母の隠し事

47

この日も、桔花は繁夏より早く起きた。物音に注意しながら、あらかじめ用意していた荷物を持つ。こんな形で、寮を出ることになるとは思ってもみなかった。


「行ってきます」

「……もう行くの?」


ベッドに横になっていたはずの繁夏が、ソファーからむっくり身体を起こした。


「驚かせちゃった?」


桔花が未だベッドを見ていることに気づいた繁夏は、布団を剥ぎ取ってみせた。身体の形をつくっていたのは、数個ものクッションだ。それらしく見えるように、紐で縛られている。

良く知る手口だ。


「どうして、こんなことを」

「分かっているでしょう。桔花が黙って出て行くと思っていたからよ。話したいことがあるのに、あなたが逃げるから」


聞き分けのない子どもを諭すように、繁夏は言う。


「どうしちゃったんですか、繁夏さん。学長に何を言われたんですか?」

「何をって、何も。ただ謝られただけ。関わってはいけない女のことで」

「嘘です。他にも言われたんですよね? でなきゃ……」


言葉が詰まって出てこない。繁夏は聖母とみまごうばかりの笑みを浮かべて、哀れな人間に手を差し伸べる。


「どうしたのよ、桔花。何に怯えているの?」

「……私、あなたが怖いです。もう、関わりたくないっ!」


くすくすくすくす。くすくすくすくす。

強く拒絶したのに、彼女は笑っている。

くすくすくすくす。くすくすくすくす。


「な、何が面白いんですか? 私、あなたが嫌いです。大嫌いです」

「悲しいこと言うのね」


くすくすくすくす。くすくすくすくす。


「やめて下さい、それ。私の言葉、聞こえてますか。理解してますか。その上で笑っているなら、本当に気が狂っている」

「狂ってないわ。狂ったのはあなた。間違えたのは、あなたよ」

「意味が分からない!」


叫んで、桔花は寮室から出た。一刻も早く、あの人の笑い声が聞こえない場所へ行きたかった。


「待って、桔花!」


悲痛な声で呼び止められ、思わず足を止めた。


「あなたのお友だちの話だけど、関わってはいけない女に「誘え、遊べ」って言われたのよね? それで、上手くいったって」

「……そうですが」

「勘違いだって、伝えておいて。アレは「誘え」って言ったんじゃなくて、『沙世絵』。つまり、自分の名前を言ったの」

「「遊べ」もその聞き間違いだと?」

「多分ね。求めていた答えに似ていたから、脳が勝手に変換しちゃったのよ」

「本当にそうでしょうか」

学長お父様が言うんだもの、そうでしょうね」


繁夏はつまらなそうに答える。これ以上聞いたところで、考えは変わらないだろう。他に理由でもあるのかと聞かれても困る。そんなもの、見当もつかない。学長でさえ、完璧に理解できているのかどうか。


「というわけで、伝えたから。お友だちによろしくね」

「ご丁寧にどうも」

「どういたしまして。残りの夏休み、楽しんでね」


楽しめるものか。桔花は思ったが、何も言わずに階段を降りた。


「それが終われば、芙蓉摘み。忙しくなるわよ」


2階から、彼女の歌うような声が降ってきた。

フヨウツミ、渓等の名刺にあった言葉だ。

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