弐
家に帰ってすぐユキマサの昼食を作り、食べさせる。ニラ玉をふたりでつつきながら、ユキマサはハヤテの週末の予定を尋ねた。
「ああ、私、テスト勉強で今日と明日はオースティンの家に泊まるから。飯は適当に食ってくれ」
「テスト勉強? おまえが?」
ユキマサは怪訝な顔でハヤテの発言を反芻する。
「そうだ。あ、お前、日曜は暇だよな」
「暇だけど……」
「じゃあ日曜の昼、迎えに来てくれ。なんかオースティンの親がいいものを食わせてくれるらしい」
「面の皮が厚いな。まあ楽しみにしておくよ」
ユキマサはどこか浮かれている。パーティへ行く途中で見せた困惑が嘘のようだ。
「えー……お前、パーティのときの態度はなんだったんだ」
「ビジネススイッチが入ってたからな。仕事の話が介入しなさそうな話だけすればいいんだ。オースティン邸の所在地は把握しているから問題ない」
この口下手な男に話を上手くコントロールするなんてできるのだろうか。すこし心配になったが、もしそうなっても自分が助け舟を出せばいい。
ハヤテはニラ玉を食べ終えると、皿を洗い、泊まりに行く準備を始める。
部屋に入ってまず手に取ったのは、黒のシャツワンピース。ハイウェストのフレアスカート側面にはチェック柄が入っており、ハヤテが一目惚れして買わせた一品だ。
着てみると、今の時期に着るには薄手だということに気づく。ハヤテはもう二枚、タンスから取り出して、部屋から出る。
「ユキマサ、どっちがいいと思う?」
取り出した二枚の服をワンピースの前に当ててみせる。片方はカーキのブルゾン、片方は白いニットベストだ。
「……右」
「右? じゃあこれにする。ちなみに何で?」
「おまえは右手に持ったものを採用することが多いから」
ハヤテはユキマサの脇腹に蹴りを入れる。こういう場面に慣れさせすぎると、彼はいつも嫌な適応の仕方をする。
ため息をつきながら、ハヤテは右側のブルゾンを羽織る。ハヤテが翌日の服を選ぼうと部屋へ入ると、ユキマサがそれを制止した。
「おまえ、勉強するんだろ? 勉強道具は?」
「後で準備する」
「今! 用意しなさい! おまえ服と下着だけ用意して楽しくなってそのまま行くだろ!」
何か言い返してやろうと構えていたが、図星だったので何も言えなかった。ハヤテは大人しくユキマサの目の前で勉強道具の準備をする。
ハヤテは部屋の隅から教科書の山をそのまま持ってきて、居間に置いた。
「まずこれ。現代文の教科書」
「おまえの教科書めちゃめちゃ綺麗だな」
それもそうだ、とハヤテは微笑む。
「新品未使用」
「漱石に謝れ。俺は高校時代の教科書全部ボロボロだったぞ」
ユキマサの高校時代の成績は優秀だった。
使い込んでたんだな、とハヤテは感心するが、ユキマサは「アスターの罠に引っかかったから」と現実を暴露した。案外アスターは過激だ。
「ちなみにノートは」
「あるわけない」
「おまえに期待した俺が馬鹿だった」
ユキマサは呆れ顔で捨て台詞を口にすると、立ち上がって階段の方へ歩いた。
「俺は下に行く。いいか、全教科の教科書を入れろよ。でなくばアスターにおまえの点数を言いつける」
「地味に嫌!」
アスターはいざというとき何をするかわからない。
絶対に制裁を食らうことより、完全に予測が不可能なことのほうが怖い。テスト柄のハンカチとか作ってきそうで怖い。
ユキマサはハヤテが嫌がるポイントをよく押えている。口下手だが、その分人間観察は得意。そこの部分がハヤテとは真逆だ。
「よし、じゃあ薄い教科書だけ入れよう」
いざとなればオースティンが貸してくれると思って、薄い教科書を二三冊入れる。ペンと消しゴムをゴムで束ねた自称・ペンケースと電話の近くにあるメモ帳を入れ、準備は終了した。
ハヤテは部屋に戻り、再び明日の服を準備した。
下に降りるとユキマサが荷物を覗こうとしてきた。全部入れたよ、と口先でごまかして、ハヤテはニシナ医療研究所を発つ。
今日も今日とて空は曇っていて、晴れなのか曇りなのかわからない。街の遠景に何本か
診療所近くの住宅地を抜けると、大通りに出る。ハヤテはそこを右に曲がり、駅を目指す。
オースティン邸のある十一丁目まで電車に乗って、そこからは徒歩で家へ向かった。高級住宅街の中でもひときわ大きな洋風の豪邸。それがオースティン邸だった。
大きな門の壁についたベルを鳴らすと、家の中で大きな音がして、玄関からオースティンが飛び出してきた。
「キリガヤさん、いらっしゃいませ!」
オースティンは黒いタートルネックのシャツに赤いタイトスカートを合わせた、モダンな装いで現れた。彼女の後ろから数人の侍女が現れて、ハヤテの右肩にかけた鞄を持ち去っていく。
「わたしの部屋までご案内します。どうぞ」
オースティン邸はハヤテの家よりもずっと明るく天井も高い。天井から下がっている照明は何かと尋ねると、シャンデリアですと返ってきた。
「父と母は日暮れごろ帰ります。それまで部屋で勉強しましょう」
「この家の探検は……?」
「やりません。わたし、キリガヤさんと一緒に進級したいので」
オースティンは強気に告げる。友達云々は上手く言えないくせに、こういうことは素直に言えるらしい。
「わたしの部屋は二階にあります。お足元にお気をつけください」
侍女たちの後ろについて、ハヤテはオースティンの部屋まで向かう。
「キリガヤさんの荷物はこちらにお願いします。はい。ありがとうございます」
侍女たちに指示を出して、ハヤテの荷物をソファの上に置かせる。ハヤテは荷物の隣に座って、肩を竦めながら周りを見渡した。
「キリガヤさん、どの教科が一番苦手ですか?」
オースティンは席について、開口一番そう尋ねた。正直、歴史以外の教科が自分の常識と
歴史以外全部、と答えると、オースティンは一度気の毒そうな顔を見せた。が、その後すぐに笑みを浮かべた。
「では数学から始めましょうか……」
そう言ってオースティンは教科書とノートを取りだし、ハヤテに見せる。女の子らしい細く小さな字で沢山のメモと計算が書いてある。
「こちらが公式です。覚えていますか?」
「うーっすら覚えてるけど覚えてない」
「わかりました。じゃあ導出過程からおさらいしましょうか」
オースティンの解説を聞きながら、ふと疑問に思う。
「なあオースティン」
「はい」
「君、ほかのクラスメイトには敬語使ってないだろ」
オースティンはノートに落としていた視線をつとハヤテに向けた。
「はい、まあ」
「敬語をやめろ。あと私のことも下の名前で呼べ」
「えっ」
ハヤテの急な要求に、オースティンは動転する。名字で呼ばれるのは、実はあまり好きではない。
「で、でも、キリガヤさんは恩人なので、そんな」
「私はその恩とやらを知らん。そのせいで距離を置かれるくらいなら、私は無礼に接されたほうが気が楽だ」
距離を置いているわけでは、とオースティンは口にするが、そのあと口ごもる。しばらく目を泳がせてから、オースティンは口を開いた。
「ハヤテさん、その件については長くなるから、あとでもいいかな……」
オースティンは上目でハヤテの反応を伺う。ハヤテが満足そうに頷くと、彼女はほっと胸をなで下ろした。
「よろしい。その件とやらも楽しみにしておく」
文化祭のころから抱えてきたオースティンへの疑念が、今日やっと解ける。そう思うと自然と勉強へのやる気が出た。
「うん……じゃ、次のページを──」
勉強を教えるオースティンも、どこか楽しそうに見えた。
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