高さも造りもばらばらな伏龍街を、電車は縫うようにして走り抜ける。


「ユキマサ」隣で新聞を読む彼にハヤテは話しかける。「最後になるかもしれないから言っておく。シオンちゃんと幸せになれよ」


 ユキマサは新聞から視線を外さずに答えた。


「いや、シオンと一緒に帰るよ。おまえがいなくなったら色々と困る」

「シオンちゃんなら優しいから私の代わりもしてくれるだろ」


 ユキマサがハヤテの方を見た。


「おまえ」初めて見る表情だった。「本気で言ってるのか?」


 怒っているのか、悲しんでいるのか。わからない。ただわかるのは、自分が言ってはいけないことを言ってしまったということだけだ。低い声が、鼓膜に鋭く突き刺さる。


「おまえ以外におまえの役割が務まるわけないだろ」


 ユキマサはそう言うと、また新聞に視線を落とした。ハヤテは絶対的な居場所を与えられたと同時に、シオンの代わりもシオンにしか務まらない、ということにも気づいた。


 やがて電車が街の境を隔てる長いトンネルへ入る。ハヤテが窓から視線を外すと、アスターと目が合った。


「アスター。この列車、食堂車がついてるらしい。一緒に朝食を食べに行かないか」

「本当ですか、ぜひ! 先輩は行きますか?」


 誘われたユキマサは新聞をめくりつつ、結構だ、と答える。ハヤテの狙い通りだ。ハヤテはアスターに話があるのだ。


 食堂車に着き、ハヤテが洋風炒り卵スクランブルエッグとパンを頼むと、アスターも同じものを頼んだ。ハヤテは切り出すべきか否か迷ったが、思い切って訊いてみることにした。


「シオンの状態はどうなんだ?」


 アスターは食堂車の中を眺めていたが、その質問に驚いたのか、とみにこちらを向いた。


「そ、それは……どういう」

「そのままの意味だ。ユキマサは生きてさえいればいいと言っていたが、私はそうではないのでな」


 シオンと出会ってからのユキマサは、生き方がまるで変わった。蘇生以来ぎくしゃくしていたハヤテとの関係も、彼女のおかげで割り切れたようだ。死と生の崖っぷちで生きていた彼は、生きる理由を見つけて心にゆとりが出た。


 ユキマサにとってのシオンがどれだけ大きい存在だったかは、おそらくハヤテがいちばんよく知っている。


「聞いて……どうするのですか?」

「どうもしないさ。ユキマサがああ言った以上は。シオンの状態が危ないなら、私はなるべく彼女の話題を避けるようにするだけだ。無駄に期待させるのは嫌だからな」


 見たところ、アスターは嘘をつくのが得意なようには見えない。ふたり相手に嘘をつき続けるのは、彼にとっても辛いだろう。


「そう、ですか。流石お母様です」

「君にお母様と呼ばれる筋合いはない」


 アスターはふざけてはいたが、明らかに客席にいたときより顔色が良くなっている。


「では……姉上は、記憶を失っていらっしゃるそうです」


 ハヤテは顔色を変えずに話を聞いた。


「教団で巫女として力を使わせるために、洗脳により記憶を消されました。教団の解体以後、姉上は警察関係者の夫婦に引き取られました。警察からの連絡なのでこれは確かです」


 アスターは瞳を閉じて耳を傾けるハヤテを見て、驚かれないんですね、とむしろびっくりしていた。


「予想できたことだ」ハヤテは答えた。「私も生前警察官をやっていた」


 生前の話をするのはあまり好きではないが、この場合は仕方がない。


「長期間による隔離、拷問を受けた人間は、総じて心が壊れる。大抵はどこかに閉じこもってしまって、目撃証言はなされない。外を歩けるとしたら、それは洗脳かなにかを受けたのだろう。記憶喪失もありえないことじゃない」


 自分で言っていて嫌になった。息子が全身全霊をかけて愛した女性は、もうこの世にいないのだ。ミスター・ブライスにとってのコーネリアに似た関係だろうか。彼は娘を愛してはいなかったから、感情の部分は少し違うと思われるが。


「先輩は、姉上を愛していました。だから本当は、伝えるのも迷ったんです」


 アスターは下を向いて、でも、と続けた。


「先輩に嘘の希望を抱かせたくなかったんです……ボクは……」


 ボクは間違っていますでしょうか、とアスターは問うた。彼の目はどこまでも優しく、ハヤテには彼を否定するなんてできなかった。シオンもきっと、こんな目をしていた。


「君は間違ってない」


 昔ユキマサは、死体でもいいからシオンに帰ってきてほしい、と言った。しかしその表情がどうも苦しげで、ハヤテはそれが強がりだと悟った。


「はは。お母様の言葉には力がありますね」

「だからお母様と呼ぶのは……はあ、もういい」


 アスターと話していると、朝食が届けられた。初めて食べた洋風炒り卵は、とろりとしていてお腹を壊さないか心配になった。新鮮なものを使っているから、その面は心配ないと聞いたことはあるのだが。


「あ、お母様、もうすぐトンネルを抜けますよ──ほら!」


 アスターが窓を指さす。


 瞬間、ハヤテの視界がまばゆい光で満ちる。


 まず目に入ったのは、目が痛くなるほどの青と若々しい緑。ああ、きれいだ、と思うと同時に、頭の中で二十四時間のカウントダウンが始まる。


 アスターの横顔も眩いほどの青で染まっている。彼はハヤテの視線に気づくと、にこりと笑いかけた。


「綺麗ですね!」


 飾りっけのない言葉だったが、それが今は逆に、何より洒落た言葉に思えた。久しぶりに見た青空は、色あせた記憶よりもずっと、青かった。

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