第15話 ハイエナモドキと風呂談義

「ひぃっ」


 佳彦の喉からは、壊れかけた笛のような情けない音が漏れ出した。玉藻の喉から当然のように漏れ出る唸り声に驚いたのか、はたまた洞穴の向こうからこちらを窺う六足獣に驚いたのか佳彦にも判然としなかった。それだけ彼の驚きが強かったという話である。

 ついでに言えば洞穴を覗き込む獣はリカオンモドキではなかった。丸い耳やまだら模様の毛皮は確かにリカオンモドキに似てはいる。その体躯はがっちりとした筋肉でおおわれていおり、大型犬ほどの大きさもある。ついでに口も大きく薄く開いた唇の間からは凶悪そうな牙が見え隠れしていた。リカオンモドキではなくハイエナモドキのようだと、佳彦は思った。


「ウルゥ、グルルルル……」


 ハイエナモドキ共の恐ろしい姿から視線を外した佳彦だったが、玉藻を見ても別種の驚きが彼を襲うのみだった。日頃より(佳彦好みの)美少女らしい振る舞いをしている彼女だったのだが、今は牙を剥きだしにして唸り声を上げ、ハイエナモドキに果敢に威嚇していたのだ。唸り声は犬のそれを通り越してシンリンオオカミのごとき迫力である。ちなみに威嚇の声に力が入り過ぎているのか、変化が半ば解けかけて獣人のごとき様相を呈している。狐耳はあらわになっていたが、そもそも頭部全体が狐のそれに戻っていたので、萌えどころの騒ぎではない。

 前門の虎、後門の狼とはまさにこの事。ハイエナモドキと獣化した玉藻に挟まれるような形で佳彦は固まってしまった。

 しかし幸いな事に、この異様な状況はすぐに打開された。ハイエナモドキが仲間同士で啼き交わし、そのままそそくさと立ち去ってくれたからだ。現世のハイエナはそのイメージとは裏腹に名うての狩人だという。あのハイエナモドキもそうなのかもしれない。しかし異形の相を丸出しにした大妖狐の威光を前に、ただ尻尾を丸めて逃げる他なかったようだ。


「……もう大丈夫よ、キビ」


 生えてもいないおのれの尻尾が丸まっていく幻想に浸っていた佳彦の耳は玉藻の声を捉えていた。普段通りの、よく澄んだ可愛らしい声である。おそるおそる視線を移す。玉藻の顔は、いつもの女の子の顔に戻っている。獣らしい名残は、金色の瞳だけだった。


「あんなに大きな獣がいたんですね」


 そうね。佳彦の言葉に頷いた玉藻だったが、大した事ではないと暗に言っているようにも感じられる。


「元の世界にいた虎狼ころうに較べれば可愛いものだけどね。とはいえ、あんな獣でも危険な事には違いないわね」

「はい……」


 危険。その言葉を聞きながら佳彦は目を伏せた。佳彦は戦闘手段も戦闘能力も持たない非力な存在である。虎狼は言うに及ばず、洞穴の前にたむろしていたハイエナモドキやリカオンモドキに襲撃されれば恐らく負けるであろう。異世界生活が始まってそろそろ十日ほど経つが、佳彦は未だ異世界の獣と闘った事が無かった。玉藻の手ほどきで動物の皮を剥いで臓物と肉の分離が出来るようになっていたが、それは子供でも出来る事だと思っている。


「言いづらいけれど、やっぱり臭うわね、キビ」

「え……」


 思いがけぬ玉藻の言葉に佳彦は目を丸くした。臭う。その単語を聞き取った佳彦は、まず首を巡らせて洞穴の中を確認した。獲った獣と採集した野草や果物で食いつないでいる佳彦たちであるが、これでも住処の衛生面には気を配っている方である。

 別に立つ鳥跡を濁さずの精神を実践しているとかそんな大げさな話ではない。彼らが食べ終えた肉の残りや何やらを適当に棄てていたら、それこそ獣を呼び寄せる要因になるのだ。

 食べれる物は食べて、食べ残したり食べれないものは燃やすか埋める。出す時は住処から離れた所で埋める――穴居人そのものの暮らしに近いかもしれないが、少なくともかつてのパリジェンヌよりは清潔な暮らしを二人は心掛けていた。

 ともあれ、佳彦は玉藻が何に対して臭うと評しているのか、すぐには判らなかったのだ。洞穴の中にあるのはほぼほぼなめし終わった毛皮やまだ瑞々しい果物、そして土鍋や動物のスケッチを刻んだ粘土板などの乾きものやフレッシュな物たちである。臭いの原因とは考えづらい。

 周囲を見渡している間に、もう一度玉藻と目が合った。玉藻は軽くため息をつくと、それでも決然とした様子で口を開いた。


「キビ。こっちの世界に来てからお風呂に入ってないでしょ?」

「……!」


 お風呂に入っていない。その一言で佳彦は全てを理解した。臭いの元は自分だったのだ、と。

 玉藻の指摘は事実だった。異世界に来てからというもの、風呂とは無縁の生活を送っていたのだ。鍋を作ってからは湯を沸かす事が出来るようになったので、湯で身体をぬぐう位の事はやっている。

 ちなみに湯のもとになる水は池から調達しているが、池に入って泳いだり身を清めたりはしていない。童話に出てくる湖のように清潔で安全とは言い難いからだ。魚や水棲生物の多いその池は、底に泥や枯れ葉も沈殿していたし、何より小動物や小鳥を喰い殺すような肉食魚が棲みついていた。

 愕然とする佳彦を前に、玉藻は困ったような笑みを浮かべて言い足した。


「あ、別に臭いから嫌とかそう言う事じゃないわ。だけど、臭いがあると獣が寄り付きやすいのよ。美味しそうな獲物がいると思ってね。

 本来はもっと早く言っておくべきだったんだけど、男の子だしお風呂を求めて歩き回るのも大変だろうと思って先延ばしにしちゃっていたのよ」

「でも、確かに獣に目を付けられるんだったら、お風呂は大事ですね」


 佳彦は真剣な表情を浮かべ、玉藻にそっと風呂とは何処なのかと尋ねてみた。


「お風呂を作るのは流石に大変だから、温泉が湧いている所を探しましょ」


 温泉を探す。それこそ温泉街に来た旅行客のような気軽さでもって玉藻は提案したのだった。

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