第7話 耐えるマーサとジョンバーグ伯爵

「信じられません。こんな・・顔と手を洗ったらおしまいじゃないですか。

お嬢様、今からでも隣町まで引き返しましょう。

セオ、馬車の準備をして下さいな」


「マーサ、お風呂に入れないのは困るけど隣町に行ったら明日領主様のとこに間に合わなくなっちゃうわ」


「朝暗いうちに宿を立てば間に合いますとも。

全くお湯もなしでどうやって生活してるのか信じられません」


「その問題を解決して明日は指の皮がふやけるくらいたっぷりと湯浴みしましょうね」


「そんな、明日だなんて。汚れて死んでしまいますよ。肌は息をしてるんですからねお湯と石鹸で綺麗にしないと」


 予想通りマーサが真っ青になっている。


 料理上手で気配りも完璧な侍女の唯一? 唯二の欠点が、コーヒーが滅茶苦茶不味い事と超絶綺麗好きな事。

 ほんの僅かな汚れでも耐えられないらしい。


「マーサ、今回の旅ではこれからも色んなことがあると思うの。少しずつ慣れていこうねって言うのはどうかしら?」


 マーサが眉を顰めてリディアを見た。


「この先もこんな事が?」


「うーん。分かんないけど色々あると思うわ。ねえ、セオ?」


「そこで俺に振るんですか? はあ、まあ色々可能性はあると思いますよ。

何しろリディア様はロレンヌ川に沿って港町を渡り歩くおつもりですから」


 ガックリと肩を落としたマーサ。



 翌日、顔を洗いすっきり爽快のリディアの横で、青い顔のマーサがブツブツと呪文を唱えている。


「大丈夫、綺麗だから。一日位大丈夫・・」


 セオが朝食の準備が出来たと呼びに来た。マーサの顔色に気付いて目線を逸らした。


「さて、行きましょうか。戦いの前の腹ごしらえよ」


 気分を盛り上げようとするリディアに、

「戦いの前は身嗜みが肝心かと」

と、ぶつぶつ呟いている。


「マーサ、大丈夫?」


「えっ? ええ、大丈夫ですよ。

この町の皆さんも頑張ってらっしゃるのですから、この位でへこたれてる訳には参りません」


 青い顔で自分に言い聞かせている。


「「頑張れ! マーサ」」


 リディアとセオは心の底からマーサにエールを送った。



 ジョンバーグ伯爵のマナーハウスは蔦に覆われた迫力ある佇まいで、築百年以上は経っていそうだ。


「ようこそおいで下さいました。こちらへどうぞ」


 執事に案内されたのはホールの奥に設置されたダイスと呼ばれる場所。


 ダイスとはホールより一段高くなっていて領主と騎士達が一緒に食事できる大きなテーブルと複数の椅子が置かれている場所のこと。

 領主の席の後ろには立派な暖炉がしつらえてあった。


 リディアが古めかしい椅子の一つに腰掛けるとギシギシと音がする。

 慌てて腰を浮かせかけた。


 ホールに敷かれた年代物らしき絨毯の端が綻び壁際に飾られている壺がくすんでいる。


(暖炉の上の絵画、ティツィアーノじゃないかしら)


「ようこそおいで下さいました。ポーレット伯爵令嬢」

「初めまして、リディアとお呼びください。

突然お邪魔して申し訳ありません」


「来客は珍しいので少しびっくりしましたが、どう言ったご用件でしょうか?」


「ジョンバーグ伯爵様に色々お願いがあり参りましたの」


「ほう、私は農業の事以外からっきしでして」


 リディアがにっこり笑う。



「湯浴みさせて頂けませんかしら?」


「は?」


「湯浴みですわ」


「あの、初めていらした館で湯浴み? あの、えっ?」


「昨日、こちらの領地に参りましたの。

何でも新しく開墾する畑の為に水の使用を制限されておられるとか。

領主館なら湯浴みできるだけのお水があるのではないかと思いまして」


「待って下さい。確かに農地の開墾はしましたが水の制限など」


「今度、井戸の使用にも見張りを立てるとか。色々お話を聞かせて頂きたかったのですがまずは身綺麗にしませんと。

恥ずかしくて身の置き所もございませんわ」


「・・何が起きてるのか、教えて頂けませんか?」


「私は他所者ですからどうぞ領民の方々からお聞きになって下さいまし」


「分かりました。行きましょう」


 リディアの馬車に同乗し町へやってきたジョンバーグ伯爵は唖然としている。


「人が歩いてない。店・・」


 伯爵はふらふらと一軒の店に入って行った。


「りょっ領主様!」


「これはどう言う事なんだい? 店に何にも置いてない・・。

去年も今年も豊作で領地は潤ってるって」


「・・」


 店を出て隣の店に入ってもやはり何も置いていない。


「領主様!」


 年配の男が走ってきた。息を切らして膝に手をついている。


「どう言う事なんだ? 人が誰も歩いてない」


「水です。川をご覧になって下さい」


 男が先導し一行は川に辿り着いた。


「なっ何で? 今年は渇水じゃないだろ? ロレンヌ川は例年通りだって報告を受けてる」


「新しい堰が出来て農地以外の水が制限されとるんです」


「何で? 何でそんな事を?」


「ワシらには分かりません。何でも新しい開墾地に送る水の為だと聞いとります」


「誰がそんな事を」

「新しい代官様が御布令をお出しになりましたです」


 話を聞いていた伯爵は突然屋敷に向けて走り出した。


「領主様! 馬車の方が早いですー」


 リディアが後ろから大声で叫ぶが、伯爵は物凄い勢いで来た道を走って行く。


「どうしよう、私達も走った方が良いのかしら?」

「無茶な事を、途中で倒れてしまいますよ」


「そうよね。そうだわ」


 くるっと振り返り呆然とした顔で領主の後ろ姿を見ていた男に声をかける。


「ご一緒しません? 領主様が後からあなたを探すんじゃないかと思いますの」


 リディア達がサイラスを乗せて領主館に向かっている途中で走っている伯爵を見つけた。


「伯爵様、乗って下さいな。その方が早いと思います」


 5人の大人を乗せた馬車が領主館に辿り着いた途端伯爵が飛び出した。


「ジョージ! 出てこい!」

 伯爵が叫んでいる。



 領主館のドアが開き丸眼鏡をかけた若い男が出てきた。



「伯爵様凄い、全然息を切らしてなかったわ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る