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桔花は逃げるように、学長室を後にした。自分の足音が何重にも響いて聞こえて、まるで誰かに追いかけられているような気持ちだった。
顔面蒼白で戻ってきた彼女を見て、寮母は短い悲鳴を上げた。手に持っていた針が落ちたのも気にせずに、駆け寄り抱きしめた。
「こんなに震えて……。もう、あなたって何なのよ!」
言われて初めて、身体がぶるぶると震えていることに気がついた。
「あらあら、やだ! 膝、擦りむいているじゃない。転んだのね? どこで? 何をしていたの?」
「転んだっけ、私……。すみません、分からないです」
「分からないことがありますか! 転ぶって分からない? どこの都会の子よ!」
「すみません。気が動転してて、あの……」
「もしかして、関わってはいけない女に会った? ほーら、やっぱり! おばさん言ったでしょ、好かれてるって! え、言わなかった?」
寮母のマシンガントークは続く。口を挟む暇もなく、あれこれ世話を焼かれる。何の断りもなしに、膝に消毒液が吹きかけられ、タオルケットで身体を包まれる。
「そこに座って待ってなさい。おばさん、食堂に行って、夕食持ってきてあげるから」
「あ、でも、もう帰る時間ですよね。私、自分で行きます」
「いいから、じっとしてて。どちらにせよ、繁夏さんが戻ってこないことには、帰れないからねえ」
繁夏……。その名前に複雑な顔を浮かべた桔花に、寮母はケンカしたものと勘違いしたらしい。どちらが悪いか知らないけど、大したことじゃないなら先に折れるのも手だ。そんなアドバイスを残して、暗い廊下へ姿を消した。
残された桔花は、玄関に備え付けてある電話を取った。学長室は11番。誰も出なくていい。ただ、ディスプレイに表示された、ここの番号を見てくれるだけでいいのだ。帰りを急かすには、効果的だと思う。数回のコールの後、受話器を置いた。これで、繁夏が解放されるといいが。
寮母が持ってきた他人丼を食べていると、玄関の扉が開いた。
「ただいま戻りました。遅くなってすみません」
繁夏だ。いつも通り、きちんと挨拶をすると、桔花の隣に座った。
「遅かったじゃないの。また学長?」
「ええ。仕事ばっかり頼まれて、気がついたらこんな時間。寮母さんからの電話がなかったら、いつまでも帰してもらえなかったかも」
「電話? そんなのしてませんよ」
「えっ、本当? じゃあ、あなたね。桔花?」
「あ……。えっと、そうです。お話の途中で、悪いかなぁとは思ったんですが」
初めて、呼び捨てにされた。以前の桔花なら、手放しで喜んだだろう。距離が縮まった証拠だと。
だが、今はどうだ。学長室での様子を見た後では、正直信じられなかった。あんなに怒っていたのに。本音を強くぶつけてくれたのに。
……学長が何か吹き込んだのだ。
もしくは、彼女の中身を、別の誰かと取り替えた。そのくらい、不自然極まりなかった。
昔の繁夏に戻ってほしい。いや、昔のとは違う。私を軽蔑し始めた頃の彼女に戻ってほしい。桔花は繁夏に抱きついて、ぎゅっと目を閉じた。しかし、つくられた物語のように思い通りにいかない。それが現実だ。
繁夏は変わらない。どこか狂わされてしまったまま、日常を過ごしていくのだ。
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