ハシモトの家へは案外すぐに到着した。ハヤテはその家構えを見た瞬間、嫌な予感がした。


 庭にはコスモスや野菊、野薔薇などの花が咲き誇り、家の柱にはかずらやつたが別れを拒むように巻き付いている。ハヤテはこの家で起きている事態を勘づいて、チヨを一歩下がらせた。


「チヨ、大人の人を呼べるか?」


 ハヤテは腕の中のサブローを抱き直し、チヨにそう告げた。チヨはおろおろした様子で、何度も、なんで、なんでと聞いてきた。


「……大変なことが起きてるかもしれない」


 ハヤテの緊張に気圧されたのか、チヨはわかった、と素直に飲み込んで、今来た道を引き返していった。


 ハヤテは彼女の背を見送ると、庭へ踏み込んだ。玄関に鍵はかかっていない。引き戸を開けて中に入ると、中には埃臭くて薄暗い部屋が広がっていた。


「お邪魔します……」


 廊下の板材は傷んでいて、ハヤテが踏む度にキシキシと音を立てる。彼女は居間まで侵入して、あるものを見つけた。──いや、ある人、と言うべきか。


 そこには、着物を着た白骨死体が寝そべっていた。一か月前の新聞を腕に抱えながら、それは静かに寝ている。これが元・ハシモトだろう。


 彼は一ヶ月前に死んでいた。ここは田舎だから、その間ずっと息を潜めていられたのだ。


「サブロー。お前の飼い主だぞ」


 サブローが帰るべきところが見つかった。そう思って、ハヤテはジャケットからサブローの亡骸を取り出し、老人の腕の中にそっと添えた。


 チヨが呼んできた大人が駆けつければ、飼い主もろとも回収される。せめてもの気休めだ。


「……極楽でも、仲良くしろよ」


 ハヤテはサブローと老人を、


 ──瞬間。


 家の中を豪風が、駆け抜けた。一閃とでも言うべき強さだ。入口の引き戸が割れたのか、パリンという音がどこかで聞こえる。使徒だ。使徒が降臨した。


「うっそだろ……」


 こんな田舎に、とは思ったが、この家は全ての条件を満たしている。三体の死体、大量の自然物。ハヤテはジャケットを羽織ると、その風に向かい合った。


「……初めて見たかもしれんな」


 瓦礫の中から現れたのは、翼の付いた馬。おおよそ自然界のものとは思えないそれは、ペガサス型の使徒だ。ペガサス型は非常に珍しく、警察も何度かしか目撃したことがないそうだ。いわく、美しい風景の元にしか現れないとのこと。


 ハヤテは美しいその姿に見とれながらも、身を守ることは忘れなかった。まず自分の身を守り、次に核を狙う。そのつもりでいたが、ペガサス型の使徒はゆっくりとハヤテへ近づき、その足元で飛ばされそうになっている猫と老人の死体を見た。


「攻撃……してこない」


 まるでこちらを見ていないかのような振る舞いだった。するとペガサスは大きく口を開けて、ばくんとその二体の死体を食べた。


 これが本来のこの星での死者の弔い方だ。使徒は死者を食らい、星の中核に戻り、星神のエネルギーとする。それが正しいことのはずなのだが、葬儀の文化を産んだ人間は、その秩序を敵視した。そうして人間と星神とは対立した。


 使徒はそのあと、ハヤテの顔を見た。突如ペガサスの口が裂け、カバのように大口を開けてきた。ハヤテは咄嗟に反応し、その口を足と手で抑えた。


「ああやっぱそうなるよな!」


 力が強い。核は首の根元にある。ハヤテは口を抑えていた足をずらし、蹴り上げ、無理やり口を閉じさせた。必死で口を抑えながら核へ攻撃を与えようとするも、ペガサスはするりと拘束から逃れ、驚くべき速さで家から出ていった。


「待て! 街が……チヨが」


 ペガサスは旋風を巻き起こしながら住宅街の方へ走っていく。ハヤテは全力疾走で追いかけるも、風圧で思う通りに体が動かない。


「ハヤテ!」


 途中で畑に落ちたチヨを発見し、慌てて助け起こす。チヨを抱きかかえると、ハヤテはまた走った。


「サブローは?」

「サブローは飼い主と一緒にあいつが食べた。文字どおり、この星の一部になった」


 チヨは泣きもせず怒りもせず、そっかあ、と諦めたように言った。死とはそういうものだと、諦めたのだ。


「ハヤテ、あんた今どこに向かってるの」

「君の家だ、チヨ」

「なんで?」


 ハヤテはそこで、チヨが姉の死を隠蔽されていたことを思い出す。言うべきか、言わないべきかしばらく迷ったあと、ハヤテは言うことにした。他ならぬ本人からの要望があったのだ。


「君の姉は死んでいる。使徒に食われてしまうかもしれない」


 チヨはハヤテの腕の中で、うそでしょ、と呟いた。


「本当だ。君の両親とともに、五年前、死んでいる。それをユキマサが生き返らせたにすぎない」


 チヨはばたばたと暴れて、ハヤテの胸に涙をこぼした。


「うそ! おじちゃんがずっと嘘ついてたってことでしょ? そんなわけないよ!」

「そんな訳があるんだ」


 ハヤテは前を見た。ペガサスはもうとうの昔に遠くへ行ってしまった。一軒の家の前で立ち止まって、その玄関に顔を突っ込んでいる。チヨの家だ。


 ハヤテとチヨはその光景を、黙りながら見ていた。


「……ほんとう? ねえ、ほんとうなの?」


 悪い夢が覚めないかのように、チヨは何度もそう繰り返した。ハヤテが走っていくほどに、ペガサスの輪郭がくっきりしていく。


 ペガサスの口が、少女の身体を持ち上げている。白い長袖のワンピース。チヨの姉だ。


 走るたびに、チヨの姉であることがはっきりする。


「お姉……ハヤテ、お姉が!」


 ハヤテは何も言わず、走った。しかし彼女が家に辿り着く前に、ペガサスは目の前でチヨの姉を飲み込んだ。


「うそ、うそだよハヤテ、うそ……」


 ハヤテはだんだんスピードを落とした。ペガサスは昏い青空へ、羽ばたいて消えていく。


「君の姉はもう生き返らない。死んだんだ」


 ハヤテはゆっくりとチヨを地面に下ろす。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は、火照って赤い。


「使徒に食われてしまった死者は、ユキマサも助けられない。君にできるのは悲しむことだけだ」


 チヨはしゃくりあげ、言葉にならない言葉を何度も吐き出しては吸っている。ハヤテは彼女の呼吸が落ち着くのを待った。実に五分かかった。


「ハヤテ」

「なんだ」

「……煮干し、食べる?」


 そう言ってチヨは、ポケットの袋から煮干しを取りだした。


「ああ。ありがとう」


 ハヤテはそれを受け取って、ひとつ口に放り込んだ。煮干しは乾いた味がして、ほんの少し、塩辛かった。

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