第五話 八年漬けの肉じゃが
壱
伏龍街八丁目十二。
盆も明けて、暑さも少し引いてきた八月の後半。ハヤテが朝、行正を起こしに一階へ降りると、窓の外に人影が見えた。
若い青年だ。ウェーブした黒髪をびしりと七三に分け、その上からシワひとつないベージュのキャスケットをかぶっている。胸を張り、身体を大きく見せようとするときの立ち方だ。西洋の絵画から出てきたかのような顔立ちだが、どうもかっちりとしすぎていて美しいとは感じない。
青年はハヤテの視線に気づくと、きっちり十五度の礼をした。ハヤテが玄関から入れとジェスチャーで伝えると、申し訳なさそうに身を屈めて、正面の玄関から入ってきた。
「失礼します。アスターと申しますが、ユキマサ・ニシナ殿はいらっしゃいますでしょうか」
口を開いても生真面目だった。どこかで聞いたことのある名前だな、と思いながら、ハヤテは助手だと自己紹介を返す。
「どっかの部屋で寝てるぞ」
「あ、はあ……では、ボクも一緒に探しましょうか」
「そうしてくれると助かる」
アスターは迷惑そうに眉を八の字に曲げながら、診察室、手術室、と回っていく。ユキマサのダメ人間っぷりを把握しているようで、困りますね、としみじみと言っていた。
ユキマサは入院用の部屋で寝ていた。ベッドから左半身が落ちている。昨夜は死者蘇生に夜中まで取り組んでいた。白衣を着たまま寝たものだから、裾が汚れてくしゃくしゃになっている。
「……死んでますか?」
「死んでないと思うぞ、多分」
ユキマサ、と大きく声をかけると、長い手足が跳ねて、ついにベッドから落ちた。相当驚いたようで、起き上がって頭をぶんぶんと横に振っている。
「うるせえなあ……っておい、ハヤテ、そっちのは」
ユキマサの視線はハヤテの隣、アスターの方へ向いていた。さっき訪ねてきたんだよ、と答えると、ユキマサは立ち上がって、アスターを真正面から見つめた。
「……シオンの件か?」
ユキマサが行方不明の恋人の名を口にしたので、ハヤテは話についていけずに戸惑った。
「はい。街で目撃証言がありました。先日、使徒根絶派の教団が解体されたので、その関連かと思われます」
アスターの言葉を聞くと、彼の顔色は一変した。
「生きているのか?」
「はい、生きています。ですが少し問題がありまして……」
「いいんだ。生きてさえいれば」
ユキマサはネクタイを締め直し、居住まいを正して歩き出した。アスターと比べるとやはり背が高い。
「アスター」
「はい」
「ちょっと久しぶりに会うの怖いから歯磨いてスーツに着替えてきていいか」
「はい」
アスターは変わらない声色で相槌を打ち、二階に上るユキマサを
「あ……すみません、ハヤテさん。きちんとしたご説明もなく」
アスターはちょうど三十度に身体を折り曲げて敬礼をした。
「いいんだ、君はシオンの弟かなにかか?」
「はい、お察しの通りです。ボクはシオン・ウォルコットの弟です」
ウォルコット、という名前はどこか聞き覚えがあった。
「……もしかして、ウォルコット・カンパニーのご子息か?」
「はい、一応そうですね」
途端、ハヤテの頭の中でピースがはまる。なぜユキマサはウォルコット・カンパニーと繋がりを持っているのか。なぜウォルコット・カンパニーでシオンのことを訊いたのか。そこで全てが繋がったが、しかしまだ腑に落ちないところがあった。
「なんで君は、新聞記者なんてやってるんだ?」
アスターは安いブランドのスーツ一式を纏い、肩からカメラの入った大きなカバンを提げている。手元には重そうなトランクがあり、将来を約束された御曹司のする仕事にはとても見えない。
アスターははつらつと答えた。
「姉上のためです!」
「……あ?」
「ボクは姉上の行方を探すために就職しました。素晴らしく美しい姉上を攫った教団をなんとしてでも突きつめたかったのです」
「執念がすごいな」
アスターは若さゆえのエネルギーを感じさせる喋り口で続ける。
「そしてユキマサ・ニシナを、ボクの目の前で姉上を略奪した先輩を、いずれ
やっぱりそういう話になってくるのかと若人の痴情の
「えぇ……じゃあ私としては協力できんな」
「なぜですか同志ハヤテ!」
「同志やめろ。私はユキマサをダメ人間だと思っているが、幸せになってほしいとも思っている」
もっとも、彼がああなってしまった原因は、ハヤテが甘やかして育てたことが大きいだろう。シオンと会えばもう少しマシになるだろうか。
「おふたりはどういう関係性なんですか……?」
「まあ家族のようなものだ。血筋的には従兄妹だな」
「なるほど、ユキマサ先輩は従妹殿を蘇生したのですね」
「蘇生の件を知ってるなら言え。母親だ」
「ああお母様でしたか。どうりで……」
こいつと話しているとやたらと体力が削られるな、とハヤテは思った。まず持っているエネルギーが違う。まともに取り合おうとするだけ無駄だ。
「おう、アスター、ハヤテ。準備終わったぞ」
そこで助け舟が来た。髭を剃って最近買ったばかりのスーツを着たユキマサが、引き戸をがらがらと開けてこちらを覗いてきた。
「えっ、私も行くのか?」
「まあ……おまえも顔を合わせた方がいいと思うし……」
歯切れ悪くユキマサが説明する。
「なるほど親の公認が欲しいのか。よしきた」
ハヤテが彼の言いたいことを要約して口にすると、ユキマサは下を向いて黙った。隣のアスターの視線が痛い。
「いいから行くぞ」
ユキマサは踵を返し、診療所から出ていく。ハヤテは扉に「診療受け付けません」の札が下がっているのを確認して、ふたりのあとを追いかけた。
「どこに向かうんだ?」
アスターは歩く速度を緩め、ハヤテの隣に並んだ。
「
菩提樹街。伏龍街の外の世界だ。特に空気が綺麗で、夜には満天の星空が望めるという。盆休みに旅行しようと思っていたのはこの街だった。
「わかった。明日までには帰れるか?」
「あ……えっと、それはわかりません」
アスターは声をひそめて言った。ユキマサのことを気にしているのか。
「うん、気にしなくていい。私はひとりでも帰れるからな」
そうですか、とアスターは申し訳なさそうに言って、またハヤテの前を歩いた。
シオンと結ばれて、ユキマサが外の世界で暮らすと言ったらどうしようか。そんなことを考えていた。
もちろん親としては祝福すべきことに違いない。が、ユキマサと離れるということは、ハヤテにとって文字通り死を意味していた。自分を優先するか、息子を優先するか──答えは明白なはずなのに、どうしても、ユキマサと離れることが怖かった。再び生き返ることなく死に続けるのは、彼女にとってひどく恐ろしいことだ。
三人は七丁目にある大きな駅に到着した。伏龍街の外までは特急電車が出ているらしい。ハヤテは人混みに紛れてふたりを見失わないように、こっそりユキマサのスーツの裾を摘む。しばらくそうしていると、ユキマサが買った切符を渡してきた。
特徴的な真っ青の車体を持つ電車に乗りこんで、ボックスシートに座る。ハヤテとアスターが窓側を占領し、ユキマサはふたりの間から狭い空を眺めた。
「アスター、菩提樹街の空は青いのか?」
菩提樹街なら青空が見えるだろうと思って以前旅行の計画を立てたが、本当に今も変わらず青いのかは確認のしようがなかった。
アスターはそうですね、としばし考えていた。冷静に考えると変なことを聞いてしまった。ハヤテは少し恥ずかしくなって、質問を取り消そうとしたが。
「青いです。ボクが見たどの空よりも」
──違った。彼は真剣に、彼女の問いに向き合っていた。
ハヤテが蘇生者であることを知っているということは、ハヤテのどこにも行けない運命も知っているということだ。ゆえにアスターは、ハヤテが満足するような答えを出すために、しばらく考えていたのだろう。
「そうか。それは楽しみだ」
列車が発車する。激しく上下に揺れ、伏龍街の景色が後ろに遠ざかる。
ハヤテが外の世界にいられるのは丸一日。明日の午前中には
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