第8話 狐娘、受肉し顕現す

 佳彦が疲労を感じて休み始めた時、まだ夕方にすら差し掛かっていなかった。薄青い空の彼方で浮かぶ――現世でいう所の太陽に相当するであろう――は未だにさんさんと光を下界に振りまいている。

 昼下がりと呼んでも過言ではない状況下でこうして休んでいる。そう思うと佳彦は後ろめたい気分になってしまった。しかし疲れ切ってしんどい事には変わりない。歩いているうちは忘れ切っていたはずの出来事たちが脳内から湧き上がってくる。異世界への唐突な転移。冒涜的な六足の魔物の剥製。国王の態度。クラスメイト達の裏切りと追放。そして巧妙なる罠を持つ生きたカップケーキ。異世界にやって来てからまともな体験がほとんど無い。それを思い出すと気が滅入った。


「嘘やろ……」


 せめてもの慰みにとスマホをまさぐった佳彦は、ホーム画面を凝視した。既に十九時を回っている。この時間の表記が信頼できるならば、異世界にやって来て四、五時間は経過しているという事だ。

――疲れるのも無理は無いわ。起伏の少ない道と言えども、何時間も歩いていたんですから

 励ますように内なる声が佳彦にささやきかけてきた。


 長い昼が続くという事はどういう事なのだろう。昼が長くて夜が極端に短いのか。あるいは、「一日」のが異なっているのか。疲れ切った佳彦にはどちらなのか判断できなかった。いや……疲労困憊の彼には、どちらか解らない方があるいは幸せなのかもしれない。

 内なる声に促されるままに岩のくぼみに入った佳彦は、眠るでもなくぼんやりとしていた。慰みにとスマホに保存していた音楽を再生させて聴いていたのだが、気が晴れる事は無かった。むしろ自分が遠くに来てしまった事を思い知り、郷愁に囚われるだけに終わった。しまいにはスマホの電源も底をつき、本当にただの板切れと化したのである。

 機能を停止したスマホをしばらく眺めていたが、佳彦はそれをショルダーバッグに収めた。使えなくなったものの、その場に遺棄するのは気が引けたのだ。個人情報とかの関係もあるし、何より大切なものである事には違いないから。

 ちなみにショルダーバッグの中には小銭入れだのパスケースだのと言った小物しかない。火を起こすためのライターや果物をカットするのに丁度良いペティナイフ等は入っていない。煙草も吸わず銃刀法にも違反していない、模範的な男子高校生のカバンの中身と言えるだろう……もっともそれは、現世にいる時ならば通用する話であるが。

――気を取り直して、明日から……夜が終わって明るくなってから食料を探しましょ

 内なる声はまたも語り掛けてくる。若い娘や少女のような声色だが、むしろ話しかける内容は保護者のそれに相通じるものがあった。

――大丈夫よ。私も丁度良い器が手に入ればそっちにするから。そうすれば、もっと効率が良くなるから

 受肉って何だろう? 佳彦は密かに首をひねったが突っ込んで聞くつもりはなかった。何やら恐ろしい事を聞きそうだと、本能的に感じていたのだ。


 佳彦がはっきりと六足の魔物を目撃したのは、それこそが訪れだした時の事だった。

 実は佳彦はその時ウトウトし始めていた。空腹は水腹でごまかしたばかりであるし、何よりも睡眠欲の方が食欲よりも勝っていた。

 六足の魔物たちに気付いたのは、人間の子供のような甲高く濁った絶叫の為だった。まどろみかけていた佳彦の眠気は即座に雲散霧消し、周囲を確認せねばならぬという決意でその心は満たされた。

 別に、襲撃されている誰か(又は何か)を助けねばならぬという殊勝な心掛けがあった訳ではない。どちらかというと防衛本能の為である。状況を見定め、場合によれば逃亡し安全な場所を探さねばならない訳であるし。

 

「な……あれが六足の……」


 勇気を奮って洞穴から顔を出した佳彦は、絶叫がほとばしる原因を目撃する事と相成ったのだ。目測で洞穴から十五メートルばかり先で、その光景は繰り広げられていた。

 三対の足を持つ獣共が、二対の足しか持たぬ獣を追い詰め、狩ろうとしていたのだ。狩る側は六足の魔物、狩られる側は普通の獣である事は明らかだ。

 但し、どちらも佳彦よりもうんと小さいようだ。六足の魔物と言いつつも、その実態は現世にいるリカオンによく似ていた。出来損ないの迷彩柄という不穏な模様とは裏腹に、小鳥のような可憐な声で啼き交わしている。身体つきは割合小柄で、せいぜい大きな柴犬程度だ。

 追い詰められている獣の方は、明らかに狐のようだった。時折天に鼻面を向けてあの絶叫を放つものの、既に満身創痍である。黄金色にも見える明るい毛皮は紅い鮮血で汚れ、血と臓物が顔を出す破れた脇腹が痛ましい。

 恐らく手遅れなのだろう、と佳彦は思った。佳彦は一介の高校生に過ぎない。しかしそれでも金色の狐の負傷がもはや致命的である事に気付けない程世間知らずでもない。


「ヒィーッ……ッ…………」


 狐が天を仰ぎ吠えた。何度も吠えていたのだろう、声は既にかすれ、のみならず血の塊を吐き出しさえしている。狐は繁殖期以外は単独で暮らすという。だから犬や狼みたいに遠吠えはしないはずだ。それでもあの狐は吠えていた。

 そんな中でも六足の魔物はたじろがない。ある者はじっとしつつも狐の挙動をうかがい、ある者は六足を動かしながら狐を牽制している。

 どいつもこいつも薄水色の涎を垂らし、嗜虐の喜びに嗤っている――そんな風に佳彦には感じ取れた。


「このっ、この畜生共が――!」


 絶叫し腕を振るった佳彦の胸中にはどのような思いがあったのか? 国王から邪悪だと評された六足の魔物に立ち向かうという義侠心か。あるいはか弱い獣を追い詰める野獣どもへの義憤だったのか。

 実のところどちらでもなかった。佳彦はただ、激情に突き動かされ、洞穴に転がっていた土くれを掴んで放り投げただけに過ぎなかった。考えなしに行動するのは善くない事であるが、感情が思考を凌駕する瞬間を迎える事は誰しもあり得る事だ。佳彦の場合、それが今だった。


「ピュ、ピューイ」

「ピ、ピピィ」


 それでもリカオンモドキの足許を狙ったのはなけなしの理性と臆病さが働いたためだったのかもしれない。佳彦の行動に逆上した六足の魔物の襲撃を、無意識のうちに恐れていたのだろう。

 そして臆病者は佳彦だけではなかった。放り投げられた土くれはリカオンモドキたちに直撃などしなかった。しかしそれでも彼らは警戒し、小鳥めいた声で啼き交わすとそのまま足早に逃げ去ってしまったのだ。獲物として追い詰めていた狐をその場に残したまま。

 佳彦は洞穴から半ば身を乗り出した状態でそのまま棒立ちだった。どれだけの間相していたかは解らない。かなり長い時間そうしていたように思えたが、案外短い時間だったのかもしれない。

 まず動いたのは狐だった。明るい琥珀色の瞳で佳彦を見つめると、ヨタヨタとした足取りで佳彦の方へと歩を進めたのだ。

 何故狐がこちらに向かってきたのか――その答えを知るすべは佳彦には与えられなかった。スキルが無いと判定された佳彦は獣の言葉は解らないし、狐は五歩も歩かぬうちに倒れ込み、そのまま動かなくなったからだ。


「…………」


 動かなくなった狐を八十五秒ほど観察したのち、佳彦は恐る恐る狐の許に近付いた。狐は逃げ出さなかったし、動きもしなかった。目は見開いたが視線は定まらず、傷口から流れ出る紅い血はゆるゆると流れている。油のように滑らかに、鮮血は地面を滑りながら侵蝕している。

――殺すか殺されるか。それがあの子たちの世界だったみたいね

 獣を見た時から聞こえなかった内なる声が、佳彦の中でささやいた。佳彦はこれには応じなかった。ゆっくりとその場にくずおれる中で、滑らかな紅色が脳裏にこびりついているのを感じていた。


 目を覚ますと佳彦は洞穴の中で寝そべっていた。狐が死んでいるのを見てその場で失神したはずだったのだが……

 おのれの居場所に対する些末な疑問は一瞬で消し飛んだ。傍らにいる者を見てしまった驚きと恐怖が、あいまいな感情を塗りつぶしてしまったのだ。

 それは黄金色の狐だった。犬のようにきちんとお座りした状態で鎮座しているが、前足をわずかにクロスさせ少し上目遣い気味に佳彦を見ている。

 あの狐だ。声には出さずに佳彦は思った。だがあの狐はあの場所で死んだんじゃあないのか。だったら何だ。化けて出てきたのか? 異世界なのに? いやでも六足の化け物がいるんだ。怨霊とかもいるかもしれない。お狐様は祟るって言うし……しかしそれならあのリカオンモドキが祟られるべきなのかな……


「怖がらなくて大丈夫よ、私の大切なキビ」


 あれやこれやと考える佳彦の前で、事もあろうに狐が喋り始めた。その声色は、明らかに佳彦の裡に宿り助言してくれたあの声と同じだった。


「私、器を見つけたらきちんと受肉するって言ってたでしょ。丁度いい塩梅にこの子の身体が手に入ったから。それで受肉したの」


 狐は腰を上げて伸びをした。輝くような黄金色の毛皮をまとうその身体は傷も汚れも無かった。狐がふるふると尻尾を動かす。次の瞬間にはその場にいるのは一匹の狐ではなく、佳彦と同年代ほどの、赤みがかった金髪の少女だった。

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