人魔戦後暦四年 世界が彩りを持ち始めた日



「かあさまー! とうさまー!!」


「ほらほら、そんなに走ると転んでしまいますよ?」


「セロは今日も元気だな」



 わたくしとダルタフォレスの息子……セロは三歳となり、角を除去したこともあって普通の人間の子供として、村の皆様にも可愛がられてすくすくと成長しています。

 十八で身篭みごもったわたくしも今では二十二歳。こうして家事に育児、村の役割にと奔走していると、あの長く険しかった戦争の日々が遠い昔のように感じられます。


 薄い紫色の肩口で切り揃えた髪を風に遊ばせて、左右で違う色の瞳がキラキラと。目に入る物全てに興味を引かれ、右へ左へ。

 村の癒し手として、多くの人から手土産を持たされたわたくしを手伝い両手一杯にパンや野菜を抱えたセロが、一緒に迎えに来てくれたダルタフォレスとわたくしを先導して、家路を駆けていきます。



「人の子というのは、こんなにも活発なのだな。まるで生き急いでいるようにも思える」


「寿命の長い魔族やエルフ族に比べたら、大抵の生き物は生き急いでいることになってしまいますよ」


「確かに、違いないな」



 あの日、眠るセロの角を取り除いたあの夜から、ダルタフォレスとのこうした他愛のない会話が増えた気がします。

 お互いに打ち解けたというよりも、信頼が深まったと言った方が良いでしょうか。魔王であったダルタフォレスが、わたくしやセロのことを真摯にかえりみてくれたことで、わたくしの肩の力も幾分か抜けたように感じます。



「かあさま、とうさまー! はやくー!!」


「あらあら。セロったらもうあんな所に」


「急がねばまたヘソを曲げられてしまうな」



 人の歯のようであった角を根元からえぐり取ったにも関わらず、神聖術の助けもあって即座に傷も癒え、息子は角が生えていたという事実すら記憶していません。


 涙が溢れるほどの思いで施術をした甲斐があり、村に溶け込み数少ない子供として、元気に成長してくれている我が息子。

 そんな息子を笑いながら追い掛け、わたくし達は夕暮れの迫る中を、家に向けて歩んだのでした。





「むらのおそとって、なにがあるの?」



 その日の夕食の席で、セロがそう何気なく口にしました。


 田舎ではあるものの、自然豊かな山に囲まれ伸び伸びと育った少年であれば、それは当然胸に抱く思いだったのかもしれません。


 外の世界への興味、憧れ。

 少年らしく健全に、腕白わんぱくに育ってくれて嬉しいと思う反面、わたくしの胸中には穏やかでない漠然とした……そう、不安のようなものが渦巻いたのを感じました。



「息子よ、村の外の世界に興味があるのか?」



 そんなわたくしの不安を読み取ったのか、ダルタフォレスが代わりに、その言葉の意味を探ろうとしてくれました。


 しかし旦那様? そのような聞き方をしても……



「きょーみ? せかい? それなぁに?」



 案の定、父親の質問に首を傾げるセロ。

 それはそうでしょう。セロはまだ、たった三歳の幼子おさなごなのですから。


 純粋無垢なセロの返しに言葉に詰まるダルタフォレス。わたくしはそんな様子を見て、この先起こりうることを予見しました。


 いつか、この子が世界に興味を持った時……。このような閉鎖的な村から視野を広げ、外の世界を見てみたいと願った時、わたくし達はどうするべきなのか。


 穏やかな日々に忘れてしまいそうになりますが、この子セロはこの世界に打ち込まれた〝くさび〟。心が悪に染まれば【魔王】に。善に満たされれば【聖王】に。そのどちらにも成り得る、まるで天秤のような存在。

 他ならぬ父であるダルタフォレスが成し、母であるわたくしが孕んだこの世界の運命さだめ


 敗れ去りこの大陸から退いた魔族の無念と、人界を護るため結束し立ち向かった人類の希望の器なのです。


 それを改めて思い出したわたくしの胸には、相反する二つの思いが熱を帯びていました。



「ふふ。なんでしょうね、セロ? セロは、大きくなったらどんな人になりたいのですか?」



 戯れに、大人から無垢な子供へと投げ掛けられるごくありきたりな問い。そんな質問を我が子にするのがこんなにも恐ろしいとは、わたくしは夢にも思っていませんでした。


 このまま何も知らず純朴なセロを、この村に囲い続け守り続けていたい。

 世のあらゆることを知識と経験として学ばせ、強くたくましく成長し羽ばたいてほしい。


 正反対なその思いは棘の生えたツタとなり、わたくしの胸を痛く締め付けるかのようです。



「んっとねー、ぼくはねー!」



 お願いだから、大それたことを願わないでほしい。お願いだから、自分の可能性を見出して思う存分に開花してほしい。

 母親としての子を想う願いなのか、聖女としての世界を想う願いなのか。わたくし自身にも判断のつかない、酷い自己矛盾の思考。


 わたくしはその時のセロの言葉を恐れ、しかし大いに期待もして聞いていました。


 そして。


 眠りに落ちたセロの頭を撫でながら、あることに挑戦してみようと思ったのです。





 ◇





 翌日の良く晴れた日。

 今日も村の病人や怪我人の手当てを済ませてから、変わらずに長閑のどかな村のみちを独り歩いて、わたくしは村長のお宅へとお邪魔しています。


 セロは今日は、父であるダルタフォレスが相手をしています。森に連れて行って、食べられる山菜を一緒に探す遊びだと言っていました。

 楽しみにしているとわたくしが伝えると、セロはもとより、なぜかダルタフォレスまで大張り切りの様子で、可笑しくてつい笑ってしまいました。


 彼が護っていれば万に一つも危険は有り得ないでしょうし、わたくしも出がけに二人に守護の祈りを願い掛けておきました。今頃はきっと、親子で競うようにして山菜を探し回っている気がします。



「随分とご機嫌じゃないかジーン。何か良いことでもあったのかい?」


「奥様……。ええ、遊びに出掛ける亭主と息子を思い出していました」


「ああ、そうさねぇ。父親と息子ってのは不思議な仲だからねぇ。親子でもあり、友人でもあり、競い合うライバルでもあるんだ。アンタ、まだまだこれからが大変だよ?」


「そういうものなのですか?」


「そういうモンなんだよ。ウチの旦那もよく息子と張り合ってねぇ。あたしを取り合ってしょっちゅうケンカしたモンさ!」


「まあ……!」



 村長夫人が手ずかられて下さったお茶を楽しみながら、人生の……そして〝母親〟の先達としての経験を胸に刻み込む。

 わたくしはまだまだ至らない母親だから。いつかセロに……それだけでなく関わり合いになった誰かに、夫人から与えられた沢山の恩と親切を分けてあげられたらと。そんな気持ちを、この女性は自然と抱かせて下さいます。



「それで? ババアの自慢話を聞きに来たわけじゃないんだろ? 話してごらん」



 本当に、優しくて強い、温かなお方です。そして立派なお人です。このお方とお話ししていると、遠い過去に別れた孤児院の神父様やシスターを思い出します。


 八歳で神聖術の適性が認められてからすぐ、わたくしは孤児院から教団本部へと引き取られました。それからは、辛く厳しい修行と勉学の毎日……。

 修養を終えたらすぐに戦争へと駆り出され、赤子だったわたくしを拾い養って下さったあの孤児院へは、一度も帰ることが叶いませんでした。


 戦場で功績を挙げ特爵位を叙爵し、〝エペトフォニソカ〟の家名を拝してからは、わたくしに下賜される俸禄の一部を寄付として送りはしていました。お手紙を出したこともあります。


 しかし孤児院からのお返事は全て差し止められ、寄付金は届いたのか、そもそも返事があったのかどうかも分かりませんでした。

 身分や外聞を気にする周囲の声に流され、結局ただの一度も顔を出すことができなかったわたくしのことなど、もはや覚えられてもいないかもしれません。



「実は奥様に、お願いがあって参りました」


「おやおや。ジーンがお願いだなんて珍しいね。言ってごらんよ」



 だとしても、神父様とシスターが居てくれたからこそわたくしは……エルジーンはこうして生きていられるのです。実の両親の顔も知らないわたくしにとっては、間違いなく彼らこそが親なのです。


 そんな彼らを想起させる村長夫人に向かい、居住まいを正し。わたくしは、昨夜抱いた思いを言葉にします。



「セロに、勉学を教えようと思いまして。そしてこれを機に、村の子供達にも読み書きや算術を教えてあげたい、と。そう考えています」


「へぇ? そりゃまたどうしてだい? セロの坊やはともかくとして、なんだってまた他の子供達にも?」



 訝しむのも当然ですね。


 街や都市に行っても、平民で読み書きや算術を習い、ましてや活用している者などごくわずかです。このような寒村の住人であれば、なおのこと。


 田舎の農民などは、下手をすれば一生文字と関わらないことだってままあるこの世界。

 教育を受けたからとか、聖女だからとか、そういった押し付けがましい偽善でもなく。ただわたくしは。



「知識とは〝力〟です。簡単な読み書きや算術でも、できさえすれば解決できることもあるかもしれません。作物や狩りの成果品を買い叩かれ、騙されることも無くなるかもしれません。


「何より知識とは荷物になる訳ではありませんから、覚えておいても損は無いと思うんです。わたくし達家族を受け入れて下さった村の皆さんへのご恩返しとして……。そしてセロと同じく未来ある子供達への力添えができたらと、そう思ったんです」



 一介の戦士としてでも、民や兵を導く聖女としてでもなく。


 家庭を持った女として、子を授かった一人の母親として。


 沢山の手に支えられ今があるわたくしにとって、できることとは。

 それはセロを含む子供達が、自ら考え、自ら選択した生き方をする後押しをすることだと、昨夜のセロの言葉で思い至ったのです。



『んっとねー、ぼくはねー! とうさまよりつよくなってー、かあさまをおよめさんにするの! それからねー、みんなといっぱいわらってくらすのー!』



 無垢な子供が吐き出した、無邪気な願い。


 人が皆笑って暮らすには、まだまだ危険で厳しいこの世界で。貧富の差はどこにでもあり、時には魔物の脅威や、またいくさも起こるかもしれません。肥えた土地もあれば、痩せて枯れた土地だってあります。


 笑って暮らすには……幸せに暮らすにはどうしたら良いか。それそのものは教えることができなくとも、それを考え解決しようとする素地を磨くことはできると、そう思ったのです。


 ほんの些細な一押しではあっても、ほんの少しだけ、子供達が幸せになれる後押しができたら。そんな思いで、わたくしは夫人に子供達への教育を施す許可を願いました。



「……確かにねぇ。ウチのバカ息子みたいに、村を飛び出さないとも限らないしねぇ。そんな時に読み書きもできないってんじゃ可哀想だ。ちっとばかしみんなに声を掛けてみるかね」



 こうして無事に村長夫人の許可が下り、わたくしは村で望む人への勉学の指導を任せてもらえました。大人であっても問題ありません。学ぼうという意志には、年齢など関係ありませんからね。

 村と取引のある行商人に教材となる簡単な書物を頼んで下さることになり、それが届き次第すぐにでも始めて良いということでした。


 その日が待ち遠しいですね。

 わたくしは期待とやる気に胸を踊らせて、家路を急いだのでした。





 そんなやりとりがあり、夕方に帰宅したわたくしを家で出迎えたのは、カゴに入り切らないほどの山菜の山でした。

 ダルタフォレスとセロの二人はどうやら、出がけにわたくしが掛けた期待の言葉で随分と張り切ってきたようですね。


 私の方が沢山見付けただの、ぼくのほうががんばっただのと言い合う二人を見ていて、村長夫人の言葉が不意に蘇りました。



『あたしを取り合ってしょっちゅうケンカしたモンさ!』



 わたくしは可笑しくて、そして嬉しくて。

 二人を抱きしめて、それでも笑いは止まらなくて。


 その日の晩ご飯では、まだまだ拙いながらも頑張って腕を奮いました。




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