第8話 7-3

  /2   九時二分 有馬邸



         〝藍沢雅臣〟



 僕が彼──有馬静希の部屋で情報を聞いてから、もう一時間ほど経っていた。



 あの少年の姿は、まやかしだ。

 僕もその時とやらを覚えている。あまり思い出したくないが、有馬静希という人間はもういない。ならば眼前にいる、顔色のいい少年は何なのか。それも、僕がこの少年の担当医であったことまでさかのぼる。


──あの少年は今でも、有馬静希を演じ続けている。


 演じ続けなければいけないという使命を、本人は知らず知らずに受け入れている。あの生き様はまるで道化師のようで、彼の姿を前にすると吐き気がするのだ。


「思い出さないよう、努力していたつもりなのだがな……」


 ほんとう、迷惑な話だ。

 あの日、けたたましく鳴り続ける固定電話なんて無視しとけばよかった。まあ、そうしたところで助手が出ていただろうけど。

 有馬という苗字を聞いて、僕は少し震えていた。背中を百足が這っているような、そんな感覚が伝わってきたせいだ。

「さて、次は」

 執務室。今、僕は屋敷全体の掃除に取り組んでいた。義務だから仕方ないが、毎日やっていると、習慣になってしまい、そのおかげでこうして掃除をしていないと落ち着けない性格になってしまった。


「また小言を言われるかなあ」


 こっちはこっちできちんと探偵業を進めているというのに、有馬誠という中年は僕に会うたびに小言を言ってくる。そこで何か言ってしまったら怒鳴られるので、結局は黙るしかないのだが、どちらにせよ地獄のようだ。


 そうしているうちに執務室の前に到着してしまった。

 その瞬間、嫌な予感というものがいくつもの鋭利な刃物となって、背中を刺してくる。

 それと、鼻腔びこうをつく異臭がわずか。木製のドアのすき間を通じてきているのがわかる。


 僕は深呼吸をして、勢いでそのドアを開けた。


 目の前に広がるのは──惨状だ。ああ、案の定だ。本当に嫌な予感というものは当たるらしい。


 デスクの前で血を流してしんでいる有馬誠。僕はそれに歩み寄って、その死体を観察する。


 見事に心臓の当たりにナイフが刺さっている。あと他には顔や腕などに暴行を受けたような傷あとがある。他にも切り傷も。おそらく、すぐに殺されたというわけじゃない。


「ん?」


 それに、この凶器。果物ナイフか。ということは食堂から持ってきたものらしい。


「つまり、犯人は有馬誠を殺害することを計画していた」


 衝動による殺害ではない、ということがわかった。

 あとこのナイフの柄に血痕のようなものがある。


「犯人は手に傷を負っていた……?」


 部屋は若干、荒れている。イスや机なども横転してしまっている。争った形跡だ。


「争っていた?」


 一方的に暴行を受けていた、ということだけではないらしい。有馬誠も抵抗はしていたのだろう。


「ん?」


 死体のそば。足元に一本の長い毛があることに気が付いた。それを手に取ってみる。色は黒。つやのある髪の毛だ。


「犯人は女性ということか」


 断定はできないが、おそらくその可能性は高い。

 犯人が女性。もし、そうだとするならば。そしてもし、有馬誠が本当に有馬家ないぶから狙われいたとするなら。犯人はあの人しかいない。


 僕は死体から離れて、デスクのほうを見た。引き出しが開いている。そこには何か手紙のようなものと、ナイフのさやがあった。


「ん、どういうことだ?」


 ナイフのさや。あの胸に刺さっていた果物ナイフのものか? つまりナイフの所持者は有馬誠だった、ということか?


 あと、この手紙。

 重なっている、いくつもの手紙。僕はその一番の上の手紙を手に取って、中身を読んだ。


「翌日、あなたに会いに行きます」


 たったこの一文のみ。他は何も書いていない。

 他の手紙も手に取って読んでみた。

 それは有馬誠に対する中傷や皮肉などを含んだ警告文のようなものだった。


「いや、これは……」


 警告は警告だが、子供のいたずらではない。

 一緒に同封されていたリスト表のようなものがある。なんだろう、と思いながら読んでみると、名前のようなものがずらりと綴られている。そしてその名前に赤いペンでバツが記されている。


 手紙の文章によれば、誠の持つ会社員の名前が書かれていて、しかも全員行方不明だという。


「つまりこれ……」


 このリストに載っている人たちは、有馬誠によって消された、ということか?


 手紙を戻した。見つけたものがあったからだ。デスクの上に手帳のようなものがある。


 その手帳を開いてみると、ページ一枚だけでももう文字が詰められている。

 さらりと読んでいくと、気になる文章があった。


『〝奴〟はもう、私の何もかもをつかんでいる。私は静希に邪魔な奴らを消すよう命じたのも、脳移植のことも、何から何まで知っている。あの探偵も高い金を払っているというのに、全く動かん。役立たずだ。そして、その〝奴〟からまた手紙が届いた。内容は私を殺しにくるというもの。もう限界だ。いずれ襲いに来るというのなら、迎え撃ってやる。』


 このページは他のページと比べてみると文字がやたらと汚い。おそらく相当焦って書きなぐっているからだろう。


 ──この文章に心当たりのある単語が存在する。


 脳移植。

 父・有馬誠から寄付してもらった多額の資金による、医療技術の二十段先にまで駆け上ることを意味する、大規模な発展。


 極秘で行われた手術は表面上、成功という形で終えた。だがその後、有馬静希には記憶の混濁、不安定な精神状態など、多くの問題が発生した。そのため、結局のところ手術成功の正式発表もキャンセルされ、この事実を知る者は一部のみとなった。


 つまり、だ。

 有馬静希は有馬誠にとって邪魔なものを消すための道具でしかなかった。だが、ある事件が起こり、静希は死亡。だが現場にいたもう一人の少年──彼にまだ活きていた静希の脳を移植し、静希という人物の存続に成功した。しかしそれを全て知っている者がいて、有馬誠に対して憎悪を抱いているものが、その情報を利用して誠を追い込んだ。


 その犯人が、彼女ということか。

 消去法で考えれば、彼女としか考えられない。

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