第9話 8-2

 /3   午前午後九時二分


     〝有馬静希〟


 今の夢はなんだったのだろうか。

 思い出そうとすると、軽い頭痛がする。けれど思い出せないわけではなかった。

 あれが、俺の昔の記憶なのだろうか。

 俺の正体は──有馬静希ではない?

 だって、俺が見ていたものは有馬静希というおれの記憶ではない。おれの憧れであり、おれの親友の記憶。容姿も、まさに俺の昔のころの姿であるような気がして、仕方がないほどだった。

 じゃあ、俺は誰だ? 

 有馬静希なのか?

 それとも、あの少年なのか?

 そもそも、なんで俺は少年の名前を覚えていないのだろう。俺にとっての憧れなら、親友なら、名前ぐらい覚えているだろう。

 それに、俺はこの時まで、この記憶さえ正確に思い出せていなかった。それはなぜだ? 

 まるで封印されていたかのようだ。それで長い時間が経ち、その記憶を縛っていた鎖がそっと解かれたような。

 結論はどうなる。

 もし俺が少年だとしたならば、なぜここにいる。

 なぜ俺が彼として生き、彼として当たり前の日常を送っている?

 だんだん、複雑な糸にからまれて、見えそうなものが見えなくなる。そんな感覚が身に染みて、気持ち悪い気分になる。


 そして、俺はずっと閉じていたまぶたを開けた。


 そこは一切、光というものを遮断した場所だった。じめじめと湿っていて、その空気を吸うだけでも胃液がこみ上げてきそうな場所。

 イスに座っているらしい。それで俺の両手は後ろで拘束されている。


「あら、目覚めたのかしら?」


 女性の声。よく知っている声で、聞いていると落ち着く声だ。そう、この声は姉の──有馬冬子ありまふゆこの声だった。

「──!」

 俺は助けて、と言おうとした。無駄だった。口もふさがれてしまっている。

「うーん、それじゃ会話ができないわね。仕方ないわ、そのガムテープ外してあげる。ま、その前に電気をつけなくちゃね」

 真っ黒だった視界が、多少薄暗いという段に変わっただけ。だが姉と言う人間の形を認知できるほどには明るい。


 俺の目の前に現れた姉は、ゆっくり足音をかつかつ鳴らして近寄ってくる。姉は右手を俺の口元に伸ばして、口をふさいでいたガムテープを勢いよくはがした。一瞬、電流がほとばしるような感覚を覚えて、それが痛みなのだと理解したのはテープをはがされ、二秒経ったあとのことだった。


「ここ、どこだかわかる?」


 姉はそう言って、俺の背中を向けた。

「いや……」

 わからない。

「まずそうね。あなた、ここで目覚める前の出来事は覚えているかしら」

「……たしか、二階の西館を歩きまわってて……」

 俺はひどくか細い声で答えた。

 それより、この部屋は臭いもひどい。錆びた鉄のような臭いと腐敗した魚のような臭いがまざった、まさに異臭というものが俺の花を狂わせる。

「そう。そのあとは?」

「そのあと……いや、覚えてない」

「……そう。ほら、西館はほとんどのドアが立ち入り禁止になっているじゃない。でも、あえてロックしていない部屋もあるのよ。そこはね、私が望んでいたものがそろってる」

 望んでいたもの?

 何を言っているんだ、姉は。

 さっぱり理解できない。いったいどういう話なのかを、俺は把握できずにいる。これじゃ置いてけぼりじゃないか。

「姉さん。あんた、何を言って……」

「ここにはね、証拠が残っている。決定的なものよ。それこそあの男が失禁するほどのね」

 あの男、とは誰だろう。あまり不可解な話だ。

 姉は俺に何を伝えたいのかがわからない。そもそも、なんで俺はここで拘束されているのだろう。

「でも、誰にも知られたくなかった。見られたくなかった。この部屋の存在を知ってほしくなかったの」

 姉はこちらをまた振り向いてきた。背筋が凍った。そのとき、姉は不気味なまで唇を歪に曲げていたからだ。悪魔の笑み。いや、人間だからこそ表現できるもの。

「だからね。あなたがこの部屋の前に立っていたのを見て、すぐにそこにあった壊れたイスで殴ったのは、仕方のないことだってことを理解してほしいの」

 殴られた? 俺が? 姉に?

 姉に殴られ気絶し、こんなところまで運ばれイスに固定され、俺は身動きさえ取れずにいるのか。

「……教えてくれよ。ここはどういう場所なんだよ」

「父の裏よ。有馬誠の裏。あの人がどういうことをしていたのか、教えてあげましょうか?」

 姉はそう言って、こちらを嘲るような笑みを浮かべてつづけた。

「有馬誠はね。あなたを使って、自分にとって都合の悪い者をすべて消していたの。殺していたのよ。次期当主たる静希ちゃんを殺人鬼した。でも、本当に都合の悪いことが起きた。静希ちゃんは普通を望むようになった。だから殺人を拒むようになったの。その要因が、静希ちゃんの唯一の友達であった少年。父はその少年をひどく恨んだわ。だから殺すことにした。静希ちゃんの本性を見せ、絶望のままに殺してやろうってね」

 姉は微笑むまま。その笑顔は、最高に気持ち悪い。

「でも結果は静希ちゃんは死んでしまったのよ。少年に殺されてしまった。そんな光景を見て、あいつはどう思うのかしら。まあ、焦ってしまって、考えなしに少年をうしろから鈍器で殴りつける、といったところかしら。そうして結果、少年も死亡」

 話の途中で一瞬、笑顔が消えた。その瞬間、俺のなかで何かが凍てつくような、そんな感覚を覚えた。

「少年は脳に大きな損傷を受けた。静希ちゃんは身体の生命活動を終えた。普通ならここで終わり。でもあいつはこう考えた。少年は器として、静希ちゃんは中身として。それぞれ活きている部分があるなら、それぞれの欠陥部分を埋め合わせてしまえばいいと。そうするための手段として用いたのが、脳移植」

 待て、どういうことだ、それは。

 知らない。そんなことは知らない。

 よく、わからないんだ。

「それであなたが生まれた。新たな有馬静希として。ふふ、まるで道化ね」

「何を……言って……」

「事実よ。それにね。趣味の悪いことにその亡骸もきちんと残っているのよ。前世の有馬静希よ。少しサマが悪いけれど、見る?」

「見るわけないだろ、そんなもの……! 何がしたい? 仮に俺が本当の有馬静希じゃなかったとしても、なんだってんだっ!」

「私には、許せなかった。私の大切な人を、そんなことに使ってしまうなんて許せなかった。だから復讐してやる。そう決意していたのよ」

「な……」

「大好きだった……可愛くて、守ってやりたいと思わせるくらいちっぽけな存在で……。なのに、このような異物になってしまった。偽物なのよ」

 姉は額をおさえて続けた。

「そもそも、有馬一族の起源って知ってるかしら。殺人を繰り返し、平気で人を喰う化け物。化け物にふさわしいぐらい、冷酷だったと聞くわ。その血が父にも弟にも、もちろんあなたにもある。父が憎い私にとってはおぞましいものでしかない。これはね、有馬家の解放でもあるの。大きな欠陥のろいを持った者たちが解放されるにはね、この方法をとるしかない」

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