ユキマサは、過去の夢を見ていた。



 十歳の時の夢だ。もう思い出したくもないのに、身体が弱っているときには心も弱るらしい。


 話は、まだこの街が伏龍街でなかったときに遡る。


 行正の家には父親がいなかった。行正が物心つく前に別れ、彼は母親に引き取られた。


 母親の名前は桐ヶ谷きりがや幸恵さちえ。離婚して彼女の名字は旧姓に戻ったものの、行正の名字はそのままにしておいた。大人になってわかったことだが、これは行正の学校での外聞を考えてのことだった。


「行正、お前は強く生きろよ」


 それが母の口癖だ。母は美しい人で、優しい人で、強い人だった。


 行正が幼いときは、よく母方の祖父に「小さい頃の幸恵によく似とるなあ」と言われた。それほど顔立ちが似ているのだ。母に似て黒い髪、日に当たるときらきらと輝く金の瞳。祖父は自分の身体をとても愛しく思っていて、実家に帰るたびに抱きしめられ、頭を撫でられた。


「母さん、お仕事忙しい?」


 母は警察の巡査をしていた。いわゆるお巡りさんだ。


 男ばかりの家系で育てられ、旧華族という家柄も相まって、彼女は警察官になるための勉強ばかりをさせられた。彼女自身自分の職を誇りに思っており、背筋を伸ばして巡回する母の姿は行正の憧れだった。


「ううん、忙しくないよ。どうした?」

「あのね、今日、作文を褒められたんだ」

「へえ、どんなこと書いたんだ?」


 行正はどきどきしながら作文を母に見せた。「しょう来のゆめ」と書かれた作文の内容は、今でも鮮烈に覚えている。


 あ、やめろ、と大人になったユキマサの心が叫んだ。しかし夢は止まらない。作文を読んだ母は、明らかにがっかりとした表情を浮かべた。


「ぼくは、お父さんのようなおいしゃさんになりたいです」


 行正は確かにそう書いた。母はため息をついた。行正が初めて、母に冷たい態度を取られた瞬間だ。


 ああ、やめろ、その先を言うな。


「母さんの仕事は羨ましくないのか?」


 その言葉は、行正の心に重くのしかかった。今でもその言葉は時々思い出されて、制服姿の巡査を見るたびに怖くなる。


「えっと、でもぼく、お医者さんになりたくて」

「……うん。行正の夢なら、母さん、応援するよ」


 次の瞬間には、いつもの優しい母がいた。母は髪が短く、たまに男性に間違えられた。それくらい強く、優しくなければ、女性はひとりで立てない時代だった。


 母は行正の中で常に正しい存在で、だからこそ行正は、医者という職業に忌避感を抱いていた。


 人の傷を治すなんて恐ろしい。人の身体の中を知っているなんて恐ろしい。そう思いながらも、行正は母のいない間に、押し入れの中を覗いていた。


 大きなつづらが押し入れの下段いっぱいに封じ込まれていて、その中には父が置いていった書物が沢山入っていた。オランダ語や英語で書かれたものも多く、行正は医術書を通して言葉を学んだ。医術書を読んでいる間は、父と会話をしているような気がした。


 そして──行正の人生は、ここで狂った。


「死体復活ノ書」


 紙を数十枚束ねて糸で縫っただけの簡素な医術書だった。行正は落胆したが、同時に何か惹かれるものも感じた。母が玄関の引き戸を開ける音がする。行正は慌ててそれを懐にしまい、つづらを押し入れに戻した。


 忘れない。初めてその本を読んだときの興奮とたかぶりと恐怖と嫌悪を。忘れることはないだろう、行正が今後行正である限り。


「特別の器具を用いて施術は行ふべし。蘇生する人間は厳正に選ぶべし。本当にかれが生きている理由を見つける必要がある場合にのみ行ふべし」


 父が自筆で書いたのか、ところどころ墨がかすれていた。しかし必死さは伝わった。きっとこれが自分の運命なのだと思った。


 そして──八月十四日。


「召集がかかった。ごめんな行正、ひとりでお留守番できるか?」


 行正は父親の本を読む機会が来たと少し喜びながら、母の言葉をうべなった。あのとき、蘇生の書を読みながら聞いたラジオの音声は、一生忘れることはないだろう。


「三十六丁目、一ヶ丘コンサートホールで毒ガスによる大量殺人事件があり、使徒の襲撃が発生がございました。


 現在現場は収まっており、使徒は巡査ひとりを犠牲に討伐されました。……」


 行正の神経がぴんと尖る。ラジオの音声と共に、電話が高く鳴いた。


 ジリリリリリ、ジリリリリリ、と、責めるように、何度も鳴く。しかしここで出なければ知りえないこともあるのだと、行正は思いきって電話を取った。


「はい、仁科です……」


「ああ、桐ヶ谷巡査の息子さん……あのね、今から署に来てもらえるかな」


 電話口から聞こえる中年男性の声は、明らかに沈んでいた。行正は羽織を着て、お守り代わりにこっそりと蘇生の書をしまった。

 


 行正が駆けつけたときには、もう何もかもが遅かった。母親は龍に腹を突かれて一撃死。遺体は見るも無惨に傷つけられていたが、顔だけは無事だった。


 いつも優しかった母親は、安らかな顔で眠りについていた。


「行正くん、もうひとつ、署に呼んだ理由があってね」


 母の上司である小太りの警部が、行正に一枚の便箋紙を渡した。


「読めるかい、英語なんだけど……」


 そこには確かに、「わたしの身体を差し上げます。蘇生に使ってください コーネリア・ブライス」と書かれていた。


「これは……」


「宛先は仁科にしなただし。君のお父さんだ。しかし君のお父さんは、数年前から行方が掴めなくてね。悪いんだけど、お父さんに届けてくれない?」


 行正は、ひどく絶望した。母は父と連絡を取らなかったのではない。取れなかったのだ。彼が家に医術書を置いていったのも、きっと捨てたかったからだ。人類の禁忌を。


 行正は暗闇に立たされたような孤独をその小さい身体に受けた。しかし、懐には一筋の光があった。


「ぼくが、引き取ります。母の遺体とコーネリアさんの遺体を」


 え、と警部は声を上げた。冗談を、と言いかけたが、行正の目を見てその先を呑み込んだ。


「……わかった。いいよ。ただ、君は、生きてね」


 行正は深く頷き、遺体の手配を進めるように周りの大人に頼んだ。行正がすべきことはひとつ。作りかけの機械を完成させることだ。


 母はきっと、気づいていた。行正がなにかに向けて準備を進めていることも、それが父が作った禁忌だということも。


 しかし母は口を出さなかった。何よりも正しい母の、何よりも強い後押しを受けて、彼は機械を図式通りに組みたてた。


 初めての人体蘇生は庭で行われた。警察から運ばれたコーネリアの遺体の頭部を解剖し、中に母親の脳を入れ、神経を繋ぐ。回復作用のある人工脳漿のうしょうを詰め、丁寧に縫い合わせた。


 コーネリアは高貴な家柄だという。元の家族に見つかったら大変だ、と思って、行正は美容整形も施した。鼻は少し低く、顎は鋭く、唇は小さく。まるで工作でもしている気分で、彼は手術を続けた。


 両の手が血で染まるころ、彼は人体蘇生の準備を整え終えた。コーネリアの肺は洗浄し、毒ガスで汚染された血液は致死量を下回るまで瀉血し輸血を繰り返した。そして行正は、装置のスイッチを入れた。


「母さん……どうか」


 電流が流れはじめ、手足が再び動き始める。五分ほど電圧をかけたのち、行正は電源を落とした。


 実験の趨勢すうせいを、行正は気弱に見守った。すると、ゆっくりとコーネリアの身体が起き上がり、こちらを見下ろすとにこりと笑いかけた。


「行正。そこで何してるんだ?父さんの真似か?」


 結果から言うと、手術は大成功だった。しかし行正は憧れの母が別人の中に入って話している様子は、気味が悪かった。


「……行正?母さんがどうかしたか?」


 そう言いながら、母は自分の身体に視線を下ろした。血だらけでびりびりになってはいたものの、シルクで出来た夏らしいワンピースは、生前の母の好みではなかった。母はもっと機能性を重視した服を着ていた。


「かあさ……」

「……なんだ、これ」


 母は行正の背後を見て、ついに口を開いた。背後には磨かれた窓があった。彼女は頬に触れ、目に触れ、髪に触れ、鏡の中の少女が同じ動きをしているのを見てようやく真実に気がついた。


「私、誰になったんだ……」


 彼女は行正を見下ろした。その瞳は空よりも少し暗い青で、母のものとは思えなかった。


「お前がやったのか、行正」


 責められているようで、怖くなった。正直に頷きはするものの、母の表情が晴れないのを見て自分は間違ったことをしてしまった、と思った。


「……行正、過ぎたことはいいんだ。泣かないでくれ」


 母に言われてはじめて、自分が泣いていることに気づいた。ほてった手のひらで涙を拭うと、汗が目にしみた。痛くてまた泣いた。


 母は手術台から降りると、行正の涙を細い指で掬った。


「行正、いいかよく聞いてくれ。私は……うん、桐ヶ谷きりがやはやてという」


 行正はつと視線を上げ、母の顔を見た。母は表情も顔立ちも声も、まるきり別人になっていた。


「お前の従姉だ。私の叔母、お前の母親が亡くなったから、私はお前を守りに来たんだ」


 これでいいだろ、と言いながら、颯は行正の頭を撫でた。母はもう死んでいた。



 じわりと額に汗が染み出している。ハヤテはその汗を冷やした手ぬぐいで拭きながら、いつくしみを含んだ瞳を彼に向けた。


「かあさん……」


 うなされながら、ユキマサは言った。苦しそうな、しかしどこか救われたような表情でそう呼ぶのだから、ハヤテは気が気でなかった。


「ああ、ここにいるからな」


 ハヤテがユキマサの頬を撫でると、彼はなにかから解き放たれたように、眉を下げて笑った。

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