幕間 続
/0 赤い夏の終わり
「なあ先生。息子はどうなんだ?」
父親であるその男は言った。
「……手術は失敗です」
「なんだと? あの時は成功したと言ったじゃないか」
「いえ、そうではありません。表面上は成功いたしました」
白衣を着た医師は低めの声で淡々と口にした。
「表面上は……?」
どういうことだ、と医師にかぶりつくように質問する。
「はい。命は取り戻しました。意識も無事、目覚めました」
「ああ。一年も時間をかけてな」
その一年という時間を嫌悪するように、男は舌打ちした。
「心拍数や血液も正常。これといった問題はありません。ですが記憶の混濁が見られます。精神も安定していないようで、十分おきに自問自答を繰り返すんです」
「……そうか。やはり無理があったか」
「器が小さすぎるんです。だいたい移植なんて馬鹿げてる。なんで……なんで、そんなことするんですか」
「黙れ。お前に何がわかる?」
「子供なんですよ? あんな小さな子にそんな人生……あんまりだ……それに」
「それに?」
医師は言いにくそうに黙る。
「言ってみたまえ」
「……大きな、リスクが彼の課せられました。今こそ異常ありませんが、思いがけぬ速度で体は衰弱し、やがて二十五年で……」
そう言ったあと、男と医師の間に言葉は交わされなかった。やはり男もショックだったのだろうか。
多少は息子に対する愛情はあったらしい──、
「はあ……まあいい。どうせ次期当主は直紀なのだ。今この場で死ななければそれで良い」
そんなもの、この男には一切なかったらしい。
「いいかい? 君の仕事はな、白衣を着て人の体をいじることだ。そして患者と患者の要望に応えることだ」
「……もういいです。話が通じませんから」
医師は顔をうつむかせて、そう吐き捨て、その男から逃げるようにして去っていった。
「なんで……これだから名家は嫌いなんだ」
医師にも思うところがあったのだろう。
心の底からそれらの存在を嫌悪していた。
「くそっ……!」
医師はそのまま病院から抜けだし、出入り口のすぐ近くにあるベンチに座っていた。
自分の考えが通じない。自分の思いを誰も聞いてくれない。自分の意見に誰も耳を傾けようとしない。
悩むばかりで決断できない自分。
不甲斐ない。たった一人の子供の未来さえ、守りきれない。
「あ、きみ。この病院を案内してくれるかな?」
突然、女性に声をかけられた。医師は顔をあげ、その女性を見た。男のような人だった。髪型はショートカットで顔は女性らしい肌の白さはあるものの、顔の輪郭は男性のような、がっちりとしたものだ。
黒いコートの下に白シャツ、その下は黒のスーツパンツというシンプルな格好だ。
「あなたは……?」
おそるおそる、訊いてみた。少し、怖かった。目の前の大きな存在に対して、自分はなんて小さな存在なのだろうと怖くなったのだ。
だが医師はなぜかその女性に親近感が湧いていた。どこも共通点があるわけでもないのに。親しみ、というものを持ってしまった。
「ああ。私は藍沢鮮花。探偵なんだが、どうやら依頼人はこの病院のなかにいるみたいでね」
切れのある声で女性はそう言った。
かっこいい、なんてありきたりなことを、つい思ってしまった。
「探偵……?」
「ああ。かっこいいだろう? でもあんま稼げないから転職するのはやめとけ。医者のほうが何十倍も安定するからな」
「はは……」
たしかにそうだ。
探偵よりも医師のほうが稼ぎやすい。
でも、
「君は?」
不意にそう問われた。
「え?」
「私は名乗ったんだ。なら君もだろ?」
少し間をおいた。女性が諦めて立ち去っていこうとしたとき、医師はこう名乗った。
「僕は……亜門です。亜門──雅臣」
* * *
「と言ったふうに僕はその人に出会ったんです」
買い物の帰り道での雑談だった。僕は自分の過去の話を澪先輩に話していた。どうやって、この話題になったかというと。最初は僕が彼女に兄弟などはいないのか、と訊ねたのだ。すると彼女は、
「そうですね。姉がいます。水川有紗っていう人なんです。けっこうずぼらな人ですけど」
僕はその名前を聞いて、どきっとした。その名前に憶えがあったからだ。うすうす気づいてはいたが、やはり
それから色々姉との思い出を話し始めて、僕も話す流れになって──で、今に至る。
「医師だったんですね」
一応、相手が有馬だっていうことは伏せている。ただ僕は、これまであまりやったことがない手術に参加することになって、ちょっと失敗しちゃった、とそれだけである。
「はい、そうですね。……まあ、探偵になってからわかるんですが、やっぱり医者に戻りたいですね」
苦笑しつつ僕はそう言った。
「やっぱり、そのときのほうが楽しかったんですか?」
楽しい、か。
僕は一度、空を見上げた。
「いや、単純に稼げるから……」
あえて僕は嘘をつくことにした。
白状すれば確かに楽しい。でも、本来の目的を忘れてはならないと思うのだ。
そう思いつつ、僕は上にいっていた視線を再び澪先輩にうつした。
「予想通り」
「いやそれだけじゃないですよ。妻がその病院に入院していて、時間が空けば、すぐに会えるから。それも理由ですね」
言い訳のように見えるので、少し苦しいかもしれないが、これもちゃんとした一つの理由なのだ。
「そんなに奥さん好きなんですか?」
「ええ。とてもきれいで、可愛くて。僕にはもったいないくらいです」
そう言ったあと、顔が熱くなるのを明確に感じとっていた。やはり、人前でこういうことを言うものじゃない。
「幸せですね、その奥さん。この仕事が終わったら、どこか旅行とかいいじゃないんですか?」
「……そう、ですね」
でも、妻はもう死んでいる。もう僕は、彼女と話すことさえできない。だから旅行なんてとても無理な話だ。
「澪先輩はいないんですか?」
「はい?」
澪は首をかしげて、つぶやいた。
「好きな人、とか」
そう言うと澪先輩は顔を伏せて、そっとつぶやいた。
「……いませんね」
「その様子だといますね」
「なっ……」
澪先輩は伏せていた顔をばっと素早くこちらに向けてきた。図星なのか、顔を赤らめている。
なんとも典型的な人なんだろう。こういうわかりやすく照れる人は漫画やアニメの世界だけかと思った。
「静希くんとか?」
試しに思い当たる名前を言ってみた。
「……」
──なるほど。
「予想通り」
「ぬぅ……」
小動物みたいだ。
でも──もし彼女が本当に彼を好きなのだとしたら。
どちらのほうなのだろうか。
どちらにせよ、僕は少し喜んでいた。彼を、純粋に好きになってくれる人がここにいる。彼という、今の有馬家にとって異物でしかないものを、純粋な気持ちで好きになれる人がいるなら。おそらくそれは、彼にとっては暗闇のなかでわずかに光る、星なのだろう。
二章・了
中・了
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