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「あ、お帰りなさい」
扉を開けると、繁夏が出迎えてくれた。何か作業中だったんだろうか。さっきまで読んでいた雑誌の上には、千切られた紙の山ができている。
「少し前に受付の子から連絡があったわ。入寮手続きが無事に終わったそうよ」
「良かった。じゃあ、今日のところは」
「そうね。一旦、解散。次は入学式の日になるかな」
入学式。それが終わったら、新しい生活が始まるんだ。最初こそ、不安や心配が大きかった。こんなつまらないところに、3年もいなくてはならないのかと絶望もあった。それが、今はどうだろう。
桔花は自分の心が、確かに踊っていることに気がついて苦笑した。学園に通うのが楽しみになったと告げたら、母は笑うだろうか。
美しい室長、繁夏は頼りになりそうだし、きっと他の人とも上手くやっていける。そんな気になっていた。
「下まで一緒に行きましょう。お母様に挨拶もしたいし」
「ありがとうございます。八重樫さんみたいな素敵な人が一緒だと知ったら、母も安心すると思います」
「繁夏、でいいわよ。名字って堅苦しいし、綺麗じゃないから嫌いなの」
彼女は顔をしかめて、ヒラヒラと手を振った。そんな顔をしても美しいんだから、この人はずるい。
桔花は羨ましく思った。
それから2人は当たりさわりない話をしながら、玄関まで降りた。
「忘れ物はない?」
「はい、大丈夫です。……あ、あれ」
答えてから、桔花はスマホを置いてきてしまっていることに気がついた。
「荷物を運び入れた時に、落ちたのかもしれないわね。鍵渡すから見ておいで」
「すみません。急いで行ってきます」
「ゆっくり、ね。転んだら危ないから」
繁夏の声を背に、桔花は階段を二つ三つ飛ばしで駆け上がる。来た道を引き返しながら、彼女は渓等のことを考えていた。あの人は、無事に出て行けたんだろうか。誰かに見つかって、大事になっていないだろうか。彼なら飄々と乗り切りそうな気もするが、やはり心配だった。
桔花は昔から、とにかく心配性だった。母の帰りがいつもより数分遅れたり、連絡がほんの少しでも途絶えると不安になった。あげく、すぐに警察に連絡しようとするため、母はどんなことより先に、娘に連絡しなければならなくなった。
そんなものだから、桔花は人より少し生きづらいところがあった。誰かを想うことが彼女のストレスになり、積極的に人と関わることができなくなりつつあった。今の彼女のコミュニティは、ほとんど母だけだった。だからこそ、母は先祖代々通っていたからという最もたる理由を掲げて、その裏で荒療治しようと考えていたのだ。
そうとはつゆ知らず、桔花は繁夏に心を動かされ、自ら茨の道を選んでしまったのだった。
無事に部屋の前に辿り着き、鍵を開ける。
さっきは繁夏が開けてくれたから気がつかなかったが、ここの扉はなかなか建て付けが悪い。コツをつかむまでは苦労しそうだ。
1分ほどの格闘の末、どうにか人が1人すり抜けられるくらいの隙間を作ることができた。桔花は体を滑り込ませ、目当てのものを探す。毛の長いカーペットに這いつくばって、隅々まで探す。
と、その時。見つけられずにいる彼女の耳に、音楽が聞こえてきた。母からの電話の着信音に設定しているものだ。一昔前に流行ったバンドのデビュー曲。桔花自身は原曲を聞いたことはなく、こうしてオルゴールバージョンを使用している。そろそろ飽きてきたし、何か新しいものに変えたいとは思うものの、面倒くさくてこのままだ。この様子じゃ、当分、変わらないだろう。
「……どこにあるの」
音の聞こえたほうを集中的に探すと、見慣れたホワイトのスマホを見つけた。
「なんだ、こんなところに」
電源を入れて、時刻と母からの連絡を確認する。
念のため、SNSやゲームなどのアプリも全て調べる。
良かった。誰かにイジられた形跡は無い。紛れもなく、桔花のものだ。安心して立ち上がると、平たく固い板のようなものに頭を思いっきりぶつけた。探し物に夢中になるあまり、いつの間にかテーブルの下に潜り込んでいたようだ。
痛みを堪えて立ち上がると、さっきの衝撃で机にあった千切れた紙の山が崩れ、辺りに散らばっていた。雑誌の上からこぼれ落ちたそれらをかき集める。大半は細かくされていて、元が何だったのか分からない。繁夏が無心で千切っていたものの正体は掴めずじまいだ。
あらかた片付け終わると、桔花はもう一度室内を見渡した。すると、テーブルの柱の影に、例の紙切れが落ちていることに気がついた。あまり千切られていないところから察するに、繁夏が落としてしまったものだろう。拾って、テーブルに戻す。
困らせる人
どこかで見た字が並んでいると認識した瞬間、彼女の胸がざわついた。これはそう、渓等の字だ。
貰った名刺と比べると、一目瞭然だった。
繁夏も彼に名刺を貰っていた。それがどうして、こんな無惨な姿になっているのか。渓等がここに入ったという形跡を、一つ残らず消したかったからか。それにしては、少しやり過ぎている。名刺1枚程度なら、いくらでも誤魔化せるはずだ。おかしい。
そこまで考えたところで、いや、と桔花は首を振った。考え過ぎだろう。
繁夏や母が待っている。早く戻ろう。
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