30

保健室には誰1人、大人がいなかった。繁夏の言った通り、あの場の真実を知らないからだろう。彼らの中で、知里は熱中症疑い。水分をとって涼めば治るものだと思っているのだ。

ベッドに横になり、氷枕を頭に当てた知里。その横顔が、揺れるカーテンの隙間から見え隠れする。

何と声をかけたらいいんだろう。ドアを開けたまま、桔花は考えを巡らせた。


まずは、見て見ぬフリをしたことを謝る。

悪魔に唆されて、あんな酷いことに加担した。その事実を認めて……。


結局、桔花は自分が1番可愛かった。仕方なくやったんだ。こんなこと、したくはなかった。

それを全面に押し出して、罪を軽くすることばかり考えていた。

浅ましい人間だと罵られても構わない。自分の心を守りたかった。偽りでもいいから、清らかな自分でいたかった。


「……先生?」


知里がポツリと呟いた。桔花は反射的にドアを閉める。保健室に入っているはずだった身体は、なぜか廊下に残ったままだ。どんな顔して会ったらいいか、やっぱり答えが出なかったのだ。「大丈夫だった? 心配したよ」なんて、口が裂けても言えない。

自分の立場をわきまえたんだ。決して、怖かったからじゃない。言い訳をしながら、桔花は爽籟館へと足を向けた。教室にも体育館にも、戻る気にはなれなかった。




「ただいま帰りました」


寮母に軽く挨拶をして、足早に玄関ホールを抜ける。部屋に直行する予定を急遽変更して、1階の自習室に向かった。少し、頭を冷やしたかった。

窓を開け、日の当たらない角の席に座る。線を差したまま放置されていた扇風機を引っ張ってきて、迷わず強のボタンを押した。生ぬるい風をかき回すばかりで、ちっとも涼しくない。

もう冷房をつけてしまおうか。1人しかいないけど、たまには贅沢に。

リモコンを手にするべく、カウンターに近づいた時だった。背後に気配を感じたのは。

桔花は自身が足を踏み入れた際の、自習室の様子を思い出す。誰もいなかった……はずだ。

だから好き勝手やろうと。


「誰?」


振り向かずに相手の正体を探る。関わってはいけない女じゃなければ、誰でもいい。


「ごめん、ビビらせるつもりは無かったんだけど」


ピンと糸を張ったような緊張感の中、両手をあげて出てきたのはクラスメイトだった。野田口晃のだぐちあきら。あれはいつのことだったか。鳥海に電話をかけていた桔花に、嫌な絡み方をしてきた少女だ。彼氏にフラれたうんぬんで、友人たちに慰められていた姿を思い出す。

あのできごとがきっかけになったのか、良く話すようになった。というか、良く話しかけられるようになった。話題は総じて、ダメ男につかまるとどんな苦労をするか。体験談をまじえてリアルに語られたそれは、恋愛に一生夢を見られなくなるんじゃないかと思うほど壮絶だった。『恋人のストックがある男』なんて、トラウマもいいところだ。


「晃ちゃん、こんなところで」

「何してるの? ……なんて、聞くのはやめてよ。それ言ったら桔花もだから」

「私はサボりみたいなもの、かな。入学式の途中で出てきちゃった」

「珍しい、あなたクラスの真面目っ子が。蘭ちゃん泣くんじゃない?」


晃はくつくつ笑いながら、桔花の隣に立った。


「そんなことよりさ、いいこと教えてあげる」

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