第三話 青空のもとでりんご飴を
壱
伏龍街八丁目十二。
「うおぉ夏休みだぞ夏休み! ユキマサ! 夏休み!」
午前七時、大声でハヤテはユキマサを叩き起こした。七月二十一日は、ハヤテの夏休み最初の日だ。今日はいつもの制服ではなく、白いひまわり柄のワンピースの上にエプロンを纏っている。
ユキマサは入院用のベッドの上で寝ていた。鬱陶しそうに耳を塞ぎ、左手薬指に指輪をつけるとゆっくりと立ち上がった。
「今更そんなにはしゃぐことか? あと医者に夏休みという概念はない。腹立つから静かにしろ」
「ご機嫌ナナメだなぁユキマサは!」
「うるせえ」
ほぼ寝ているユキマサを二階まで連れていき、居間のちゃぶ台に着席させる。朝食に食パンをそのまま齧り、もそもそと咀嚼する。
「私は今年こそ七月中に宿題を終わらせることを目標にしてるぞ。まあ七回女子高生やって一回も達成したことはないが!」
「七度あることは八度ある」
「んー、統計的にきちんとしたデータだ! 成長したなユキマサ。お? ユキマサ背ェ伸びたか?」
「伸びてねえよ。これ以上伸びたら浴槽に足が入らない」
楽しげに笑うハヤテ。どうやら先日のコーネリアのように精神が身体に引っ張られることはままあることのようで、今の彼女はただただ夏休みに浮かれるだけの高校二年生だ。
「着替える。あっち行け」
「ネクタイ結ぶぞ〜」
「やめろ! 結べる! 外で待ってなさい!」
ユキマサは自室と居間を隔てる襖をぴしゃりと締め切り、ハヤテを外へ追い出した。ユキマサに自室はあるが、布団を敷くのが面倒だという理由でいつも下で寝ている。
追い出されたハヤテはしかし上機嫌のまま、窓の外を眺めた。
空は機械技術の発展により煤煙だらけになっている。ハヤテが子供の頃は、人間の世界はもっと単調で味気なかったが、代わりに空は青かった。
今女子高生として彼女が教育を受けているのは、時代の進化の賜物だ。数十年前までは、この世界はハヤテにとって、ずっと住みづらいところだった。
「風の力をこの身に受けて、私はどこかへ向かいたい
雲の向こうは風が吹き荒れ、誰も私を邪魔しない ――だったか」
ハヤテは昔聞いた詩を口ずさみながら、二階の狭い窓から見える空を眺めた。
ハヤテは死人だ。この伏龍街の仕組み上、彼女がここから出て暮らすことは叶わない。煤煙で曇った空しか、彼女は見られない。
「せめて写真に色がついてくれればなあ」
子供の頃に見た、青い空を──彼女は二度と手に入れられない。どうかユキマサが死ぬまでには青空を目にしたいと願いながら、ハヤテは詩の続きを口ずさんだ。
「明日の空は今日より青く、私は浮き雲、風はやて
私はいつか雲の果てまで、知らない青を知るのです──」
ハヤテは目を閉じて、まぶたの裏の青色を眺めた。と同時に後ろで襖の開く音がした。目を開くと、いつも通りのシャツを着て、ネクタイを締めたユキマサが立っていた。
「お盆休みに入ったら、どっかに遊びに行こうか。ユキマサの好きなところに」
ユキマサは少し気後れしたような顔を見せたが、ハヤテが口角を上げるとつられて笑った。
「ああ。お前の好きなところに行くか」
ユキマサはホルスターを両腕に通し、そこにハンドガンを挟んだ。鴨居にかけてある白衣を纏うと、彼は一階へ続く階段を降りた。ハヤテも今日は朝から助手の仕事をする。ハヤテはエプロンを外して、ちゃぶ台の上に置いた。
「──あ、そうだハヤテ。おまえ好みの仕事が入ってる。明日の午後からだ」
ハヤテはユキマサのあとについて階段を下りる。
「なんだ、私好みの仕事って」
「明日、祭りを近くでやるだろ。そこに来てほしいんだと」
わかりやすくハヤテの声のトーンが上がった。
「本当か! ユキマサも来るのか?」
「俺の車で行ける距離だからこの仕事を請けたんだ。もちろん俺も一緒に行くぞ」
ハヤテは鼻歌を歌いながら階段を下りる。今日はいいことがある気がした。
その日は普通の外科診療だけで、昼にはユキマサが最近できたという蕎麦屋に連れて行ってくれた。
「ん〜、うまい!」
「そうか、よかったな。……なあ、帰りにおにぎりでも食べたいんだが」
「ユキマサ……そのペースが続くのは若いうちだけだからな」
うるさい、と言いながらユキマサは蕎麦をすする。どこかユキマサも優しい気がした。
その日は珍しく使徒の襲撃がなかった。久しぶりにユキマサの医者らしい仕事をきちんと見て、ハヤテは夢のような心地だった。
ハヤテの命日が近づいていた。
あと三週間。ハヤテはどこか、物悲しいような、古傷が痛むような焦燥感に駆られて、空を眺めていた。
もうこの世界に存在しない身体を、彼女の心は求めていた。それが悲しいことなのか、喜ばしいことなのかは、ハヤテ自身も知らない。
次の日の夕方、ユキマサは早めに仕事を切り上げ、ハヤテの着替えを待った。
「なんだユキマサ……お前今日はその格好なのか」
二階から降りてきたハヤテは、ネクタイを緩め白衣を脱いだだけのユキマサの格好にため息をついた。
「いいだろ別に。一張羅もこないだワインで汚れたし……」
「お前あの服しかまともな服ないのか……?」
思えば休みの日も同じ色のシャツにネクタイだ。服に気を遣うハヤテは、信じられないといった目で彼を見る。
「おまえしか見ないのに金をかける意味がない」
「金の使い方をそろそろ学べよ」
それより見てくれ、と言いながら、ハヤテはくるりと一回転する。
白地に赤いタチアオイと濃紺の縦縞が入った浴衣、黒い帯に金色の帯締めがよく映えている。彼岸花の大きな髪飾りは、ハヤテが生前から使っているものだ。
「どうだ!」
「いいんじゃないか、暗くても見失わなくて」
ハヤテが一転不機嫌になるのを察して、ユキマサはフォローに転じた。かわいいだとか、似合ってるだとか、月並みな言葉を並べるが、ハヤテは満足いかないようで肩をすくめた。
「まあいい。私は今機嫌がいいからな」
「よかったよかった。今日は経費で落ちるから好きなものを食べていいからな」
今日は警察からの依頼で祭りの警備をする日だ。警察所属の軍隊を置くと、祭りに物々しい雰囲気が出てしまうから、だそうだ。
「じゃ、行くぞ、ハヤテ」
ユキマサが黒塗りの車の運転席に乗り込み、ハヤテが助手席に乗る。キーを挿してエンジンを起動させ、クラッチペダルを踏み込みつつ、ゆっくりと発進させる。しばらく座席が揺れたあと、何とか舗装された道路に出る。
「道案内頼む。あんまり慣れない道だからな」
「分かった。次の交差点、右だ」
ユキマサは彼女の指示に従って右折する。もしあの日、シオンが攫われなかったら、自分の代わりに誰かが座っていたのだろうか。そんなことを考えながら、ハヤテはユキマサに指示を出す。
「ハヤテ」ちら、とユキマサは彼女を見やった。「なんか、考えてるのか?」
普段ハヤテの感情には鈍いのに、こういうときはすぐに異変に気づく。
「いや、──命日が近いから、自然に焦るんだ」
「そうか、もうそんな時か」
ずっと直進を続けている。指示を出さないぶんふたりの会話は減った。
「
そんなことを言うようになったのか、とハヤテは少し驚いた。自分を求めて泣いていた十歳の少年が、もうこんなにも大きくなっていた。
いつも、こんな夏休みだっただろうか。彼が大学に行ってからはずっと女子高生として生きてきたが、果たしてこんな気持ちになったことはあっただろうか。
ユキマサが背を抜いた日。声変わりを迎えた日。好きな女の子が出来た日。自分はどんなことを考えていたか、全く思い出せなくなっている。
とにかく生きるのに精一杯だった。こんな気持ちになったのは、きっと初めてではないはずだ。
「嫌じゃない。嫌じゃないぞ、私は幸せだ」
「そうか。ならいいんだ」
ハヤテは、ここで自分が嫌だと言ったら、彼は自分を殺すだろうか、と思った。おそらく殺すだろう。
「お前も私が嫌なら捨てろよ。お前がいなきゃ私は生きていけないんだから」
ハヤテは久しぶりに左折を指示した。そのときふと、ユキマサの表情が見えた。
笑っていた。
「おまえが嫌なら、世界を敵に回さないから」
ああ。
いつの間にか、自分は守られる側になっていた。
「そうか。ならいいんだが」
車は街を走っていく。色とりどりの歪んだ風景を出し抜いて、明かりで彩られた道にたどり着いた。
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