第8話 7-2

  /1   午前八時一分      有馬邸


        〝有馬静希〟


 夢を、見た。

 誰かの記憶みたいだった。


 何者でもない自分の記憶でもあり、自分の親友の記憶でもあった。


「静希……人ひとり殺すこともできないのか」


 脳内で木霊こだまする、呪いの言葉。


「静希……これはな、家族のためなんだ」


 ──結局、俺はその言葉に呪われてしまった。


 命令されて、目の前で涙を流してよだれを垂らして、命が惜しくて俺みたいな子供に「ごめんなさい」とか「なんでもします」と言っている。


 あぁ……人間というのは、なんて弱い生き物なんだろう。


 泣いている。泣いているということは、悲しいんだろうなぁ。


 おじさん、と肩をたたく。すると後ろへ下がろうとするけど、そこはもう壁だった。


 ごめんね、とつぶやいて俺は悲しさに囚われた人間を解放してあげた。


「そうだ、静希……偉いぞ、お父さんが撫でてやる」


 そう言われて、撫でてもらうのが嬉しかった。


 〝だからね、お父さん。〟


 〝ぼく、もっともっとがんばるよ。〟

 〝もっと、お父さんにほめてもらうために──あたまをなでてもらうために、もっとがんばるんだ。〟


 〝だから近くでみててね。〟

 〝ぜったいだよ?〟


 〝ねえ。お父さん。〟

 〝なんで……そんなにこわい顔するの?〟

 〝なんで、なでたあとにすぐにそんな顔をするの?〟


 やめろ。

 俺にはもう過ぎたものだ。

 

 くそ……頭痛がする……イタい……。


 ああ、やっと思い出した。

 親父、オマエの仕業だったのか。


 オマエが有馬静希あいつを、こんな無様な殺人鬼にしたのか。

 許さない。オマエを絶対に許さない。

 

 有馬静希あいつを、こんな不幸な目に遭わせたオマエを、絶対に許さない。


 あいつに日常ふつうを与えず、あいつに非日常とくべつを与えたオマエを許さない。




              * * *


 


「……ぁ」


 声をもらして目覚めた。

 ゆうべはなにか、悪い夢を見ていたのだろうか。血生臭い、薄暗い夜の夢。いや、何で俺はこんな鮮明に覚えているのだろうか。

 俺はなぜか直紀を殺していた。首に刃物を刺していた。その感触を、手がよく覚えていた。感覚でさえも覚えている、なんて奇妙なことがこの世にあるんだろうか。

「おはよう、静希」

 部屋の中には姉がいた。

「うわぁ!?」

「そんな驚かなくていいじゃない」

 驚かないわけがない。

 どうやら俺が目覚めた前からこの部屋にいたらしく、ぎりぎり視界のうつらないところ、つまりは右に姉がイスに座っていた。

 まあ、たぶん姉は俺を看病してくれていたのだろう。

「ごめん。なんかさ、俺、悪い夢を見てたみたいだ」

「いきなりどうしたのよ?」

 少し笑いつつも、心配したふうに姉は言った。

「言いにくいなぁ。なかなかグロいぜ?」

「いいわよ、別に。そういうの気にしないから」

 少しは気にしたほうがいいのだろうに。

 俺は姉の言葉に甘えて話した。

「弟の直紀が実は連日の殺人事件の犯人でさ。それで俺は押し倒されて、首を絞められるんだけど。近くに死体があってさ。たぶんヤクザだったのかもしれないけど、そいつのポケットに刃物があってさ」

「……へえ」

「それをとって、それで……まあ、その、直紀の首に刺して、終わったんだけどさ」

「それね」

 俺が話し終わったと同時に、姉は言った。

「夢じゃないわ」

 それで、冗談じみたことを言ってみせた。笑うわけでもなく、怖がるわけでもなく、うつろな双眸そうぼうで、微動だにしない顔で、言ってみせた。

「いや、夢だって。こんなこと、夢じゃなきゃありえないだろ?」

「本当よ。直紀はあの事件の犯人なの」

「は?」

 本当に、意味がわからない。そんなこと、ありえるわけがないだろ。

「夢じゃない。まぎれもない現実」姉は冷酷そうに言った。「もともとね、うちの一族は食人一族だったの。そうだったんだけれど、今となってはそんな特殊性は失われているはずだった。でも、不幸なことに弟である直紀が、その血を濃く受け継いでいた」


 頭に衝撃がくる。そんなのは錯覚だった。でも、目の前の言葉は紛れもない現実。あの夢も、夢であってはくれなかった。


「でもよかった。あんな食人鬼は、正直、消えてほしかったから」


 そのとき、姉はしばらく固まっていた表情を変えて、弟をあざ笑うかのようにして、その唇をつりあげた。奇妙な、魍魎もうりょうのようだった。


「……黙っていたのか」

「いえ、あの子が犯人だったことは昨夜、初めて知ったわ」

「そもそも、なんで知ってるんだ」

「藍沢さまが見つけてくださったの。あなたを探すつもりだったのだけれど、そこに直紀の死体があった。それで藍沢さまはお父様を呼んだ。で、お父様から教えられた」

「そんな、馬鹿げたこと……」

 ありえるわけが──

「ありえるのよ。そろそろ現実をごらんなさいな。くどいわ」

 姉は、そんな俺の現実逃避ことばを、ことごとく粉砕した。

「でもよかったじゃない。これであなたは晴れて当主の座につけて、親友の仇もうてた。十分でしょう?」

「……っ! あんたはなんでそんな平気なんだよ!? 弟が死んだんだぞ? 少しは悲しんだり悔やんだりしねえのかよ!」

「殺したあなたが言えるセリフかしら、それ?」

「っ……!」

 そうだ。たしかに俺が殺した。俺が──ころ、したんだ……。

「私はそろそろ行くわね。あなたをいじめるひまなんてないもの」

 変貌へんぼうした。有馬冬子は、冷たいものに変わっていた。その冷たさに、多少覚えがあった。そんな気がした。


 あと一つ、気がかりなことがある。

 俺は弟に対して、明確な殺意を持って殺していた。ああ、たしかに弟のことはきっと許されることじゃない。直紀の犯した罪は、決して許されることではないと、そう理解はしている。

 ただ──あの時、俺はそんなの関係なしにあいつを殺したがっていた。そして結果的になんの迷いもなく、なんの情けもなく、俺は実の弟を殺してしまったのだ。

 なぜ、なのだ。

 少しは迷いがあってもいいものだろう。

 少しは情けがあってもいいものだろう。

 それなのに、俺は──容赦なくあいつの首に刃物を突き刺した。

 普通なら、あんな冷静な判断ができるわけがない。苦しんで、もがいて、結局は死ぬのが大半だろう。たとえその大半のうちに入っていなくとも、あいつを殺すことを、まっさきに考えるわけがない。

 ならこれは──有馬静希という人間の一つの異常だというのか。

 


 そういえば、昔は母によく𠮟られていた。

 俺はハエやアリといった虫を殺すことを、躊躇なく行っていた。純粋な笑顔で、だ。たしかにそのころは、小さかったからかもしれない。

 でも……そんなの、今もあったじゃないか。

 昨夜。そうなんだと、俺自身が証明してみせた。


「──、ああ」


 なんて、ことだろう。

 本当に──自分の正体がわからなくなってきてしまった。



 それからしばらく時間が経った。

 俺はベッドで横たわっていた。真っ白な天井。ひどく綺麗な天井が見えるのだが、どうも俺のまぶたの裏にはもっと綺麗で、汚い光景が描かれていた。

 ……そう、直紀のことを思い出していた。直紀との会話、遊んだこと、そんなものを思い出していた。俺が退院したあとはなぜか嫌っていたことも。

 そしてもちろん。俺が殺してしまったことを。

「あぁ……」

 もう、崩れそうだ。

 自分の正体が何なのか。

 なぜ、直紀があのように人を殺し、喰らうようになったのか。


────この遊びを教えてもらったとき……。


 いや待て。

 あのとき、直紀はなんて言っていた?

 この遊び──つまりは人を殺して、喰うこと。そんな人として外れた行為を、教えてもらった?

 誰に? 誰だ?

 わからないままだ。

 こんこん。扉からそんな音が鳴った。誰かが来たのだろう。でも、誰とも会いたくなかった。俺は「悪い。帰ってくれ」と扉の向こうにいる人に突き放すように言った。

「いいえ、そういうわけにもございません」

「え?」

 その声は昨夜、聞いた声。藍沢さんだ。

「失礼します」などと言って、俺の部屋に入ってきた。「体調はいかがでしょうか?」

「あのなぁ、勝手に入って──いや、なんでもない」入ってこないでくれ、と言おうとしたけれど、やめた。「そんなことより、何の用ですか?」

「昨夜の出来事は覚えてらっしゃいますか?」

「──ああ。そういうことですか。そういえば藍沢さんが俺を探しに来てくれたんですよね」

「ええ。たしかにそうですが、なぜ知っているのですか?」

「姉さんに教えてもらったんだですよ」

「ところで、直紀さまとは接触いたしましたか?」

「……さあ」

「直紀さまが殺害なされた件、ご存じですか?」

 知ってるに決まってる。

「ああ……今、その話はしたくないんです」

「お気持ちは理解できます。ですがあの現場には凶器が残されていました。短刀でした。刃物には見事、直紀さまのものと思われる血液が付着していました。そして柄の部分。これに、静希さまの指紋が確認されました。警察の調査で判明したことです」

「……それを、なんで藍沢さんが?」

「一身上の都合と申しますか、仕事柄仕方ないと言いますか、まあそんなところです」

 この人はいったい、何を隠しているんだ?

「とにかく、もう嫌なんだ。もう結論は出ているんですよね? ならさっさと俺を逮捕でもしてください」

 そうでもしてくれないと、俺は耐えられない。

 この罪はあまりにも重すぎるんだ。

「いえ、誠さまが何とか抑えてくれています。ですがそれも時間の問題。できることはたった一つ。自首してください。そうすればきっと罪は軽くなります。そのあとの刑期も短くなるでしょう」

 自首、か。そのほうがいい。俺もずっと、そうしたかったんだ。なら望んで行かせてもらおう。

「わかりました。じゃあ俺、すぐに行って──」

「あのことがわかるまで、こう言おうとしてました」

「え?」

「質問します。強烈な眠気などを感じた覚えはありますか?」

「いや、そんなことは──」

 あった。直紀に首を絞められている途中、脳を覆うような眠気が襲いかかってきたこと。

「ありますね。私が現場に駆けつけたとき、たしかにあなたは倒れていて、そして唇に粉状のものがいくつか。それで調べてもらった結果、睡眠薬だということがわかりました」

「睡眠薬?」

 待て。俺はそんなものを口に入れた覚えはない。

「どうやら自分で投与したわけではないということですね。なら、他者によって投与された。投与された睡眠薬は効果が出るまで三十分ほどなんですが」

 たしか俺があの路地裏に到着したときには、二十二時三十分をまわっていたと思う。それで俺が起きた時間は二十二時十五分。ちょっとした誤差があったとしても、その時間はたしか、俺がちょうど寝ていた時間ではなかったか。

「あの。たぶんなんですけど、俺、外に出る前に寝てたんです」

「つまり、そのときに?」

「はい」

「なるほど。ならあなたはまったくの無実である可能性が高い。いやほぼ確定と言ってもいい」

「でも……」

「でも?」

「本当に、違う誰かが? 俺じゃないんですか。もし俺があの瞬間、眠ってしまったとしても、あのあとの場面はなんだったんですか」

「あのあとの場面?」

「俺、たしかに殺したんです。この手で。そのときの感覚がちゃんと残っている」

「それは……私にはわかりかねます。ですが睡眠薬の副作用と言いますか、デメリットとして悪夢を見るものもございます。おそらくそれは、そういった類いのものではないのでしょうか」

 数秒、数十秒と続く沈黙。鉄のように重い沈黙であった。まるでその沈黙自体が俺の頭上にのっているようで、少し、気分が悪くなった。

「では、ここで失礼させていただきます」

「あ……はい」

 俺は床に視線を落として、じっとしていた。

 藍沢さんが立ち去っていく。

 足音が遠くなっていくのを感じたとたん、俺の視界に一枚の長方形の小さな紙が落ちてきた。

 俺はそれを拾う。見てみると、そこには「藍沢探偵事務所 所長藍沢雅臣」と書いてあった。ほかにも電話番号や住所なども書いてあった。

「あの、これ」

「はい? あ」

「藍沢さん、探偵だったんですか」

「……違うね」

「書いてます」

 ちゃんと藍沢雅臣という名前が。

「とにかく違う」

「書いてます」

「……はぁ」

 藍沢さんはあからさまな呆れた態度でため息をはいた。いったい何に呆れているのだろう、と質問するのが恐ろしい。

「わかりました。私の事情をお話しします」


「探偵、だったんですか?」

 ある程度の事情を聴いた。その間は黙っていたのだけれど。

「はい、そうです」

 目をつむり、何かを考え込むような神妙しんみょうな顔で言った。

 しかし驚きである。まさか彼が探偵だったとは。

 でも、一番の驚きは、

「それで──有馬家から、殺人鬼がいる、と?」

 その言葉を受け入れたくなくて、俺はゆっくりとその言葉を口にした。

「ええ、そうです」

 連続猟奇殺人事件の犯人……でも、それは直紀だった。俺がそれを言うと、まゆを少しはねて、表情を固くさせながら話を続けた。

「だが、直紀くんが犯人だったとはね。まあ、なんであれ依頼は完了だな」

 彼の口調はいつものとは違っていた。話した以上、隠すことはない、という意思なのだろう。

「待ってください。まだ、こっちも話していないことがあるんです」

 立ち上がろうと腰をあげようとした藍沢さんを俺は呼び止めた。藍沢さんは一瞬腰を上げた状態でとどまって、すぐに腰を下げて座った。

「直紀。あいつ、言ってたんです。この遊びを教えてもらったとき、って。なら、この発言通りに考えるなら。直紀に、殺人と──人喰いをうながした奴がいるんじゃないですか」

「……ほう。なるほど。貴重な情報を教えてもらったよ、ありがとう」

 そう言って、今度こそ藍沢さんは席を立って、背中を見せた。たぶん真犯人が見つかるまで、残ってくれるのだろう。それで藍沢さんは扉を抜けて、ゆっくりと閉めた。

 足音が扉の向こうから聞こえる。少しずつ小さくなって、やがて消え入るようになくなった。

「はぁ……」

 大きくため息をついた。

 疲れはもうとれている。体が弱いくせに、回復力や生命力は高いらしい。矛盾しているかのようだ。


……直紀を、殺した。

 でも、俺が殺したわけじゃない。

 悪夢によって植え付けられた罪の意識。けれど、それは虚構だと伝えられた。

 彼は俺に憧れていた。俺をしたってくれた。たぶん俺は、入院前に直紀にその憧れを踏みにじるようなことをしたのだろう。これだけは、たしかな事実だ。

 頭痛。まただ。パターンも解ってきた気がする。走ったり運動したり、つまり過度に体を動かしたとき。それと、入院前の記憶──例を挙げれば、俺の憧れであり、親友であった少年のこと。それを思い出すと、頭が痛くなる。まるで、その先は立ち入り禁止で、踏み込んじゃいけないときつく注意されているかのように。

「ふぅ」

 気晴らしに部屋の外に出よう。

 俺はベッドから起き上がって、扉の向こうに行った。

 赤いカーペット。見たくない。なるべくちょっと上に顔を上げよう。このカーペットを見ると、昨日のことを思い出す。

 廊下の窓。そこから庭が見える。庭は花畑。たくさんの花が咲いて、それはもう一つの芸術作品だ。

 白い彼岸花。やたらと彼岸花が咲いていた。たしか庭の花を植えているのは姉だったっけ。

 目を細める。庭の花畑の中心に姉が立っている。風が吹いているのか、姉の白いワンピースと長い髪がなびいている。

「ほんと、花好きだよなぁ」

 後ろ姿しか見えないので、彼女の顔は見えないけれど、きっと微笑んでいるのだと思う。

 俺は窓から視線を外して、また顔を上げながら歩いた。

 そこでロビーに着いた。俺は二階の東館に部屋を置いている。姉と直紀は一回の東館に部屋がある。一回の西館は食堂や執務室、両親の寝室や図書室など、たくさんの部屋がある。

 それで、二階の西館。俺は行ったことがない。父からは行ってはいけない、ときつく言われている。それにここには誰も入ったことがないらしい。姉や弟、両親──給仕メイドでさえ入ったことがないらしい。ということは、掃除が行き届いていないので、ほこりがたくさんなのだろう。

「まあ、ちょっとぐらいいいよな」

 別に怒られるぐらい、なんともない。

 俺は西館の廊下に踏み込み、その先へ進んだ。灯りがないので、携帯のカメラを起動して明かりをつける。廊下にカーペットはない。一歩一歩進んでいくと、床がぼろいせいか、床がきしむような音がする。

 左右に携帯の明かりを向けると扉がある。それも、数えきれないほどに。しかもよく見てみると、扉のドアノブに南京錠なんきんじょうがかかっている。立ち入ってはいけない、ということだろうか。

 俺は奥へ進んだ。恐怖心や怯えはあるものの、足はまだ快活に進めている。奥へ、奥へ、奥へ。ただただ野心を燃やすかのように、俺は奥へ進んでいったのだ。


 そして──一つだけ、南京錠のかかっていない扉があった。右にも左にも、鍵がかかっていない扉があった。奥だから、あまり検閲けんえつが済んでいないのだろうか。

 俺は、その扉の薄汚れたドアノブに手をかける。……異常に冷たくて、一瞬手を離したけれど、俺はそのあとは迷わずドアノブを回した。


「そこで何をしているの?」


 言われて、俺は右を向いた。でも結局、その姿を確認できなかった。理由は単純に、そのときにはもう俺の視界は黒く染まっていた。

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