扉をゆっくりと開ける。そこにフェリシアの姿はなく、行き交うスタッフだけがそこにいた。


 アスターは重い気持ちで受付まで下りていく。すると出口の周りに何人かスタッフが集まっていた。


「何かあったんですか?」


 スタッフに話しかける。彼もまたアスターを知らないようで、ほかの記者と同じように接される。


「ああ、記者さんですか。社の前で使徒が現れまして」

「使徒……ですか」

「ええ、いま民間の業者が到着するのを待っている状態です。あと十分ほどお待ちください」


 民間の業者というと、ハヤテとユキマサのことだろうか。アスターはあの二人なら大丈夫だろうと思い、エントランスに向かう。

 エントランスはガラス張りで、外の様子がよく見えた。来た時にはたくさんいたはずの人がいなくなり、五丁目は閑散としていた。


 アスターはすることもないので使徒の姿を探した。ウォルコット・カンパニーの正面の通りの奥に、ワニ型の使徒の姿が見えた。あんな使徒もいるのか、と目を凝らしていると、奥に人影が見えた。


「ベビーカー……かな、あれは」


 ワニは卵を守る習性があるから、使徒とはいえもとになった生物の習性は持っているのだろう。そのベビーカーを引っ張る女性らしき人影が見える。


 アスターは彼女のことを知っている。もう名前も覚えていないが、彼女はアスターの妹だった。アスターは助けに入るか迷ったが、誰も彼女を助けに行かない状況を見て動くことを決意した。


 実家にいた当時、どこに行っても劣等生だったアスターを擁護する者は誰もいなかった。妹はアスターを恥だと思っていた。彼女の双子の兄も、彼女自身も、アスターのことを兄だと認めていなかった。


 これは妹が心配だからとか、そういうたぐいの感情ではなかった。


 復讐だった。生まれてからさんざん馬鹿にした相手に助けられるのは、どれだけの屈辱だろうか。アスターは柄にもなくそんなことを考えてほくそ笑んだ。


「すみません、外に出させてくれませんか」


 アスターは入り口付近のスタッフに言う。スタッフはやんわりとその申し出を断った。


「使徒は一般人が近づくのは危険です。どうかここでお待ちください」

「わかっています、でも、急いでいるんです」


 アスターが何度も重ねて外出の許可を乞うと、根負けしてスタッフは許可を出した。


「使徒に捕捉されないよう素早くその場から去ってください。電車も止まっている可能性があります」


 扉を開ける寸前、スタッフはアスターにそう言った。


「大丈夫です、僕はこの街で育ったので」


 何も大丈夫ではなかった。この街では、使徒が出現したら警察の使徒対策部隊が来るまで頑丈な建物に逃げ込むのがセオリーだ。だからむしろこんな行動をとる人間のほうがこの街に慣れていない。


 不安はあったが、それでもアスターは強がって外に出た。


「では!」

「え、あ、そっちは使徒の方向ですが――」


 混乱したスタッフの表情を見て笑いながら、アスターは使徒のほうへ駆け出した。


 街に音はない。ふだんあんなに騒がしい五丁目の街が静かで、使徒よりもそのほうが恐ろしかった。


「そこの人!」


 アスターは走りながらベビーカーを手にした女性に声をかける。女性がとっさにアスターに目線を向け、瞠目した。


「あ、アスター!?」


 アスターは反応せずに駆け寄り、ベビーカーを掴む。ベビーカーの脚の部分がワニの口に入っている。子供だけ助け出そうと思っても、ワニが怖くて助けられなかったのだろう。


 リスクは高い。でもここで子供を助けないと外に出た意味がないと思った。


 アスターは思い切ってベビーカーに乗る子供のほうへ手を伸ばした。アスターは子供を胸に抱くと、ワニから慌てて離れる。


「ちょ、ちょっとアスター、あんた何やってるの!」

「あ、えーっと……妹さん?」

「まさかアタシの名前覚えてないっていうの!?」

「ま、まあいいじゃないですか。危険な役割はボクが請け負います。今はとにかく逃げてください」


 妹は困惑したような表情を浮かべたが、アスターがワニから走って逃げると、彼女は逆方向へ逃げた。


 やはりというべきか、ワニはアスターのほうへ顔を向けた。アスターは肩に載せた三脚とカメラ、そして甥を抱えながら走る。


 ウォルコット・カンパニー本社、チョーク・パレスの時計を見上げる。アスターが会見室から出たときから五分ほど経っていた。あと数分すればハヤテたちが到着するだろう。


「ああああああ! ワニ思ったより早いんですけど何でですか!?」

「知らないわよアスター! あんたが勝手に割り込んできたんでしょ!」


 必死に逃げるアスターに妹の怒号が飛ぶ。


「だ、だって、だってあなた、あのままだとあなたまで食われてましたよ! ボクは最悪の事態は避けましたから!」


 アスターが妹に向けてそう言うと、彼女は首を振って叫んだ。


「あなたじゃなくて、ダ・リ・ア!」

「だ、ダリア? 聞いたことないんですけど、改名しましたか?」

「してないわよっ!」


 ダリアはそう叫ぶと、アスターに迫ってきた使徒に石を投げつけた。意識がダリアに向き、使徒の首が彼女のほうへ向く。


「あんたがあたしの名前を一回も呼んだことないからでしょっ!」


 アスターの思考が一瞬停止する。記憶を辿ってみると、たしかに一度も彼女の名前を呼んだ記憶がない。


「あんたはあたしのこと、妹だとも思ってないんでしょ!」

「え、いや、そんなこと」

「お姉さまにしか興味がないから、名前も呼んでくれなかったんじゃないの!?」


 アスターは、そのとき初めて妹がそんなことを考えていたのだと知った。彼女がアスターのことを蔑んでいるとか、そんなのはアスターの想像に過ぎなかった。


「ボクは、あなたがボクのことを嫌っていると思っていて、避けていたんですよ」

「あたしこそそう思ってたわよっ!」


 家族のことと言って思い出されるのは、父母やフェリシア、シオンの顔ばかり。彼女とはほとんど話さないまま今に至ってしまった。だからこういう誤解が生じているのだ。


「ボクたち、もっと話すべきでしたね、ダリアさん」

「ほんとね! ちょっと、石でも投げて助けてよ!」


 アスターが大きな石を探していると、後ろで車のエンジン音が聞こえた。振り向くと、見慣れた黒塗りの車があった。

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