幕間
/0 ある夏の日。
「久しぶりだね、姉さんと直紀で出かけるのは。どういう風の吹き回しなのかな?」
いきなり「出かけよ!」なんてのは、少しばかり目を見開いたものだ。そして(半ば強引ではあったが)弟をも引き込むとは思わなかったので、驚くのを通り越して「現実なのか」と目を疑った。
「まあ、弟たちとやっぱり親交は深めるべきだと思って」
姉こと
「だからって、なんでオレまで……」
やはり不服な俺の弟こと有馬直紀。だが直紀もこうしてついてきているのは、心のどこかではまんざらでもない直紀がいるということなのだろうか。
俺が帰ってきてから劇的に冷たくなった氷の王子(勝手に名付けた)こと直紀と話す機会はなかなかにない。少しでも仲を深めよう。
「で? 姉ちゃん、いったいオレらをどこに連れまわすの?」
「……」
「姉ちゃん?」
「ごめん、考えてないわ」
「はあ?」直紀は眉間にしわを刻んで言った。「ならオレ帰っていい?」
「なによう、今から考えるのよ」
そして姉は当然のように俺に目を向けた。おそらく「どこにする?」ということなのだろう。そんなの、俺にふられても困るというか……。
そう思った瞬間、俺の脳内で何かが光った。言わば、ひらめいたというやつである。
「デパート行かない? ほら、姉弟三人で何回か行ってたところ。あそこ最近になってリニューアルしたんだって」
「ああ、あそこね。確かに昔はそろって行ってたよねえ。あのころは本当に自由で楽しかったわ」
その〝自由〟という単語に引っかかった。
「ホントに楽しかった……」
「……?」
姉さんの様子が変わった。楽しかった、ただその一言とはまるで正反対に、その表情は曇り空のようで、儚く、どこか悲しそうなものだった。
「……んなことより、早く行こうぜ、デパート」
直紀が言った。
「そうだな、行こうか」
俺も便乗して言う。すると姉はさきほどは打って変わって、満面の笑みで「うん!」と言った。姉のその気変わりの早さは、誰であっても勝てない。昔からそうだった。いつも俺たちの先頭に立ち、俺と直紀を導き、一緒に遊んでくれた。庭を走り回り、屋敷を探検したり、それで父に怒られたり、色々な思い出が重なり、楽しい日々だったと素直に思えるのだ。
そうしてデパートへ足を運んで、その間かかった時間は三十分ほど。街に入り、しばらく歩くとすぐに着く。
「へえ、けっこう変わったわね」
デパートがリニューアルしたという情報は大輔から聞いていたけど、外観までもがらりと変わっているとまでは思っていなかった。
そういえばあいつ、ここで浮気がバレたとも言ってたな。いったいいつになったら、あいつの女癖の悪さも治るんだろうか……?
「……なんか、まるで違うから少し……」
直紀が言う。
「緊張するのか?」
「ば、ばか。ちげえよ」
ぷい、と赤い顔を振る直紀。
おそらく緊張とも同時にわくわくしている様子でもある。すっかり冷たくなり、俺なんかより大人っぽい直紀だけれど、こういう童心はまだあるんだなと、兄貴ながら勝手に安心してしまっていた。
「じゃ、行きましょうか」
「うん、ってうおっ!」
「ちょ、姉ちゃんっ!」
姉は俺と直紀の手を引いて、入口のその先へと向かった。こういうのはやはり、どうも昔を思い出してしまう。
「おお!」
入口を抜けると、姉はふと足を止めて感嘆の息をもらしていた。でも、そのような気持ちを抱いていたのは姉だけではない。俺もだ。きらびやかに彩られた一寸先の景色。大勢の人々や、多種多様な色や形を持つ服や確かな輝きを持った宝石や装飾。それらの景色を絶景と思えるのは、俺……いや俺たちだけだろう。
そう、単純な言葉ではとても飾り切れない。
長年、ここに訪れていなかった俺たちにとって、それはあまりに綺麗だった。でもあえて、変わったなあとか、すごいなあとか、わくわくするなあとか、そんな単純な言葉こそふさわしいのだと思う。
「もう私、幸せね」
姉の言葉は大げさではあるものの、共感できるものでもある。
「大げさだろ」
どうやら姉の言葉に対して直紀も俺と同じことを思っていたらしい。でも、その言葉とは裏腹に直紀の顔は姉と同じ──心を揺り動かされた顔だった。大きく目を開いて、その瞳は左右に揺れ、輝いているようだった。
「もう我慢できないわ。ほら、早く行くわよ!」
「ちょ、姉ちゃん! わざわざ手を引かなくても自分で行けるって!」
「でも遅いでしょ!」
「ったく」
そう悪態をつく直紀。でも、直紀らしくない──いや、ある意味直紀らしく、その口の形を変えて、微笑んでいた。
俺も、その気持ちには同感である。
この時間がすごく楽しい。あまりこうやって三人で遊ぶことはなかったけれど、こうして再び、この三人で遊べることが幸せなのだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
前言撤回。やべえ、すっげえ疲れる。
俺も歳ということなのだろうか。昔みたいに一時間精一杯遊んでも、そこまで疲れてなかったのに。
同じ一時間でもう疲れてしまった。それでこうしてベンチで途切れ途切れの息を整えようとベンチに腰を下ろしている。
「あら静希、疲れるの早くない?」
姉に言われて、かちんと来た。どうもその言葉は気遣っているようだが、どうしてもこちらを煽っているように聞こえたからだ。
「姉さんが異常なんだよ。あちこち早足で歩き回ってさ、そんなハイペースに余裕でついてこれる人いないって」
「ええ、そうなの? でも……」姉はにやりと笑って、そいつに視線を移した。「直紀は全然疲れてなさそうだけど?」
「え?」俺も直紀を見た。
「兄さん体力なさすぎ」
お前……くそ、なんだよ。俺だけか。もしかして、異常なのって俺だけ……? ええ、そんなのってないぜぇ……。
「うそうそ。冗談よ。まあたしかにハイペースだったわ、ごめんね」
「……うん」
姉に手を差し出され、俺はそれを手に取りベンチから立ち上がった。
「オレは平気だけどね。やっぱ兄さん体力不足でしょ」
「ええ……」
「こら直紀。静希傷ついているじゃない。ホントのことでも、傷つかないように嘘で取り繕うものよ、今は」
「えええ……」
嘘だろ。姉さんなら味方になってくれるって信じてたのに。
「仮にも俺、体弱いほうなんだ。仕方ないだろ。まあ、そんな俺を誘ってくれたんだからめっちゃありがたいけどさ」
「……」
「……」
あれ? 俺、なんかまずいこと言ったかな……?
二人とも顔をうつむかせている。そして俺から顔を背けているようにも思える。まるで俺の顔を見ないように。そういえば、この一時間、いやこれまでもこの二人は俺の顔を見るとなると、どこか視線を顔からずらしているように思える。避けているのだろうか、と一時期不安になったが、今は気のせいだ、と考えている。
「姉さん? 直紀? どうしたんだよ? え、ええっと。ごめん。俺、なんか気に障るようなこと、言ったかな?」
もし言っていたとしたら、そんなことに気づけない自分が愚かしい。こうして何年も姉弟という関係を続けているのに、言ってはいけないことの区別すらできないなんて。
「い、いやなんでもないのよ。うん、別にあなたに非があるとか、そういうわけじゃないの。ただ私たちが勝手に落ち込んでいるだけだから……」
「え、いやなんでそこで落ち込む必要があるんだよ?」
「いえ、なんでもないの。大丈夫よ。あなたが気にすることではないわ。ささ、お洋服とかも買いましょう?」
「う、うん」
別に脅してきたわけじゃない。ただなぜか、姉から謎の圧がかかってきた。「気にするな」と、「それに踏み込む必要はない」というような。それは、俺の杞憂なのだろうか。いやむしろ杞憂であってほしい。
「実はね。貯金が目標金額まで行ったの。ほら、私の財布こんなにぱんぱんになってるのよ」
「貯金って……」
貯金なんてしなくてもお金なんていくらでもあるだろう。まあでも、そういう姉の「金持ち」という肩書に頼らない点は俺も憧れている。
「じゃ、どこに行きましょうか?」
姉がそう言うと、
「だいたいのところは行ったんだし、もう帰らない?」
と、直紀が言った。すると姉は眉間にしわを作り、目を細めて、心底嫌そうな顔をする。
「あのねえ、せっかく来たのになんでそうすぐ帰ろうとするのよ?」
「もしかして楽しくないのか、直紀?」
「別に……ただ、はずい……っていうか……」
「……」姉は沈黙した。
「……」俺も口を開かせたまま、沈黙した。
「おい、なんでそこで黙るんだ」
「俺も恥ずかしくなったんだ」
「私もよ」
「もうやだ帰る」
俺はそう言って背中を向ける直紀の手をつかんだ。
「……なに?」
「とりあえずさ、あそこのアイスクリーム屋さんでなんか買わないか?」
俺はデパートのなかの広場にあるアイスクリーム屋「サーティン」に指差す。
「アイス……クリーム」
直紀はごくりと喉を鳴らして、その瞳は輝いている。
そう、直紀は昔から甘いものは好きなのだ。俺が昔、アイスクリームやクレープ、などといったスイーツを手に持っていると、食べ物をねだる犬みたいな目をして、こっちを見ていたことがある。最初こそ俺はしぶっていたが、そのうち、なんだかかわいそうに思えてきて、結局直紀に譲るはめになった。それに、そんな出来事が起きたのはたった一度ではないから、余計にたちが悪いというもの。
「何がいい? バニラ?」
「え、あ……うん」
「姉さんは?」
「私もバニラかな。白色好きだし」
独特の理由だな……。
「すみません。バニラ二つとチョコ一つください」
バニラは姉と直紀のぶん。
チョコは俺だ。俺は正直、バニラよりもチョコのほうが好きだ。だが昔からではない。昔は姉や直紀と同じようにバニラが好きだった。たしか初めてチョコを食べたいと言い出したのは、退院直後、車の後部座席に座り、右の窓の向こうを見ていたら、アイスクリーム屋を見かけた。そこで俺は運転手の人に言ったんだ。「チョコのアイスを食べたい」と。
「変な話だよな……」
店員がアイスを用意しているなか、俺は一人、そうつぶやいた。
「はい、お待たせしました!」
店員が笑顔でバニラ二個とチョコ一個を差し出してくる。俺はそれを受け取って、姉と直紀のもとへ歩み寄った。
「はい、バニラ二つ」
「あ……ありがとう」直紀が照れるようにして言った。
「ありがとうね」姉も笑顔だった。
「そんじゃ、いただきますか」
俺はそう言って、チョコにかぶりついた。それでもなるべく口を
汚さないよう、注意をしながら食べていた。
「あそこのアイス、おいしいわよね」
姉は満足そうにバニラを食べている。
「直紀、おいしいか?」
「あ、ああ……」
声はいつも通り、不機嫌そうな低めのものだったが、その裏でかすかな喜びがあるように思えた。
「────」
俺は視線を感じて、右となりを見る。となりには姉が座っていて、そのとなりが直紀だった。そしてこの視線の正体は姉のものだった。
「どうしたの?」
「──あなたは何も知らなくていいなと思ってね」
「え?」
「有馬って、どういう一族だと思う?」
いきなり、だった。
このような姉はあまり見たことがない。そんな姉は俺にとって、「よくわからない」ものだった。
「ひどい人たち? いい人たち?」
姉の瞳は俺を捉えている。けれど、「有馬静希」という人間を見つめているのではないように見えた。もっと別の、違う誰かを見ているようだった。
「それともバカな人たち? 賢い人たち?」
「よく、わからないよ」
「そうね、私もよくわからない。でもね、実のところあなたはわかっているはずなのよ。だってあなたの『よくわからない』という言葉は、理解できないという意味じゃない。自分が中立でいるための決まり文句よ。避けているのよ。理解しようとしたら、いつだってできるけれど、でも理解したら最後、それは自分にとっての障害になる。そういうことでしょう?」
「い、いったいどうしたんだよ、姉さん」
「……ごめんなさい。少し、たかぶってしまったわ」
姉の言葉はずっしりとした重みがあって、とても抗えきれないぐらいの危うさがあって、それでいて俺の真理をついてくるものだ。
それに。その言葉は予想以上に俺を苛立たせた。
「にしても、本当に久しぶりよね。こうして三人で集まって遊ぶのは」
ああ。本当に久しぶりだった。
でもなんだろう。俺にとってはあまりうれしくない。
だってその想い出は、自分のものとはとても思えないから。
ああイラつく。最近、こういうことが多く起こる。記憶が混乱して、自分というやつが本当に自分なのかだとか、お前は誰なんだと自問自答することがある。でもたしか、こういう異常は病院で意識が目覚めたあとでもあったな。
「……三人か……」
直紀がつぶやいている。俺は直紀に視線を移した。
「……うそつき」
「あら、直紀。うそつきって何?」
「……」
直紀は黙りこくっている。
「うそなんて誰が言ったのかしら。うそつき? 誰のこと? うそつきなんて、ここにはいないわよ」
「……」
直紀は姉の言葉なんかこれっぽっちも聞くつもりはないらしい。「じゃあ、帰りましょうか」
姉はいつも通りのやわらかい笑顔で、言った。
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