人魔戦後暦二年 世界に癒えぬ傷を与えた日
あの雪の日にセロが誕生してから、早一年と少し。
季節は巡り今年も何とか冬を凌いで、花が咲き誇る春がやって来ました。
「さあ、セロ。お口を拭きましょうね」
「ちゃーちゃ、やぁ〜っ」
「あまり
一歳を無事に迎えたセロは、至らない母親であるわたくしの不手際も物ともせず、すくすくと成長してくれています。すでに歯も幾らか生え揃い、授乳も寝る時やぐずる時くらいで済んでいます。
生まれてすぐの一年間は、慣れない家事や初めての育児に狼狽えるばかりで、産婆を請け負ってくれた村長夫人にさらにご迷惑をお掛けしてしまいました。
本当に、夫人が居なければ……様々な面で助けて下さらなければ、一体どうなっていたことか。
孤児院時代には血の繋がらない多くの弟妹の面倒も見てきましたが……そんなわたくしの矜恃など、乳幼児の前ではあっさりと
世の全ての母親達へ、心から敬意を表するべきですね。
赤子の前では、【暁の聖女】も【凶乱の魔王】も
育児とは、ある意味
いいえ。ただ敵を打ち倒せば良いだけな分、戦の方がよほど楽でしょう。それが、数々の戦場を渡り歩いた聖女と魔王の共通の見解でした。
「では、行ってくるぞジーン。セロを頼む。できるだけ早く戻るゆえ、留守中はくれぐれも用心するのだぞ?」
「ええ。フォーレスこそ、油断して怪我などしませんように」
「誰に言っているのだ、まったく」
「ふふ。行ってらっしゃいませ」
玄関先で夫であるフォーレス――魔王ダルタフォレスを見送ります。
最近山を越えた向こうからこちら側へと魔物が流れて来ている、との情報を狩人仲間から得たため、その原因究明と解決に名乗りを挙げたのです。
数日家を空けることになりますが、お世話になっている村の住人達の安寧のためにと、彼なりに考えた末の行動にわたくしは、思わず胸に温かいものを感じました。
あの男がかつて大陸を恐怖と絶望に陥れていた【凶乱の魔王】だなどと、話してみたところで一体誰が信じるでしょうか?
わたくし達はすでに容姿を偽るのはやめています。わたくしは聖女本来の白髪で、ダルタフォレスは魔族以外では珍しい濃い紫の髪を、村民達には堂々と晒しています。
しかしそんなわたくし達を村民達は、差別することなく同じ村の仲間として受け入れて下さっています。
だからこそダルタフォレスも、
「さあセロ、
「おぶぅ〜! ちゃーちゃ、おぶぅやぁ〜っ!」
「ほら、暴れないでくださいっ。脱ぎ脱ぎしてくださいね」
ダルタフォレスを見送るために早くに起きたその日は、後のことも考えて早めに息子の沐浴を済ませてしまおうと思っていました。
まだ小さいとはいえ乳離れも進み、少しずつ村の癒し手という仕事に復帰を始めていたので、大変な仕事を先に済ませてしまうつもりだったのです。
「ほらほら、そんなに暴れては髪が洗えない……あら?」
「やぁ〜! ちゃーちゃ、やぁ〜っ!」
そして沐浴中、セロの頭に触れた時でした。
明らかな違物感……。暴れてお湯を飛ばす息子の髪を掻き分けて観察すると――――
「
魔族であるダルタフォレスの角はあの戦争の最後の夜に切り落としたため、見た目には普通の人間と変わりありません。
しかしわたくし達の子供の……セロの角はこれから伸び、魔族の血統を証明するようにして大きくなっていくでしょう。
未だかの戦争の記憶は、この村に住む人々の記憶にも鮮明に残っています。中には立身出世を夢見る前途ある若者を兵士として送り出し、終戦後も戻らないことに涙した家庭も。そんな彼らに……。
あの戦争で敵として対峙し、多くの同胞に絶望を振り撒いた魔族の存在は、しかもその首魁と成した子の存在は酷く冒涜的だと、そう受け取られかねません。
わたくしはその日の内に村中の治癒を受け持っていたお宅を回り、村長夫人にも息子の調子が
大変ではないか、人手が要るのではないかと心配りをして下さる皆さんのお声掛けを、胸中で虚偽を詫びながら固辞し、頼れるただ一人の存在である
◇
「今戻ったぞジーン! 息子は……セロは大丈夫か!?」
村のために魔物狩りに出ていたダルタフォレスが戻ったのは、見送ってからまる二日が経った、三日目の朝でした。
成果を報告に行った村長宅で、息子の不調でわたくしが家に篭もりきりになっていると聞いたのでしょう。息を切らせて帰宅し、玄関の戸を叩いたのです。狩りの成果品であろう、大量の荷物を抱えて。
「フォーレス、おかえりなさい。無事に帰ってくれて嬉しいです。お怪我は? その沢山の荷物は……?」
「私のことは良い。これは仲間達が持たせてくれた土産の品だ。それよりセロは!?
「そうでしたか。皆様には後日お礼に伺わないといけませんね。それよりも、話は家の中で」
村長宅でセロのことを聞き及んだのでしょう狩りの仲間達が、成果品を見舞いの品として持たせて下さったのですね。
わたくしは申し訳ない気持ちになりながらも、旦那様と共に見舞いの品々を家に運び入れ、玄関の錠をしっかりと締めました。
「それで、どういうことなのだ?」
「こちらへ……」
わたくしは早速、寝かし付けた息子の待つ寝室へとダルタフォレスを連れて行きました。雨戸を閉め切りランプの
「そうか……もう生えたのか」
「大事は無いのですか?
「落ち着け。魔族の特徴である角は、大体は物心着く頃には生えるものだ。力の強弱で多少の前後は起こりうるし、魔王と聖女の子であるセロであれば、これだけ早く生えるのも納得できよう」
「ですが、これではこの子は……」
今はまだ成人の親指ほどの大きさのセロの角を撫で、この子のこれからのことに思いを馳せます。
見た目や種族による差別や偏見などは、長く人類連合軍に属していたわたくしにとっては見慣れたものです。
ですがそれが我が子に降りかかるなど……ましてや人類の仇敵であった魔族の象徴たる角を持つ子供など、たとえ終戦を迎えて結束の深まった人類四種族といえど、排斥される未来しか見えません。
ダルタフォレスがかつて生やしていた大きな双角を思うに、セロの角もあれと同じ程度には成長するはず。帽子なりを被って誤魔化すのも、早々に限界を迎えることでしょう。
「そうか……私は……」
「ダルタフォレス……?」
愛しい息子の寝顔を眺めながら思案に暮れるわたくしを、ダルタフォレスの呟きが現実へと引き戻します。
顔を上げるとそこには、苦渋に顔を歪めた彼の顔が、ランプの灯りに揺れていました。その顔に浮かぶのは……後悔でしょうか……?
「すまなかったな……」
なにを突然……?
その時のわたくしは、かなり面食らった顔をしていたに違いありません。だってわたくしの顔を見た彼が、後悔を滲ませた、しかし思わず浮かべたような苦笑を
突然の謝罪に混乱しながらもそれだけは分かり、少しばかり羞恥に顔を熱くし……。
わたくしは何も言葉を告げられず、ただ意味も分からず彼の手に慰められていました。
ややあってダルタフォレスは、穏やかな声音で口を開きました。
「私はあの時、
「え、ええ……」
唐突にあの時の――戦争の最後の夜のことを語り出すダルタフォレス。
わたくしが純潔を差し出し彼はその命を差し出すという、今思えばなんとも奇妙な交換条件で始まった
情事を思い出し思わず顔を熱くするわたくしを
「其方は私を生かしたいと話した時、『子には父親の愛情も必要。子育ては二親の努力により行うもの』と言った。これはそういうことなのだと、今ようやく理解したのだ」
「どういう……ことですか……?」
確かにそれはわたくしが、羞恥と困惑、そして初めて覚える性の快楽に流されぬよう搾り出した言葉です。
今思えば色気も何も無いことを口走ったものだと、過去に戻ってその時の自分の口を塞いでしまいたい気分です。そんな気持ちで変わらず顔を熱くしていると、彼は。
「私はこのような大切な局面を……いや、セロに関しての何もかもを、其方一人に押し付けようとしていたのだ。すまなかった。時期が悪かったとはいえ、家を空けて不安にさせたであろう。もう大丈夫だエルジーン、其方には私がついている」
その言葉は静かに、とても優しくわたくしの胸を打ちました。
ああ……これが夫婦なのだと、本当の親との思い出の無いわたくしにも、ようやく理解ができました。
今までは〝セロのために協力し合う相手〟という曖昧な認識で、どちらかと言えば夫婦というよりも戦友と言った方がしっくり来る間柄でした。しかし、この胸の熱がわたくしに教えてくれます。
わたくし達は……エルジーンとダルタフォレスは、今この時真に夫婦と成ったのだということを。
お互いを理解し慈しみ支え合い、
「案ずるな。私の魔法と其方の神聖術があれば、何も恐れることは無い。深い眠りの中で、痛みすら無く角を取り除いてやろう」
「ダルタフォレス、あなたはそれで良いのですか?」
今の内に、象徴たる角を除去する。彼が魔法で深い眠りに誘い、わたくしの神聖術で癒しながら、角を取り除こうということでしょう。
しかしわたくしは彼に――この世に〝
「魔界でならいざ知らず、人界で
「…………」
なんと、まあ。
そのような赤面で言われても説得力は皆無なのですが、まあ、そういうことにしておきましょうか。
今はセロのために。その思いでわたくしとダルタフォレスは頷き合い、為すべきことを決心しました。
「物心が着く前で良かった。すぐに取り掛かろう」
「分かりました。……ダルタフォレス」
「む? どうした?」
薄暗いランプの灯りを近くに寄せて、角を切り除くための短剣を用意していたダルタフォレスに、その前にと声を掛けます。
手を止めてわたくしに振り返った彼に向け、わたくしは心からの感謝を込めて、笑顔を作ります。
「ありがとうございます。貴方が生きてくれて、傍に居てくれて、わたくしは嬉しく思います」
「なっ!? な、何を急に、そのような……!?」
「いいえ、急にではありません。あの夜からずっと、貴方はわたくしを支え続けてきて下さいました。この子を産む時も声を掛け続けて下さいました。本当に、貴方が居てくれて良かったと。そうわたくしは思うのです、旦那様」
わたくしの本心を伝えました。魔族である彼への、聖女であるわたくしからの、心からの感謝。その言葉を受けた彼は、何故かフイと顔を背けてしまいましたが。
ですがその耳が赤くなっているのをわたくしは見逃しませんでしたし、ボソリと呟いた「私もだ」という言葉も聴き逃しませんでした。
そうして、初めて夫婦としての絆を確かめあったその日。
ダルタフォレスの魔法で醒めぬ眠りに就いたセロの角へ、わたくし達は刃を突き立てたのでした。
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