参
トンネルを抜けてからも移動を続けた。菩提樹街一丁目で降りると、そこから二十分ほど汽車に乗った。駅で降りると、山道を登った。
ユキマサは普段覇気のない表情をしているが、ハヤテにはわかる。彼はだんだんと、希望を抱いていた。ハヤテは気の毒になって、何とか話題を逸らした。
「ああそうか、ユキマサ。菩提樹街に来るのは初めてか」
「そうだな、思ったより空気が澄んだ街だ」
ユキマサは背の高い森を見上げる。ハヤテもつられて上を見ると──そこには使徒がいた。
巨大な
使徒は、ハヤテの指先で動きを止めていた。
「お怪我はありませんか!?」
森の奥から、澄んだ女性の声が聞こえた。ハヤテより先に、ユキマサは彼女の姿を認めた。
ブルネットの髪をボブカットにした女性だ。彼女が核を操り、使徒の動きを止めたのだ。ハヤテは目の前で起こっている現象と、彼女の容姿とで、彼女は誰であるかを察した。
「シオ──」
ユキマサが発しかけた名前を、彼女は上書きした。
「わたしはこの街に住んでいる、エリカ・フカザワという者です。皆さんは旅のお方ですか?」
そして、アスターの言っていたことは本当であったということも、わかった。
ハヤテは手を下ろして、ユキマサの方を向いた。まだ状況が呑み込めていない。蘇生された可能性はない、なぜならユキマサは父親以外で、唯一、死者蘇生ができる医者なのだから。
「エリカ、さん」
やっと絞り出した一言がそれだった。ハヤテは、なぜ彼だけこんな苦難を受けなければならないのかと、柄にもなく運命を憎んだ。ひとりだけの愛しい息子を、誰もいない楽園へ閉じ込めてしまいたい。ハヤテはそんな空想を抱いたが、それでは彼のためにならないことも知っていた。
「すてきな、名前ですね」
それでも、彼は笑った。絶望の淵で彼は、運命に立ち向かおうとするのだ。
以前の彼ならこうはならなかった。彼を変えたのは確実にシオンだ。シオンとの出会いが、シオンとの別れを受け入れるだけの強さを与えたのだ。
「あ、そうだ。皆さん、お腹空いてませんか?」
シオンは全て忘れて、白紙に戻ったまま笑う。
「良ければわたしの料理を食べていきませんか?」
ユキマサは頷いた。アスターとハヤテに拒否権はなかった。
そのまま五分ほど山道を歩いた。その間ずっと、ユキマサは黙っていた。ふとエリカは振り返って、あ、と声を上げた。
「すみません、わたしばっかり喋っちゃって……もしかして、ご迷惑でした?」
「ああいや、全然そんなことはない。こいつ、君があんまり美人だから、萎縮してるみたいだ」
「そうですよ、先輩、あんまり女性に慣れてなくて」
アスターとハヤテがフォローに回ると、エリカは表情を緩ませた。
「あはは、そうなんですか。ハヤテさんもかわいらしいのに」
明るく、聡明で、人を傷つけない女性だ。きっとここは、以前と何も変わらないのだろう。関係性と、その名前と、十数年の空白とだけが、ユキマサの心にわだかまりを生じさせていた。そんなの気にせず愛してしまえばいいじゃないか、と言いたかったが、きっと聞き入れてはくれないだろう。
「ここです、わたしのお店」
「フカザワ料理店」という暖簾を掲げた日本家屋の前で、エリカは歩みを止めた。
「仕込みは終わってるので、好きなものを頼んでくださいね」
エリカに続き、ハヤテは店に入る。後ろは怖くて見られなかった。
席に着くと、エリカはお品書きを渡す。
「今日は美味しい山菜が採れたので、この天ぷら付きのうどんがオススメですよ」
エリカは「冷やしうどん」と書かれたメニューを指さす。
「ああ、じゃあ私はそれを」
「ボクもそれで」
アスターは事前に知っていたぶん、心の準備が出来ていたらしい。彼には血縁があるし、ハヤテのようなしがらみもない。いくらでもやり直せるのだ。
ユキマサはお品書きを見なかった。俯いたまま、メニュー名を消えそうな声で呟いた。
「……肉じゃが」
それは、シオンのいちばんの得意料理だ。ユキマサは何度か、彼女の作った肉じゃがを食べていた。
「肉じゃがですか。わかりました」
エリカは花が咲いたような笑顔を見せる。
しかし彼女は立ち去ろうとしない。そして、
「あの、お兄さん」
ユキマサが顔を上げる。すこし疲れた顔だった。エリカは彼の顔を覗き込むと、不安げな声で、言った。
「もしかしてどこかで会ったこと、ありますか」
ユキマサは息を呑み、しばらく黙っていた。
「わたし、八年前より昔の記憶がないんです。お兄さんは、その頃の知り合いなのかなあ、って」
彼はそのとき、ようやく声を発した。
「いや」できるだけ、平然と聞こえるように。「人違いだと思いますよ」
ユキマサは仏頂面なようでいて、感情が豊かだ。悲しみも何も感じないような顔の下で、実は無言で苦しんでいる。それを感じとるのがハヤテの仕事だ。
「……はは、そうですよね。ごめんなさい、わたしよく変わってるって言われるんです」
エリカはエプロンを
「俺、もう一度やり直してみる」
ユキマサは横目でハヤテを見た。笑みが口端に浮かんでいる。
「人生は長いからな、ハヤテ」
彼は傷ついたぶん強くなって、泣いたぶん人に優しくなった。これを人は、成長という。
「うん、そうだな」
しばらくすると厨房からだしの匂いがして、エリカがざるうどんを持って出てきた。アスターとハヤテの前にそれを置くと、「肉じゃがもすぐに持ってきますからね」とユキマサに声をかけた。今度はまっすぐ、自分の意思で彼女の顔を見ていた。
彼女の言ったとおり肉じゃがはすぐにやってきた。ユキマサが箸を取ったのに合わせ、アスターとハヤテも手を合わせる。
「いただきます」
ハヤテは麺を二、三本まとめて取って、つゆに浸し、唇に挟んでずるずると啜る。コシのあるうどんだ。噛むたびにぷるぷると麺が弾け、甘い出汁が踊る。山菜の天ぷらも一緒に口に入れると、揚げたての衣がザクザクと音を立てた。
目の前を見ると、ユキマサがもくもくと肉じゃがを食べていた。別人になっても味は変わらないのか、嫌な夢でも見ているかのように、額に汗をかいていた。それでも、彼は退かなかった。
初めにハヤテが、その次にユキマサが食べ終わる。最後にアスターの皿が空になり、全員で「ご馳走様」を揃えると、ずっと傍でユキマサを見守っていたエリカは「お粗末さまでした」と返した。
アスターは帰り際に、エリカに尋ねた。
「このおうどん、美味しかったです。エリカさんはひとりでお店をやっていらっしゃるんですか?」
「いえ、本当は店主夫妻がいて……わたしはただの従業員なんです」
その言葉を聞くと、ユキマサはエリカの左手を取って、笑いかけた。
「じゃあ、次は店主さんがいるときにでも来ます」
エリカの左薬指には、ユキマサと同じ指輪が輝いていた。彼女もユキマサと同じように、その指輪の片割れを探していたのかもしれない。エリカの頬が赤く染まる。
「あの、やっぱりどこかで」
「……そうですね。エリカさんに似た恋人は昔いましたが、今はもういません。エリカさんも、私と同じように、誰かと重ねているのかもしれませんよ」
ユキマサは踵を返して、料理店を去った。
彼の表情は、シオンを探していたときよりもかえって明るい。アスターの「エリカに会わせる」という選択は、正解だったのだと思い知らされた。
「観光して帰るか?」
ハヤテがユキマサに訊くと、彼は答えた。
「いいよ。また来るから」
アスターは次の仕事があると言って、伏龍街行きの列車には乗らなかった。
ハヤテとユキマサ、ふたりを乗せた列車は、青い空を切って、もと来た方へ静かに走っていった。
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