第10話 9-2

  /7 午前九時三十五分 有馬邸


     〝有馬静希〟



「藍沢さんッ!」


 声が上ずってしまうほど、それは大きな叫びだったと思う。


「ふふ……幸運だったわ。これで鼻の利く邪魔者はいなくなった。残念ね。唯一、あなたを助けてくれる人がいなくなったわ」


 右手を口にそえて、笑いをこらえようとしている。けれど、彼女はとうとうネジが外れたのか、こちらの頭のなかまで響いてきそうなほど大きな高笑いをした。


 肩を揺らせて、人を殺して、それがどうもおかしくて笑っている。しかしそのよく見ると、彼女の指先は小刻みに震えている。


 なるほど。直接手を下したのは、この瞬間のみらしい。


「てめぇ……!」


 憎い。にくい。ニクイ。

 俺は殺人鬼を睨みつけた。このまま呪い殺せたならいいのに、と静希オレが願っている。


「そんなこと言ったって、しょせん縛られている身。あなたは何もできないわ。こうして私に殺されるだけなの」


 ぎしりと歯が軋む。

 そのとき、歯にひびが入ったのがわかった。血が出ているのだろう、鉄のような味が舌に染みる。


 冷静になろうにも、歯ぎしりが止まらない。

 歯茎に電流が走ったように感じているのに、目の前の存在が憎くてどうしようもなかった。


「……でも、わかって? これも全て、息子のためなのよ。あなたのお友達のためなの」


 高笑いがやがて止んだころ。

 女は真正面にこちらを向いて、そう言っている。けれどその唇は醜いまでに引きつっている。


「……」


 もう──言い返すことすら馬鹿馬鹿しく感じた。


「──大切なものを奪われた。なら奪い返す。わたしにできることなんて、それぐらいしかないのよ」

「……!」


 彼女に向けられていた視線を横にずらす。

 彼女の肩。その先に、見えないはずのものがある。俺はその見えないものを信じて、行動に移すことを決心した。 


「息子を救うためなのよ。仕方ないことなの。こんな、汚れた血にさらに汚された息子を解放するためなの」

「ああ……だけど、少年おれは今生きていることにすごく感謝している。たとえ贋物にせものでも、人間によって作られたものでも──静希として生きることになっても。俺は、有馬静希は──日常これからを生きたいんだよ……!」


 俺はそう口にして、足で強く地面を蹴る。片足で蹴って、飛ぶような勢いで前へ進んだ。そう、ちょうどその女に当たるようにして。


「きゃっ!?」


 いきなり突進してきた俺に驚いて、たじろぐ女。すぐさまそいつは俺と衝突して倒れる。もちろん俺もそのまま流れるようにして、イスと一緒に地面と倒れこんだ。


 すると予想通り、反抗してきた俺に意識が集中する。女はおそらく鬼のような形相で、俺の腹を何度も何度も蹴り上げる。それは一つの呪いのようだった。


 胃液がのどまでせり上がる。これ以上殴られたら、血が混じった吐しゃ物がぶちまけられることだろう。


「このっ……このっ……このォ!」


 怒りで精いっぱいだ。

 これで作戦成功。もうこれで俺にできることはない。


「……そこまでだ」

「え……!」


 右手で相手の右腕をつかんで、足で相手の姿勢を崩す。そして相手の右腕をうしろに回して、左手で背中を抑える。


 息は絶え絶えで、弱り果てた男はそれでもなお、全身にわずかに残っていた力を振り絞り、相手を拘束した。


「……すまないな、静希くん。長い間、きみを苦しめてしまった」

「……よか、った」


 少しぐらい話したかったけど、何度も蹴られたせいだろうか、もう限界がそこまで来てしまっている。


 /8 午前九時三十八分 有馬邸


「離して……! 離してよ!」

「悪いが、それはできない。このまま警察と一緒に行ってもらうよ」

 藍沢雅臣は有馬直子をきつく拘束し、動けないようにしていた。しかし雅臣自身も限界だ。背中には未だにナイフが突き刺さっている。背中の異常な熱度もまだ下がってはくれない。

「藍沢!」

 そこに雅臣の友人──同時に刑事でもある永井啓二が来たことにより、犯人の確保に成功した。そのあとすぐに救急車が呼ばれ、静希と雅臣は運ばれた。


 次々に来た刑事によって直子はパトカーの後部座席へと案内された。これにて、有馬直子という女性の犯行は止められた。



 翌日。

 雅臣は目覚めた。そこは近くの総合病院の病室だった。

「あれ、ここは……?」

「せ、先生……!」

「了くん……なぜここに?」

 雅臣が目覚めたベッドの横に、イスに座って涙目を浮かべている助手がいることに気が付いた。

「よかった……よかったぁ……!」

 ついには涙を流してしまう助手──京極了。

「……そうか。生きていたんだな、僕は」

「びっくりしたんですからね、こっちは。先生が病院に運ばれたって、永井刑事から電話で教えられて……」

 ああ、そういうことかと雅臣は納得する。

 しかし、そんなことよりも有馬静希がどうなったのかを聞きたかった。何度も腹を蹴られたため、おそらくあそこで気絶したのだと思うのだが……。

「なあ了。有馬静希っていう子がどこか、知ってるか?」

「いえ、知りませんね。てか誰ですか、その人」

 了がそう言うと、病室のドアが開いた。そこから現れたのはスーツ姿の有馬冬子だった。それが一瞬、有馬直子に見えてしまって身構えてしまったけれど。

「こんにちは」彼女はそう言って、雅臣のもとへ近づいた。「まず謝罪からですね。このようなことに巻き込んでしまい、申し訳ございませんでした」

「いや、そんなことは……」

 これでも有馬誠に金をもらい、正式に依頼を請けた身だ。巻き込まれた、などという意識はない。

「誰ですかこの美人」

 了が食い入るように質問してきた。

「相変わらずだな……きみ」

「初めまして。有馬家長女の有馬冬子と申します」

「はい、よろしくお願いします!」

 了はあまりにも的外れな返事をした。しかし優しいのか、天然なのか不明だが、有馬冬子は首をかしげた。そうしたあとで雅臣の顔を見て、続けた。

「それとお礼です。弟を、いえ有馬家を助けていただき、ありがとうございました」

 そう言って、冬子は右手に持っていたケースをこちらに差し出してきた。冬子はケースを開けて、中身を見せた。それは──一千万はいくほどの大金であった。

 雅臣と了は呼吸を止めて、目の前の紙幣の塊がどういうものなのかも、すぐに認識することができなかった。

 そういった時間が五秒ほど。

 それで雅臣と了は顔を見合わせて、こくりと頷いた。

「じゃあ遠慮なく──」

「いりません」

「え……先生……?」

「ど、どうしてですか? もしかして、もっと──ですか?」

「いえ、そういうことではなく。もうお金はもらっていますし、これは仕事です。必要以上に報酬をもらうのはズルってものですよ」

「……そうですか。わかりました」

 冬子はそっと微笑んで、そう言った。

「あと伝えたいことが……」

「はい?」

「今朝、彼女と面会してきました」

 彼女──有馬直子のことだろう。

「それで、なんと?」

「はい。全てを話してくれました。まず先に伝えておくことがあります。実の母はもう、死んでいるんです。だからあの人は私たちとは血のつながらない母だったんです」

「それは……」

「弟の──静希の、えっと……体のほうの母親だったんです」

「……」

 つまり、有馬誠によって殺された少年の母親、ということなのだろう。

「当然、私たちを恨みました。生き返らせるなんてこともして……憎しみであふれているのも、うなずけました。それで彼女、父と結婚にこぎつけたんです。何もかもをお金にして、自分の身も父に売って。不運なことに自分の姿までも変えて……」

「整形、ということですか?」

「父が結婚の条件として提示したのが、整形なんです。せめて見た目だけでも見合う存在になれ、と。それで父に渡された写真が、私の写真で……」

 有馬誠という男はどこまで非道なのか。

「それで彼女はその姿を利用して、計画を立てた。有馬一族を全て消すためにです。私になりすまして、静希をだまして……病院の見舞いに行ったのも、私じゃなくて彼女なんです」

 有馬冬子の姿へと変えた彼女は、その姿を利用し、有馬静希をだましていた。

 有馬直子は息子を奪われた一人の被害者であり、有馬家をおびやかした加害者でもあった。

「そうですか……」

 そこでしばらく沈黙が続いた。

「申し訳ございませんでした」

「え、いやなんであなたが謝るんですか……?」

「僕は、以前医師でした。静希くんの手術をしたのは僕なんです。このことを、ずっと明かせずにいました。本当に、申し訳ございませんでした」

「そう、だったんですか」冬子はそう言われても、怒らず微笑みながら言った。「静希を、二人を助けてくれてありがとうございました」

 予想外だった。

 礼を言われることではない。普通ならば責められる立場のはずだ。だというのに彼女は雅臣を許し、感謝を述べた。

「お礼なんてとんでもない。僕は……してはいけないことをした。僕も加害者の一人なんです」

「違いますよ。あなたはただ人を助けただけなんです。それがどんな形であれ、二人はまた新たな人生を踏み出すことができたんですから」

 雅臣はそのとき、まぶたの裏が熱くなるのを感じた。視界が揺らぐ。雅臣の目は涙でうるんでいた。

「ありがとう……ございます」

「こちらこそ、改めてありがとうございます」

「この言葉は怪我が治ったら静希くんにも──そして、直子さんにも必ず伝えます」

「はい。ぜひ、そうしてください」



「美人でしたねえ」

 有馬冬子はケースを持って、病室をあとにした。

「そればっかりだね、了くん」

「ま、そういう性分ですから。じゃ俺、仕事戻りますわ」

 了は席から立ち上がり、背を向けようとしていたが、雅臣に呼び止められた。

「そういえば了くん。そっちの仕事はどうだったの?」

 雅臣はふと思いついて言った。あの電話以降、了とはまったく連絡をとっていなかった。だから了が請けていた仕事はどうなっているのか、把握できていないのだ。

「事件は無事、解決しました。雅臣さんに引けを取らないぐらい、観察力や推理力が優れている人が、俺を助けてくれました」

 そうか、と雅臣は安堵するように胸をなでおろす。別に京極了という人間の実力を過小評価していたわけではない。むしろ優秀だと思っている。しかしやはり心配だったので、結果を聞いて安心したのだ。

「でも……大切な人が一人、亡くなりました」

「……それは」

 そのあとに続けるはずの言葉が、思い浮かばなかった。どう言葉をかければいいのか、わからなかったからだ。

「綺麗な死に顔でしたよ。本当に、生きていたときと同じぐらい、活き活きとした顔だった」

「────」

 ついには言葉を失ってしまった。

 かけるべき言葉を探そうとしても、見つからない。今の彼の心境に最適な大事な言葉が見つからない、だなんて。

「失礼します。一応、明日も来ますね」

 そう言って、了は病室の扉を開けて出ていってしまった。

 きっと彼なら、明日にはもう元気になっていることだろう。けろっとすっかり忘れて、へらへらと含んだような笑みを浮かべて、相変わらずの女好きっぷりを晒して。

 だが、それは単純に強がりなんだということは、了という人間を見つけたときから分かっていたことなのに。


 これで、有馬家での事件は収束したのだろう。

 雅臣にしてみれば、あまりに長かった。そしてあまりに普通で、異常な愛を見てしまった。それが果たして正しいものなのか、間違ったものなのか、それはわからない。

 たしかに彼女は罪を犯した。それを許すことなど、できない。

 だがそれも、息子に対する親愛あってこそのものだと思うと、やはり報われないのではなかろうか。


   

            終章・了


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