいいな、と思った。
「やっぱり惣菜で我慢しなくてよかった……」
パーティ会場に似合わないことを言いながら、次のおかわりへと歩き出したとき。
──あるひとりの男性と目が合った。
だいたい五十歳くらいだろうか。白髪まじりの毛は薄く、しかしどこか威厳をたたえた西洋人の男性だ。ハヤテはその男性から、何故か視線を逸らせなかった。
「……コーネリア」
彼女の意思ではない。理屈ではない。身体に染み込んでいるのだ。恐怖が。絶望が。痛みが。ハヤテは慌てて逃げようとしたが、人が多くて自由に動けない。男性に手を握られ、振り払おうとするが、身体が動かない。
「コーネリアじゃないか」
怖い。怖い。怖い。でも逃げるすべはない。彼女の身体はその恐怖を、知っている。
男性の名はジョセフ・ポール・ブライス。ハヤテの身体の元の持ち主──コーネリア・キャンベル・ブライスの実の父親だ。
彼は伏龍街の外の、とある国で伯爵の地位を持つ。コーネリアはそんな彼から逃げるため、この伏龍街にたどり着いた。もう十五年以上前の話になる。
ハヤテはジョセフにテラス席まで連れ出され、椅子に座らせられた。何一つ無理やりなことはしていないのに、身に刻み込まれた恐怖が、彼女を縛っていた。
「コーネリア。どうしてここにいるんだい?」
「お、おとうさま……わ、わたし、は、ここで、死んだ、のです」
コーネリアには
声が震えていると父はいつもコーネリアをぶった。殴られないか不安になりながら、ハヤテ──否、コーネリアは話を続けた。
「なるほど。それで君は変わらない姿を留めているんだ」
記憶と違う優しい父親の笑顔。しかし彼は次の瞬間、目の色を変える。
バン、と机が叩かれる。ティーカップは落ち、割れ、コーネリアの白い足に傷を作った。
「死んでまで汚名を広めるか、
コーネリアは恐怖に脅えた。口の中に溜まった紅茶が喉奥で停滞する。
「死体が動くなぞ気味が悪い。吐き気がする! どうしてこんな街まで逃げたんだ!」
「おとうさま、でも、……わ、わたくし、この街、で、良くして、も、もらっていますのよ……」
「黙れ、貴様の喋り方を聞くとイライラする! 娘に出ていかれた親として私がどれだけの悪名をこうむったか、お前にはわからないくせに!」
普段のハヤテならここで「お前が全面的に悪いだろ」と告げるところだったが、身体が上手く動かない。怖い。とにかく怖いのだ。
「お、とうさま。わたくし、幸せで、す。おとうさま、どうか、わ、たしのことは忘れてくださいませ」
ブライスは立ち上がり、振りかぶって平手を打とうとした。コーネリアは目を閉じ、一撃に備えて目を閉じていた──が、ついぞ平手が飛んでくることはなかった。
代わりに。
「気分が悪いようで気になりまして、医務室まで案内しますね」
聞き慣れた声が、鼓膜を叩いた。目を開けるとそこでは、ユキマサがブライスの腕を抑えていた。
「ゆ……きまさ」
「なんだ君は! 私は娘と話があるのだよ、娘と!」
ブライスは暴れるが、体格的に有利があるユキマサに抑えられて行動もままならない。
「奇遇ですね、私もあの娘と話がありまして」
ユキマサが外面の微笑を浮かべる。ハヤテは久しぶりにその表情を見た。
「申し遅れました。私、ユキマサ・ニシナと申します」
ブライスはその名を聞くと忌々しそうに顔を顰め、はあ、と大声で彼を責め立てる。
「娘はこんな危険で気が狂った男に引き取られたというのか? 返せ、娘を返せ!」
ハヤテはユキマサの笑顔にすっかり安心しきり、普段通り邪悪な笑みを浮かべた。
「はは、残念だったな。お前が探してるコーネリアはもういないぞ」
ブライスはその変貌に驚き、目をみはった。そこには、もはやコーネリアはいなかった。
ティーカップの破片でついた傷は瞬く間に修復され、コーネリアと瓜二つの相貌は、全く違って見えた。
「コーネリアはこの街に死にに来たんだ。わたしが死んだら誰かのために身体を使ってください、という遺書付きでな」
にやり、と笑みを浮かべる。コーネリアが生前絶対にしなかった表情だ。ブライスは幻でも見ているかのように、口を開けたまま固まっている。
「また会ったな、クソ親父。私は今、
悪魔のような高笑いをその場で上げながら、ハヤテはお茶を啜った。ビーフストロガノフでもたれた胃が、アールグレイの香りで満ちる。
ブライスはハヤテの申し受けに恐怖し、壊れたマシンのように首を何度も振った。やがて気絶し、周囲の人間が騒ぎを察知して呼んだ医務室の係員に引き取られた。
ユキマサはだいぶ疲れが顔に出ていた。ユキマサがハヤテを連れていくのに気が進まなかったのは、リストでブライス伯爵の存在を確認していたからだろう。
「ユキマサ、すまない。私が勝手に出歩いたせいだ」
「いや……おまえに非は無い。百パーセント向こうが悪いんだ」
コーネリアにも、常にこう言ってくれる味方がいたら、どうだっただろうか。きっと、思い詰めてこんな街には来なかっただろう。
そうしたらユキマサがハヤテを作り出すことはなく、この街は伏龍街にならなかった。今までの全てがなくなるのだ。コーネリアは、気づけばその小さな身体に背負いきれないほどの業を抱えていた。
「あと二、三人、お得意様に挨拶したい。付き合ってくれるか?」
そう言ってユキマサは手を差し出す。よく見ると一張羅にワインがかかっていた。ハヤテを探すうちに、誰かのワインがかかってしまったのだろうか。
ハヤテはとにかく、その言葉が身に染みて、恐怖でこわばった身体から力が抜けていくのを感じた。
へへ、とハヤテは力なく笑う。ブライスに見せた大立ち回りは虚勢だった。
「うん、もちろんだ、ユキマサ」
この世界は歪ではあるけれど、光もある。ハヤテは彼を見て、そんなことを考えた。
帰り際、ふたりは路面電車に乗った。周囲はとっぷりと夜の闇に呑まれている。
「ところでユキマサ。シオンちゃんについての情報は得られたか?」
ハヤテは前触れもなくユキマサに尋ねた。ユキマサは左手薬指の指輪を見ながら、いや、と小さな声で答えた。
「聞いて回ったが、誰も知らなかった。……というかおまえ、聞いてたのか」
「ユキマサがあんなに必死そうな顔で話すんだもんな。気になるさ」
シオンはユキマサの元恋人だ。
彼女は星神の核を操る力を持っていた。その力に目をつけられ、八年前、ある教団に誘拐された。
彼女の行方は、未だわかっていない。
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