トンネルを抜けてからも移動を続けた。菩提樹街一丁目で降りると、そこから二十分ほど汽車に乗った。駅で降りると、山道を登った。


 ユキマサは普段覇気のない表情をしているが、ハヤテにはわかる。彼はだんだんと、希望を抱いていた。ハヤテは気の毒になって、何とか話題を逸らした。


「ああそうか、ユキマサ。菩提樹街に来るのは初めてか」

「そうだな、思ったより空気が澄んだ街だ」


 ユキマサは背の高い森を見上げる。ハヤテもつられて上を見ると──そこには使徒がいた。

 巨大な猛禽もうきん類型の使徒だ。ハヤテは反射的に手を伸ばし、その喉元を締めようとした──が。


 使徒は、ハヤテの指先で動きを止めていた。


「お怪我はありませんか!?」


 森の奥から、澄んだ女性の声が聞こえた。ハヤテより先に、ユキマサは彼女の姿を認めた。


 ブルネットの髪をボブカットにした女性だ。彼女が、使徒の動きを止めたのだ。ハヤテは目の前で起こっている現象と、彼女の容姿とで、彼女は誰であるかを察した。


「シオ──」


 ユキマサが発しかけた名前を、彼女は上書きした。


「わたしはこの街に住んでいる、エリカ・フカザワという者です。皆さんは旅のお方ですか?」


 そして、アスターの言っていたことは本当であったということも、わかった。


 ハヤテは手を下ろして、ユキマサの方を向いた。まだ状況が呑み込めていない。蘇生された可能性はない、なぜならユキマサは父親以外で、唯一、死者蘇生ができる医者なのだから。


「エリカ、さん」


 やっと絞り出した一言がそれだった。ハヤテは、なぜ彼だけこんな苦難を受けなければならないのかと、柄にもなく運命を憎んだ。ひとりだけの愛しい息子を、誰もいない楽園へ閉じ込めてしまいたい。ハヤテはそんな空想を抱いたが、それでは彼のためにならないことも知っていた。


「すてきな、名前ですね」


 それでも、彼は笑った。絶望の淵で彼は、運命に立ち向かおうとするのだ。


 以前の彼ならこうはならなかった。彼を変えたのは確実にシオンだ。シオンとの出会いが、シオンとの別れを受け入れるだけの強さを与えたのだ。


「あ、そうだ。皆さん、お腹空いてませんか?」


 シオンは全て忘れて、白紙に戻ったまま笑う。


「良ければわたしの料理を食べていきませんか?」


 ユキマサは頷いた。アスターとハヤテに拒否権はなかった。


 そのまま五分ほど山道を歩いた。その間ずっと、ユキマサは黙っていた。ふとエリカは振り返って、あ、と声を上げた。


「すみません、わたしばっかり喋っちゃって……もしかして、ご迷惑でした?」

「ああいや、全然そんなことはない。こいつ、君があんまり美人だから、萎縮してるみたいだ」

「そうですよ、先輩、あんまり女性に慣れてなくて」


 アスターとハヤテがフォローに回ると、エリカは表情を緩ませた。


「あはは、そうなんですか。ハヤテさんもかわいらしいのに」


 明るく、聡明で、人を傷つけない女性だ。きっとここは、以前と何も変わらないのだろう。関係性と、その名前と、十数年の空白とだけが、ユキマサの心にわだかまりを生じさせていた。そんなの気にせず愛してしまえばいいじゃないか、と言いたかったが、きっと聞き入れてはくれないだろう。


「ここです、わたしのお店」


 「フカザワ料理店」という暖簾を掲げた日本家屋の前で、エリカは歩みを止めた。


「仕込みは終わってるので、好きなものを頼んでくださいね」


 エリカに続き、ハヤテは店に入る。後ろは怖くて見られなかった。


 席に着くと、エリカはお品書きを渡す。


「今日は美味しい山菜が採れたので、この天ぷら付きのうどんがオススメですよ」


 エリカは「冷やしうどん」と書かれたメニューを指さす。


「ああ、じゃあ私はそれを」

「ボクもそれで」


 アスターは事前に知っていたぶん、心の準備が出来ていたらしい。彼には血縁があるし、ハヤテのようなしがらみもない。いくらでもやり直せるのだ。


 ユキマサはお品書きを見なかった。俯いたまま、メニュー名を消えそうな声で呟いた。


「……肉じゃが」


 それは、シオンのいちばんの得意料理だ。ユキマサは何度か、彼女の作った肉じゃがを食べていた。


「肉じゃがですか。わかりました」


 エリカは花が咲いたような笑顔を見せる。


 しかし彼女は立ち去ろうとしない。そして、躊躇ためらいつつも、ユキマサに向かってこう言った。


「あの、お兄さん」


 ユキマサが顔を上げる。すこし疲れた顔だった。エリカは彼の顔を覗き込むと、不安げな声で、言った。


「もしかしてどこかで会ったこと、ありますか」


 ユキマサは息を呑み、しばらく黙っていた。


「わたし、八年前より昔の記憶がないんです。お兄さんは、その頃の知り合いなのかなあ、って」


 彼はそのとき、ようやく声を発した。


「いや」できるだけ、平然と聞こえるように。「人違いだと思いますよ」


 ユキマサは仏頂面なようでいて、感情が豊かだ。悲しみも何も感じないような顔の下で、実は無言で苦しんでいる。それを感じとるのがハヤテの仕事だ。


「……はは、そうですよね。ごめんなさい、わたしよく変わってるって言われるんです」


 エリカはエプロンをひるがえして、厨房の奥へ消えた。ユキマサは窓の外を眺めて、何も言わずに頬杖をいている。


「俺、もう一度やり直してみる」


 ユキマサは横目でハヤテを見た。笑みが口端に浮かんでいる。


「人生は長いからな、ハヤテ」


 彼は傷ついたぶん強くなって、泣いたぶん人に優しくなった。これを人は、成長という。


「うん、そうだな」


 しばらくすると厨房からだしの匂いがして、エリカがざるうどんを持って出てきた。アスターとハヤテの前にそれを置くと、「肉じゃがもすぐに持ってきますからね」とユキマサに声をかけた。今度はまっすぐ、自分の意思で彼女の顔を見ていた。


 彼女の言ったとおり肉じゃがはすぐにやってきた。ユキマサが箸を取ったのに合わせ、アスターとハヤテも手を合わせる。


「いただきます」


 ハヤテは麺を二、三本まとめて取って、つゆに浸し、唇に挟んでずるずると啜る。コシのあるうどんだ。噛むたびにぷるぷると麺が弾け、甘い出汁が踊る。山菜の天ぷらも一緒に口に入れると、揚げたての衣がザクザクと音を立てた。


 目の前を見ると、ユキマサがもくもくと肉じゃがを食べていた。別人になっても味は変わらないのか、嫌な夢でも見ているかのように、額に汗をかいていた。それでも、彼は退かなかった。


 初めにハヤテが、その次にユキマサが食べ終わる。最後にアスターの皿が空になり、全員で「ご馳走様」を揃えると、ずっと傍でユキマサを見守っていたエリカは「お粗末さまでした」と返した。


 アスターは帰り際に、エリカに尋ねた。


「このおうどん、美味しかったです。エリカさんはひとりでお店をやっていらっしゃるんですか?」

「いえ、本当は店主夫妻がいて……わたしはただの従業員なんです」


 その言葉を聞くと、ユキマサはエリカの左手を取って、笑いかけた。


「じゃあ、次は店主さんがいるときにでも来ます」


 エリカの左薬指には、ユキマサと同じ指輪が輝いていた。彼女もユキマサと同じように、その指輪の片割れを探していたのかもしれない。エリカの頬が赤く染まる。


「あの、やっぱりどこかで」

「……そうですね。エリカさんに似た恋人は昔いましたが、今はもういません。エリカさんも、私と同じように、誰かと重ねているのかもしれませんよ」


 ユキマサは踵を返して、料理店を去った。


 彼の表情は、シオンを探していたときよりもかえって明るい。アスターの「エリカに会わせる」という選択は、正解だったのだと思い知らされた。


「観光して帰るか?」


 ハヤテがユキマサに訊くと、彼は答えた。


「いいよ。また来るから」


 アスターは次の仕事があると言って、伏龍街行きの列車には乗らなかった。

 ハヤテとユキマサ、ふたりを乗せた列車は、青い空を切って、もと来た方へ静かに走っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る