第139話 閑話 厨房に嵐が吹き荒れる

城の一角を担う厨房は静けさに満ちていた。本来なら厨房の中はいつでも騒々しいものだ。城に勤める人間は多いし、その人数の胃袋を満たす厨房はいつでも人手不足で、仕込みから仕上げまで時間との戦いだ。それなのに今日の厨房は咳払い一つできないような緊張感がみなぎっている。下働きの者や見習いなどは、音を立てないように注意しながら下ごしらえを始めていた。緊張のせいか手が震えている。その震えが厨房の緊張感を表しているようだ。


原因は料理長だ。先週から分かっていたことだが、今日の昼食について陛下から不要と言われていたからだ。これが出かけるから、他の貴族のもてなしを受けるから、などの理由であれば料理長も不足はない。しかし今回は離宮の姫様のもてなしを受けるという。そのことが料理長は不満だった。10歳の子供の料理と自分の料理を並べられ比較されるのだ。不満に思わないはずがない。


料理長は全身から不機嫌なオーラが出ていた。ここにスピリチュアルな人間はいないだろうが、人間は本能がある。その本能で感じるのだろう。今、料理長に近づいてはいけない。怒らせてはいけない。そう感じるのだ。調理の音は響くが無駄話は一つも聞こえてはこなかった。




料理長の目は凍てつく氷のように冷たく光っている。姫様の事を考えているのだろうか。


前回の昼食会については仕方がないと思う。なんでもキッチンを作ってもらったお礼、という事だった。それは納得のいく理由だ。しかし、今回は陛下が昼食会を希望されたと聞いている。陛下は自分の料理よりも姫の料理を気に入っている、ということになるのだ。それに加えて、姫様は朝食はともかく昼と夜は自分で作られている。厨房の料理よりも自分で作る方が美味しいという事なのか。人は美味しいものを食べたいし、人が作った方が良いということで貴族層が自分で料理をすることは無い。まして離宮の主人は『姫』なのだ。自分で料理をする、という発想さえないはずだ。それなのに自炊をするという。離宮の侍女たちに話を聞くと、後片付けまで自分でこなしているらしい。侍女たちはキッチンにすら入れない、手伝いを申し出ても断られるそうだ。


料理長の思考は尽きない。城下では姫様が考えた料理が流行っているそうだ。流行し始めてから1年。料理長の耳にも入っているし、評判の店にも行って食べてみたこともある。さして美味しいとは思わなかった。それなのに陛下は姫様の料理を希望されたのだ。料理長の山よりも高く、海よりも深いプライドは傷ついていた。この城の料理長を任されるということは、大陸で最高峰という事だ。それなのに10歳の姫に劣ると、陛下に判断されたことは納得がいかなかった。物珍しさだけの料理と並べられるだけでも不愉快なのに、それに劣ると判断された。そのことが納得いかない。


料理長の唇から息が吐き出される。近くで調理をしていた何人かの肩がビクリと震えた。


それを見咎めた料理長より叱責が飛ぶ。


「何をしている」


「「申し訳ありません」」


叱られた料理人たちはとばっちりだ、と思ったが反論できるはずがない。厨房は料理長の城なのだ。理不尽だ、と思いつつも料理人たちは黙々と下ごしらえを続けた。料理長の氷の瞳からブリザードが噴き出している。




厨房は多くのメニューを同時進行で作っている。客と使用人が同じ料理でも問題があるし、貴族間の中でも上下がある。貴族でも全員同じもの、では問題になる。使用する材料にも差が出てくるのは当然だろう。当然のように料理長の頭には使い分ける材料も記憶されている。これが出来なければ仕事にならないからだ。下働きの者が始めに覚える仕事は使用される材料の種類を覚える事、言われたものを問題なく持って来れることから始まる。それがより早く、より正確に出来るようになって、皮むきなどの仕事が始められるようになる。一定以上の仕事が出来なければ次の段階には進めないようになっていた。ある程度の仕事が出来る事、それと身分が無ければ城に勤めることはできない。そこから先はさらに篩にかけられる。城の厨房とは厳しいものだ。だからこそより良いものが出来る。町中の食事処とはわけが違う。そしてその基準を作りあげたのは料理長だった。


自分が料理長を務めるようになってから食事の質は上がっている、底上げをしてきたのは自分なのだ。それなのに物珍しさと流行りだけで自分と比べられるとは。不愉快を通り越して怒りを覚える料理長だった。


何度も繰り返すようだが、料理長のプライドと厨房に対する威信が傷つけられたと思っている。料理長の怒りは陛下に向けるわけにはいかない。そうなれば矛先は当然姫様に向けられる。子供を相手に、相手は異国の姫様だ、と冷静な部分は思うが、怒りを鎮めることは難しかった。料理長の思考はスープストックを作るときのようにグツグツと煮込まれている。尽きない負の感情を抱えている料理長に小さな声がかけられた。相手は今年入ったばかりの新人だ。本来なら新人が料理長に声を掛けることはできない。自分の不機嫌な様子に、他のものたちに声を掛けるように押し付けられたのは間違いないだろう。それに気が付いた料理長は少しだけ反省をする。声に怒りを滲ませないように注意しつつ、新人に返事をする。


「なんだ?」


「陛下がお呼びだそうです」


新人は震える小さな声で料理長に陛下からの呼び出しを告げていた。


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