第七話 夕焼け色の煮干し
壱
伏龍街十丁目。
彼岸を迎えると、一気に空気が冷えた。秋の匂いが風に乗って、教室の窓から吹き込んでくる。
「ナポレオンは国民投票で多数の賛成を獲得し、大統領に選ばれた──」
ハヤテはいつもどおり授業を聞き流しながら、窓の外を見ていた。
後ろのほうで「何考えてるのかな」という女子生徒のささやき声が聞こえる。主に今日の昼食のことを考えていた。
やがて四限終了のチャイムが鳴り響くと、ハヤテは真っ先に教室を出た。その日は午前中授業だった。
駅まで歩き、電車に乗り、昼食と夕飯の材料を買う。ハヤテの足は、普段よりずっと速い。
何せ今日は土曜日だ。明日はユキマサも一日中休みだから、映画でも見に行こう、と約束していた。
ニシナ医療研究所の正面入り口をばん、と開く。
「ただいま〜!」
ハヤテの呑気な声が、玄関を入ってすぐのところにある待合室に響いた。そこにはユキマサと、ひとりの少女が何やらもめていた。
「ち、チヨさん……猫は、同じ方法では蘇生できないんですよ」
「ええ、でも人ならできたよね。なら猫もできると思うよ。ユキマサ、やってみたことあるの?」
ハヤテがローファーの音を響かせてユキマサに近寄ると、彼はこちらをば、と振り向いた。
「ああ、ハヤテおかえり。なあ、聞いてやってくれよ」
彼はやたら困った様子でハヤテに持ちかけた。彼は少女を指さしている。
少女は、むしろ幼女というくらいの年頃に見える。七歳くらいだろうか。小さな黒髪をお下げにして、紺色のワンピースを着ている。
しかし何よりも初めに目に付いたのは、彼女が抱いていた猫だ。「サブロー」と書かれたプレート付きの赤い首輪を付けている。
サブローは、死んでいた。頭から血を流して。
「なにかと思えば女の子じゃないか。どうしたんだ?」
「あのね、チヨはね、サブローをお医者さんに治してもらいに来たんだよ」
チヨは猫の死体を持ち上げて、ハヤテに見せてくる。傷口があまりに痛々しいので目をそらす。
なるほど、ユキマサが困っていた理由がよくわかった。彼が蘇生できるのは人間だけだ。彼には猫を蘇生させる技術も、移植できるパーツもない。
「俺が蘇生できるのは人間だけだと……」
「サブローはチヨの友達なんだよ?」
会話が成り立っていない。チヨからすればユキマサは、わけのわからない理由で友達の蘇生を断る悪者だ。そしてユキマサは、常識が通じない相手への対処法を知らない。
つまりここは、ハヤテの出番だった。
「それは失礼したな、チヨ」
ハヤテはかがんで、チヨに視線を合わせた。そしてかつてユキマサにしたように、優しく語りかけた。
「所長の力不足ですまない。私が話を聞こう」
そう言って、ハヤテはチヨを医療研究所の外へ連れ出した。ユキマサがありがたい、とアイサインで言っていた。
ハヤテはチヨからサブローの亡骸を抱き上げて、制服のジャケットに包む。研究所を出ると、チヨはハヤテを見上げて尋ねた。
「あんたなんて名前?」
口調がかなりませている。最近の子供はこんなにも生意気なのか、と内心苛立ちながら、ハヤテは答えた。
「私はハヤテ・キリガヤ。ユキマサ・ニシナの助手をやっている」
「へえ。よろしく、ハヤテ」
ハヤテおねえちゃん、とかかわいげのある呼び方が本当は欲しかったが、ハヤテはぐっと我慢してチヨと握手をする。
「チヨはサブローと友達だったのか?」
ハヤテはこっそりとジャケットの隙間からサブローを伺う。血が乾いており、死んでからだいぶ経っているのだとわかった。
「うん。チヨの家の近くをよく歩いてるから遊ぶよ」
そうか、とハヤテは相槌を打ちながら、大通りまで出る。ハヤテは警官時代、子供からなるべく多くのことを聞き出すための訓練もしていた。
「チヨの家はここから遠いのか?」
「うん。三十二丁目だよ」
「なにっ、三十二丁目……」
三十二丁目は、「畑と山しかない街」と
「電車で来たのか?」
「うんそうだよ!」
「頑張ったな、チヨ……」
頭を撫でると、やめてよ、とかわいらしく反発された。このくらいの年頃は、いちばん褒められたくて、いちばん褒められるのが恥ずかしい時期だ。
「まあまあ、そう言わずに」
そう言って、またチヨの頭を撫でた。チヨはばたばたと暴れて、ハヤテから走って逃げる。
「サブローは誰かの飼い猫なのか?」
「うん。首輪ついてるでしょ? 飼い主が誰なのかは知らないけど」
たしかに、首輪をなしにして考えても、野良にしては肉付きが良すぎる。
「そうか。じゃあ飼い主を探して、返しに行こう。人の友達を勝手に連れ去って蘇生させちゃダメだ」
金だってかかるんだ、と諭そうとしたが、彼女にその概念があるとは思えない。
「そうだね。サブローの飼い主も、今ごろ寂しがってるだろうし」
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