第四話 遺品、冷やしそば
壱
伏龍街八丁目十二。
ミンミンゼミの合唱が街を包み、どこで何をしていても汗が染みでるような熱気がまとわりついていた。
「あー、ユキマサあついー……」
午前七時、ハヤテはいつも通りユキマサを起こしに行く。今日は入院患者がいたので、廊下で寝ていた。
「暑いな。あー、昨日飲みすぎた。頭が痛い……」
目の上を擦りながら、ユキマサは二階まで上がる。明日から待ちに待ったお盆休みだ。ユキマサはハヤテとの約束を忠実に守り、街の外に一泊する計画を立てていた。
待合室のラジオを回収し、居間に置く。
「今季は過去最高の暑さだそうでございますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか、……」
ラジオパーソナリティの大袈裟な喋り口が
「今日は……入院患者を追い出して、爺ちゃんの腰診たら終わり。死者が出なきゃな」
「そうか。それはいい。そいつが出ていったら早めに閉めて、明日の準備でもするか」
牛乳を啜りながら、うん、とユキマサは頷く。彼も相当楽しみにしているらしく、一週間前からは毎日カウントダウンを続けている。
「着替えてくる。……あー、腰いてえ……」
ユキマサはあぐらの姿勢から立ち上がり、自分の部屋へ入っていく。
──ハヤテの命日は明日だ。
ハヤテの前の身体が埋葬された墓は伏龍街の隅、三十六丁目にあり、なかなか頻繁に向かえる場所ではない。だからこそ旅を口実に遠出して、ついでに墓参りも済ませよう。そう言ったのはユキマサだった。
ユキマサは毎年欠かさずハヤテの前の身体の墓参りをした。どんなに忙しくても、それだけは守っていた。呪縛のようでハヤテは好きではなかった。
しばらく待っていると、半袖シャツ姿のユキマサが出てくる。ホルスターの素材や白衣の袖の長さは変わらないが、シャツが半袖だとだいぶ違うらしい。
「よしハヤテ。行くか」
前日の酒がまだ残っているのか、ユキマサは少し眠たげに告げた。ハヤテはエプロンを外して、彼のあとについて行った。
「……加齢で背骨の間の軟骨がすり減っているみたいですね。鎮痛剤出しておきます」
普段通り働くユキマサを見て、二日酔いでしんどいのにえらいな、とハヤテは褒めたい気持ちになった。人前で褒めるなと言われているので、その気持ちをグッと抑えて、領収書を書き込んだ。
受付で処方箋を渡すと、診察室に繋がるドアからユキマサが顔を出して訊いてきた。
「もういいか?」
老人は帰ったか、ということだろう。ハヤテは老人がドアを開けるのを見てから、頷いた。
入院患者は朝一番に帰した。もうこれ以上やることはないぞ、と言われて、ハヤテは肩から力が抜けた。
「俺は上で荷造りをする。おまえはこの札をかけてきてくれ」
ユキマサが差し出したのは、「緊急時以外診察受け付けません」と書かれたプレートだ。ハヤテはおどけて敬礼をすると、走って診療所から飛び出した。
戻ってくると、既にユキマサの姿はなかった。二階に上り、居間を確認するが、ちゃぶ台に白衣が脱ぎ捨ててあるだけだ。これは急いで荷造りを始めたな、とうきうきしながら、ハヤテはユキマサの部屋の襖を開けた。
そこには、ユキマサが横たわっていた。
「ユキマサ? まだ眠いのか?」
返事はない。横たわっている、というより、倒れている、という表現の方が正しいだろうか。白衣を脱ぎ捨ててそのまま部屋に入ったような姿で、彼は倒れていた。
「……おい、ユキマサ?」
ハヤテは彼の傍にしゃがみこみ、肩を揺する。んー、と苦しげなうめき声を上げながら、ユキマサは薄く目を開いた。
まつ毛の隙間から覗く金の瞳は、焦点があっていない。
ハヤテには心当たりがあった。汗をかいた額に手を当てると、案の定熱があった。
「あー……だから朝から元気なかったのか」
「……ん? なんのことだ……」
「しかも自覚なしか。ちょっと端に寄ってくれ。布団を敷く」
ハヤテはユキマサを部屋の壁際に寄せて、押し入れからしばらく使っていない布団を取り出した。どすん、と置くと埃が舞って、これだと逆にまずいな、と悟った。
「……仕方ない、ユキマサ。私の部屋で寝ろ」
「あ? なんで……」
「いいから寝ろ」
仕方ないな、と言いながらユキマサはおもむろに立ち上がり、隣の部屋まで移動する。ハヤテは端に寄せていた自分の布団を敷いて、その上に寝るようユキマサに言った。
「はー、何年ぶりだ、お前が熱出すの……」
「あ……えっと、十二年ぶり、くらいか」
「そんなに経ったか。まあ私もお前が子供だったころの記憶しか出てこないな、たしかに」
ユキマサに水銀の体温計を渡し、体温を測らせる。その間にハヤテはエプロンを付け、台所に向かった。窓の外は、もう既に明るかった。
「ユキマサ、腹減ったか?」
「減った」
「よし、じゃあ冷麦を作ってやろう。冷たいものが食べたいだろうし」
消えそうな声でユキマサは相槌を打つ。測っている間に寝るだろうな、と思いつつ、ハヤテは冷麦を茹ではじめる。
その間、ユキマサの好きなきゅうりと焼豚を細切りにして、甘めの酢醤油にカラシを混ぜたタレを作る。だいたい五分ほどだったところで冷麦を鍋から引きあげ、ザルに入れて水で冷やす。
深めの皿を二枚用意し、麺をだいたい二等分にする。自分の分に気持ち多めに具を乗せ、甘辛ダレをかけると、昔料理雑誌で見た冷やしそばが完成した。麺は仕方なく冷麦で代用したが、悪いようにはならないだろう。
冷やし冷麦という字面が少し滑稽なので、ハヤテはこれを便宜上冷やしそばと呼ぶことにした。
「ユキマサ、ご飯できたぞ。食べるか?」
ご飯という単語に反応したのか、ユキマサが身体を起こす。食べる、と言いながら、こちらに手を伸ばしてきた。
「はいはい、待ってろ」
ハヤテは冷やしそばをキッチンの台に置いて、押し入れの中から記帳台を取り出す。そしてその上に自分の分の冷やしそばを載せ、もう一つをユキマサに手渡した。
「いただきます」
ふたりの声が揃う。ハヤテは箸で麺と具をつかみ、そのままするりと啜る。
甘い。塩辛い。さっぱりとしたタレの風味が、夏の暑さにぴったりだ。
「レモンを絞るのもありかもな」
「え、俺はもっと甘いほうが好き」
ふたりはずるずると冷やしそばを食べながら話す。ユキマサの目は、打って変わって輝いていた。
「ユキマサ、熱はいくつあった」
「ああ、けっこう高かった。疲れてたんだな、俺」
そうか、と言って、ハヤテはまた麺を啜る。ふたりとも無事完食し、ハヤテは箸と器をキッチンへ持っていく。
「ユキマサ、寝てていいぞ……って、もう寝てる」
皿を洗い終えた頃には、既にユキマサは眠りについていた。なにかの夢を見ているのか、それとも見ていないのか、寝息は安らかで、暖かかった。
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