人魔戦後歴十一年 世界に真実を告げた日



 寝室の化粧台の引き出しから、大切にしまっていたある物を取り出す。


 それは大人の親指ほどの大きさの、二本の角でした。

 セロが一歳と少しの時に、父親であり魔族であるダルタフォレスがかつて生やしていたように、両の側頭部から生え出てきた彼の角です。



「セロが産まれてから、もう十年。早いものですね……」



 彼が魔族の血を引くことを知られないために、ダルタフォレスと二人で力を合わせ、セロが物心着く前に切除した我が子の角。

 今は日課の訓練で庭に出て、父親と木剣を振るっている彼は……未だ自分が、人間と魔族の混血児であるという事実を知りません。それどころか、わたくしがかつて【暁の聖女】と呼ばれていたことも、父であるダルタフォレスがかつて【凶乱の魔王】と呼ばれていたことも……そしてわたくし達がかつて敵味方に分かれ戦争に明け暮れていたことも、まだ知らないのです。


 日が優しく差し込む窓辺から、木剣を打ち合う父と子の姿を眺めます。

 二本の角を握りしめ、もう片手では娘が……ソフィアが眠る揺り籠を揺らしながら、二人の訓練の様子を見守りつつ、我が子の成長を振り返る。


 本当に、月日の経つことのなんと早いこと。


 戦争が終わった当時はまだ十八であったわたくしも、今ではもう二十九。

 主婦業もすっかり板に着き――それでもお料理には未だ自信はありませんが――、世の中の平凡な母親としての生活が馴染み切っている。


 しかしそれでも。

 ダルタフォレスと共に失踪したことで地位や名誉を剥奪され、今や〝堕ちた聖女〟と呼ばれるわたくしでも。


 それでもわたくしは未だに、女神様からの加護を授かっている、一人の聖女なのです。

 魔王たるダルタフォレスと契りを交わした際に失われると思っていた、女神様からの御寵愛は……その加護は。未だ確かに、わたくしの胸の内に残されているのです。


 それはわたくしに、未だ使命が残されているということに他なりません。



「いと尊き我らが神よ。慈しみ深き母なる神よ――――」



 散々に。まだ少女であった頃から繰り返し唱え続けてきた聖句が、ソフィアに聞かせる子守唄のように、口を衝いてこぼれ落ちます。



「我が身捧げたもうた尊き御身に、今一度我が身、我が声、我が命を捧げ奉らん――――」



 孤児院のあった教会で。

 少女時代に修行に明け暮れた聖堂で。

 駆け続け、時に打ちのめされ這いずった、戦場で。


 何度も何度も唱えた祈りが言の葉となり言霊ことだまとなり、この身を満たしていく。



「三界に打ち立てし威光の御柱。四方にくべし神火のしるべに沿いて、示されしその道を歩まんとするしもべが、その言葉をこいねがう――――」



 己の内に息づく女神様の加護を抱き、意識を世界に拡げるようにして祈る。


 かつては人類を守護し、魔族を打倒するために行使した神聖術を。今はただ愛する息子……家族のためにふるう。



「――――ありがとうございます、女神様……」



 確かに届いたその祈りは、わたくしにある決意を固めさせたのでした。





 ◇





「セロ、これから大切なお話をします」



 セロが十歳となった記念すべき日の晩。わたくしはダルタフォレスと並んで座り、食卓の向かいの愛する息子へと声を掛けました。

 誕生日ということで特別に仕入れていただいた果物を頬張るセロは、わたくしの真剣な様子に気付いたのか、手を布巾で拭ってから居住まいを正して座り直します。


 わたくしはこれから、セロに真実を伝えます。

 あの日……セロが妹を欲した日の夜に、ダルタフォレスと語り合い決めた通りに。この世界の真の歴史と、わたくしや父であるダルタフォレスの真実を、息子に伝えるのです。



「まずは、これをあなたに渡しますね」



 手の平大の、上等な木箱に丁寧に仕舞ったとある物を、テーブル越しにセロに差し出す。

 セロはそれを誕生日のプレゼントだと思ったのでしょう。嬉しそうに「開けても良いか」といった顔でこちらを見詰めてくるので、わたくしは頷いて、箱を開けるように促しました。



「わあっ! 首飾り!」



 箱の中身を手に取り、嬉しそうに眺めるセロ。

 でできたそれは、わたくしが信仰する女神様のシンボルをかたどった護符タリスマン――お守りです。



「セロ。それはお守りです」


「え……?」



 ただのプレゼントならどんなに良かったでしょう。ただ普通の親が、普通の息子の誕生日を祝う贈り物であれば、どんなに気が楽だったでしょう。

 わたくしの言葉に理解が及んでいないセロのあどけない顔に、思わず気持ちが萎縮し、言葉を続けるのが怖くなってしまい身体が強張ります。


 しかし、ふとわたくしの背中に、温かく大きな手が添えられました。


 恐れを抱くわたくしの思いを察したのか、ダルタフォレスが優しく、その手を背中に置いてさすってくれます。

 そんな彼にわたくしは目で感謝を伝えてから、今一度セロに向き合いました。



「セロ。あなたは人間族であるわたくしと、魔族であるダルタフォレスの子です。かつての戦争の折には聖女であったわたくしと、魔王であった彼の間に生まれた混血児なのです」



 告げる。彼の真実を。

 夫であるダルタフォレスに勇気をもらい……改ざんされた歴史の、その裏で起こった出来事を、その当事者である息子に伝える。



「せいじょ……まおう……?」


「そうです、セロ。かつて人類が、魔族と長きに渡り戦争をしていたことは教えましたね?」


「うん……」


「わたくしはその時代【暁の聖女】と呼ばれ、人類連合軍の先頭に立って魔族と戦っていました。【凶乱の魔王】と呼ばれ恐れられていた、ダルタフォレスの率いる魔族達と……」


「え……でも、聖女は裏切ったって……人類を裏切って、それで……」


「〝堕ちた聖女〟と、今は呼ばれていますね。かつては聖女の証であったこの白髪も、紅い眼も、今では教会にとっては忌避すべきものになってしまいました」



 そうして、わたくしは戦争の最後の夜に何が起こったのか、セロに話して聞かせました。


 連合の勝利が盤石となり、敗戦を悟った魔王が聖女にその首を差し出したこと。その条件として〝くさび〟を孕み、それをもって戦争が終結したこと。その〝楔〟こそが、他ならぬわたくし達の息子――セロであること。

 そして聖女の失踪を幸いにと、裏切り者に仕立て上げその手柄を得た【勇者】や【剣聖】、【賢者】などの昔の仲間であった人々のことも。



「母様は人類を裏切ってなどおらぬぞ、セロよ。魔王である私を御し、今もなおこうして、人類を護っているのだからな」


「父様……」


「御しているなどと……それでは語弊がありますよ、ダルタフォレス。真面目なお話なのですから茶化さないでください」


「ほんの冗談ではないか。そう怒るな」



 セロの顔色が悪くなったのを心配してか、冗談めかして、そう軽口を挟むダルタフォレス。

 確かに場の雰囲気は軽くはなりましたが。


 セロは突然告げられた事実に、困惑を隠せない様子です。

 未だ十歳という少年には、重すぎる真実かもしれません。しかし敢えてこうして伝えたのには――この世の天秤であり人類の未来を運命づける彼に話したのには、ちゃんと理由があるのです。


 残酷だと、そう罵られてもかまいません。

 身勝手過ぎると、ただの自己満足だと評され見放されたとしても、それも仕方のないことだとは思います。


 ですが、それでも――――



「セロ。今お話したことが、わたくし達の……あなたの親の、身勝手な事情です。わたくし達大人のみで決着をつけることができなかった、愚かな次代への負債です。このような重い、過酷な宿命をあなたに背負わせてしまったこと、本当に申し訳ありません」


「母様……?」


「ですが、それらを知った上でお願いがあるのです。あの戦争を終わらせたかった愚かな、聖女にもなりきれなかった愚かなわたくしからの……母からの願いです。聞いてくれますか?」


「………………うん」



 優しい子に……そして真っ直ぐで強い子に育ってくれました。

 勝手に世界の命運を背負わせたわたくしの、浅ましい願いを。数多くの命が散っていったあの戦乱から生き延びたわたくしの、身勝手な願いを聞くために、セロは真剣な顔をしてわたくしを見詰め返してくれています。



「あなたは自由に生きなさい、セロ」


「えっ……?」



 なんと浅ましく、愚かなわたくしの願い。

 息子セロの背負った運命を語り聞かせた上で、このようなことを彼に願うなど。



「わたくしとダルタフォレスが交わした約定など、気にしなくて良いのです。セロはセロ、あなたでしかない。そんなあなたの人生を縛ることなど、わたくしはしたくありません」


「私も同じ思いだ、息子よ。確かに私はこの世への〝楔〟として其方そなたを成した。エルジーンにも聖女としての地位や矜恃を捨てさせ、己の意地などという下らないものを天秤に掛け、覚悟も無く子を孕ませた」



 黙ってわたくしの話を聞くセロに、父親であるダルタフォレスも、言葉を投げ掛けます。

 それは、魔王であった彼の告解。たった十歳の息子へ向ける、懺悔の言葉でした。



「エルジーンに――母様に言われたのだ。死を待つのみであった私に、共に子を育てよと。そうして彼女と共に生き、其方を育て……そうしている内にいつの間にか、人類への憎しみや敵対心などはもはや無くなってしまった」



 しかし、それでもセロが背負った宿命は変わりません。強大な力とは、ただそこにあるだけで希望にも、脅威にもなり得るのですから。


 歴代最高の聖女と、魔族を統べる王の子――セロ。その潜在能力はいつか、わたくしも魔王である彼すらも凌駕し得るほどに高い。



「其方に背負わせた宿命は、もはや覆らぬ。妹であるソフィアも同様であろうな。だが、だからこそ。我らの願いなど気にすることなく、自由に羽ばたいてほしい。力の使い方は確と伝えよう。其方が望むのであれば、この世の誰よりも強く成長することができるはずだ。だからこそ、その力を如何いかふるうかは自らで決めてほしいのだ」


「残酷なことであると理解しています。ですがそれでも、あなたの自由を縛りたくはありません。あなたがたとえどんな選択をしたとしても、たとえ世界がそれを認めなかったとしても。わたくしと父様の二人はそれを認め、許し、背を押します。もう一度言います、セロ。あなたは自由に生きなさい。何が正しいのかおのれで定め、己の眼で道を選び、ただ己に恥じない生き方をしてほしいのです」



 わたくし達を真っ直ぐに見詰め返す、愛しい息子。

 わたくしとダルタフォレスは、そんな息子が言葉を受け取り、選択を示すのをただただ待ち続けました。


 永遠とも感じる、長い時間。

 我が家の食卓を沈黙が支配し、暖炉で燃え尽きた薪が転がり、音を立てます。



「僕は――――」



 静寂を破って、セロがその口を開きました。

 その左右で色の異なる瞳は真っ直ぐに逸らされることなく。背を伸ばして、子供とは思えないほどの覇気を纏って。



「僕は……聖女エルジーンと魔王ダルタフォレスの子、セロは。母様の優しさと、父様の強さをもらって生まれました。僕は、父様のように強くなりたい。母様のように、優しくありたい。そして妹を……ソフィアを守りたい」



 たった十歳の少年が、重すぎる真実を聞いてなお口にする、その願い。

 それは――――



「僕は、強く優しくなります。母様のように人に優しくします。父様のようにみんなを守ります。そして、ソフィアのかっこいいお兄ちゃんになります。僕は……父様と母様の子供で、二人の息子で、本当に嬉しいです」



 それは、わたくし達の胸を締め付け、握り締めるような。


 そんな、とても強くて……とても優しい願いでした。




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