「じゃ、ユキマサ。帰っていいよ。お前に会おうと思った目的は彼女だけだったからね」


 ユキマサはその場で硬直して動けなかった。


「本当はお前になんて会いたくなかったんだけどね」


 心が動作を止めていた。彼の言う通り、ハヤテを諦めて部屋を後にしようとしたとき。


「――おい、いつまでこんな三文芝居を見ていればいいんだ」


 玲瓏れいろうとした、雲雀のような声が部屋に響いた。


 ユキマサは思わず顔を上げた。

 そこには、いつも通り攻撃的な笑みを浮かべるハヤテがいた。


「サチエ……!?」

「あー、タダシ。単純なところは昔っから一切変わってないな、お前」


 ハヤテはタダシの腕の中から難なく逃れ、ユキマサの前に立った。


「サラにはかかったが、私にはかからなかった。私は脳と身体の接続が甘くてな、身体が縛られても脳までは縛られないんだ」


 思い出したのは、ウォルコット・カンパニー主催のパーティのこと。彼女はブライスを前にして、コーネリアの人格を喚び出していた。彼女の意識の奥底、核と結びついている人格は、コーネリアのものであって幸恵のものではない。彼女が今動けているわけも、それだけの違いしかない。


「大丈夫だ。お前の父親はお前を失望させるような人間じゃない」


 ハヤテはユキマサを見上げてそう誓った。それは何よりも信頼できる言葉だった。


「おいタダシ。なぜ去年の夏だけ私の墓参りをした?私を納得させられるような答えを教えろ」


 ハヤテがそう訊くと、タダシは面白いくらい素直に黙り込んだ。


「私の推測を話そうか。お前は、外国の研究団体である『新星教団』とやらに研究を強制されていた。あれはお前なりに助けを求めていたんじゃないか」


 タダシは否定しない。ハヤテは頷いて、アタリだな、と呟いた。


「お前は研究対象のことを『患者』と呼ぶだろう。お前は根底で医者である自覚があったからな。でも字はお前の字だ。呼び名だけ影響されたんだろうなと思ったんだ」


 ハヤテはまた、質問を投げる。


「何があった?なぜお前は自分を犠牲にしてまで秘匿する?」


 形勢はがらりと逆転していた。絶望したような顔をしていたセイジロウも、ハヤテを光を宿した目で見ている。


 静寂が展示室を占める。そして一言、「これからのためだ」と言った。


「『新星教団』は、セイジロウと僕が関わりを持っていたことから解体された。でもまだ教団員は世界各地に隠れている。今年の六月、彼らに僕は内通者として処刑される」

「……つまり、嫌な奴が処刑されたほうがいいと思って印象操作をしたのか」


 ハヤテの発言を、タダシは静かに肯った。彼はユキマサが思った通りの優しい人物だったが、優しさの質が違った。


 ユキマサがどう声をかけようかと悩んでいるすきに、ハヤテが一歩前に出た。そしてそのまま、タダシの顔を殴った。タダシはロクな受け身も取れないまま、床に倒れこんだ。


「タダシ、お前はそんな腑抜けた奴じゃなかった!」


 ハヤテが足を上げる。腹に蹴りを入れるつもりだ。慌てて駆け付けたユキマサがハヤテを羽交い絞めにして、タダシから引き離す。


「なぜ生きようとする気概がないんだ!」


 ユキマサは、ハヤテが怒っているわけが痛いほどわかった。


 幸恵は死んだあと蘇生させられたくなくて、タダシと別れた。裏を返せば、タダシはそこまでして相手を生かしたかったのだろう。昔の彼は、きっと「生きてさえいればいい」と思っていたたちだ。


 そんな彼が、周りに迷惑をかけないように、矜持をもって処刑を受け入れているのが気に食わないのだろう。


「前のお前なら、どんな手を使ってでも処刑から免れようとした!」


 ハヤテは、必死になって彼を生かそうとしている。生前と逆だ。ハヤテの生への執着を生んだのは、きっとユキマサだ。


 タダシが黙ったままでいると、ユキマサの後ろから声がかけられた。


「タダシ、きみの処刑の件は私にも責任がある。警察内部に人間関係が悟られるような隙を見せた私も悪いんだ。きみの生存の役に立ちたい」


 セイジロウだった。彼はタダシの手を引いて彼を起こし、ハヤテから遠ざけた。


 先ほどの演技でタダシが言っていたことに、彼なりに思うところがあったのだろう。


「ハヤテ君。私がタダシを生かすよ。そういうことでいいかい?」


 ハヤテはユキマサの腕の中で動きを止めた。ユキマサが手を離すと、ハヤテは腕を垂らして立ち上がった。


「……ああ。よろしく頼んだ」


 ハヤテはそうとだけ言うと、ユキマサを置いてその部屋を出た。彼もハヤテのあとについて部屋を出ようとしたとき、声に引き留められた。


「ユキマサ」


 タダシの声だった。振り向かずにそのあとの言葉を待った。


「ハヤテを作ったのがお前でよかった」


 初めて言われた言葉だった。


 今までは、ハヤテの存在を責める人間と、仕方ないと諦める人間しかいなかった。ハヤテが描いた軌跡がどれほど美しいものであろうと、その生誕は誰にも祝福されなかった。


 ユキマサは何も答えず、その部屋を出た。


「生きてさえいれば、またどこかの研究所で会えるよ」


 タダシのその言葉だけを支えに、ユキマサはこの先も研究を続けることを決意した。


 

 部屋を出てハヤテと合流し、日本リバイバル産業館を出る。


「ヤマナシと一緒じゃあ楽しめなかっただろ。どこに行きたい?」

「……じゃあ、近くのアメリカ館に」

「ハンバーガー目当てか!さすがだな!」


 しばらく歩いていると、万博の場内アナウンスが響いた。


「八丁目からお越しの、ハヤテ・キリガヤさん」

「……ハヤテ・キリガヤさん?」


 楽しそうだったハヤテの表情は一変し、立ち止まってそのアナウンスに耳を傾けた。


「お連れ様がお待ちです。至急案内所までお越しください」


 ハヤテは首をかしげていたが、不意に顔色が青ざめだして、「サラか!」と叫んだ。


「まずいまずい、サラが私を探している!」

「あ、そういえばサラさんって……」

「タダシのあのトンチキ機械で眠らされて救護室に運ばれた。が! あの装置は一定程度持ち主から離れると効果が消えるんだ。だから――」

「展示室にいる間、ずっとおまえを探していた……と」

「そうなる! ああ、行きづらいなあ、まったく!」


 たしかにかなり長い間あの部屋にいたから、その間ずっと名前を万博内で呼ばれ続けられていたとなるとかなり恥ずかしい。ユキマサだったら無視して帰っていただろうが、やはりハヤテの根はまじめだ。


 ユキマサはハヤテに手を引っ張られて、中央部まで走った。


 ハヤテの手は暖かった。本当は生きた人間なんじゃないかと思うほどだ。



 ――僕が作りたかったのは、こんな化け物じゃなかった。

 


 タダシの言葉が、ふと脳裏をよぎる。あれだけは本心だったように思えた。


 一致したと思っていた父親の本意と自分の認識がまるで違う。


 ――燃やしてしまえばよかった、あんな本。


 もし自分が生まれていなかったら。シオンは攫われなかったのかもしれない。


 そんなことを走りながら考えている自分にも、嫌気がさした。ユキマサは走りながら、どう現状を良くしていくかということばかり考えていた。セイジロウなら答えは出せたのだろうか。

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