第7話 6-2

   /7 午後二十二時十五分 有馬邸




 俺は決めていた時間の、およそ十五分ほど遅れて目覚めた。それほどいい目覚めではない。できることなら。このまま朝方まで眠っていたいものだけれど、俺の身勝手な復讐を、必ず成し遂げなければならない。

 そもそもの話。なぜ俺はそこまでやっきになって復讐しようと考えているのか。親友が死んだから、だろうか? いや、それ以外に理由はない。


「そう、それ以外に理由は──」


 俺はつぶやいて、部屋をあとにした。

 屋敷のなかはもちろん、暗い。暗くてよく見えない。それと、もう人影はないはずだ。そう、そのはずだ。


「……っち」


 軽く舌打ちをする。

 相手と視線が合う。

 俺に気づいて、相手は近寄ってきた。黒を基調とした背広。こんな時間になっても、そんな姿でいる。それはきっと、自分が給仕であるという証明に他ならない。

「静希さま、どうなされました?」

 藍沢雅臣。

 昨日、有馬家の給仕として勤めることになった男だ。車のなかで話した結果の印象としては、少し見た目が不気味だが、それほどつまらないやつじゃないってことだ。

「いや、別に」

「別に、というわけではないでしょう? なにか必要なものがあれば、私が持ってゆきますが?」

 しつこい。今の俺は、どうも怒りっぽくなっている。寝起きだからだろうか。おそらくそうなのだろう。

「いいですよ、別に。ただトイレに行くだけですし」

「ついていきましょうか?」

「なに言ってるんですか……」

 そう言って、奇妙に唇をつりあげて笑ってみせる藍沢さん。まったく俺のどこがおかしいのか。

──すこし、苦手かもしれないな。

「それより静希さま」

「ん? いや、悪いんですけど。俺、ちょっと今急いでるんでいいですか」

「ならば一言だけ」

 俺はその言葉に耳を傾けた。

「死に急ぐ必要はございませんよ」

 その言葉は、どういう意味なのだろうか。とにかくその場で考えるより、とにかく移動したかった。そんな俺を、あの人は止めようともしなかった。見逃してくれた。けれどそれは情けのようには思えない。不思議と、俺を試してるような、たぶんそんなもの。



 庭を通って、屋敷の門を抜けていく。セキュリティは万全だが、一応俺はこの門を開くためのセキュリティカードを持っている。それはつまり、両親の管理下に俺はおかれてはいないということを揶揄やゆしている。

 静寂せいじゃくで満ち足りた、夜の世界。

 初めてだろう。こんな景色を見たのは。天上の薄黒い空には、星なんて見えないけれど。それでも、そこには我々をスポットライトのように照らしている半月が、浮かんでいた。あるいは、その空にくっついていた、のかもしれない。

 数秒止まって、そっと息を吐きながら俺はそんな景色を尊いと感じていた。そしてすぐさま走った。歩いているひまなんてないと思ったからだ。

 雨でも降っていたのだろうか。地面が少し濡れている。それに走っていると、ところどころに水たまりを作っている。けっこう大きな雨だったのだろう。これは俺が眠っている間に降っていた、ということか。

 しばらく走ったあと、ようやく街の光が見えた。この住宅街から街までは実際、遠くはない。こうやって徒歩で来れるほど近いともいえる。街に近いところに住んでいて幸いだ、と初めて思った。


 街といえる領域に踏みこむまで、およそ十五分。途中途中で歩いて休憩をはさみながら走ってやってきた。

 それでも息は絶え絶え。ひざに手をついて、しばらく息を整えようとした。

 だが──。


「……え」


 それは、紛れもない俺の声。驚きというより、そこにいるはずがないという、目の前の出来事に信じきれないようなもの。

 ああ、そこにいるはずがない。いるはずなんて、ないんだ。その言葉を裏付ける証明など俺は一切持ちあわせてはいないけれど。とにかく、そう信じたかっただけ。

 血。血なのかはまだ確信が持てない。けれど、その左手には赤色のペイントが大胆ににじんでいるように思えた。月明かりだから、よく見える。

 そしてなにより、いまだに幼さやあどけなさといったものが抜けきれない、その中性的な顔。あまり話したことのないやつだけれど、それでも俺にとっては大事な人。

 愛情を、なんてのは気持ち悪いが。親愛のようなものは抱いている。そんな感情を向ける相手は、家族に対してだけ、と俺は認識している。

 家族。そう、家族だ。俺と同じ有馬という姓を持っていて、俺が住む有馬邸に同じく住んでいて。


────なにより。有馬という一族を担う予定のはずだ。


 有馬家次期当主。そう呼ばれるのは、一人しかいない。


「おい、直紀──!」


 俺はとっさに呼びかけた。その名前を叫んだ。その場にいたほかの人たちはほぼ全員、俺のほうに視線をよせる。たとえ視線が集まったところで俺はお構いなしに弟の名を呼んだ。


「おい、直紀! 聞いているのか、直紀!」


 はたから見たらただの変人としか思えない。

 それでも叫び続ける。

 けれど、幾度も発した叫びに弟は振り向くことさえなかった。

「くそ──!」

 俺は直紀を追いかけた。

 呼んでも答えないのなら、その体ごと捕まえて屋敷に連れ戻す気でいた。

 これは俺が言えることではないけれど。こんな物騒な時期に出歩くのは、あまりに危なっかしくて放っておけない。

「……はぁ……はぁ……!」

 街に向かったときとは違い、俺は全力疾走だった。目前に人混みが現れても、容赦なく俺はその群れを迫る自身の体ではらいのけた。謝罪ではすまないかもしれないが、心のなかで俺は『ごめんなさい』と謝った。


 限界を知らず走り続ける自身。けれど体にいたってはすでに限界値まで達してしまっている。

「くっ……!」

 苦悶くもんの声のようなものがもれる。

 だが、おかしい。

 目前に弟──有馬直紀の背中が、たしかにある。ちょっとでも走ればすぐに追いつき、手の届く範囲だ。だというのに、俺の体は、俺の手は、一ミリたりとも彼に近づいてさえいない。そんなことに、いまさら気づいた。

 そして走り続ける俺の意志を跳び越すようにして、自分の体は限界を迎えていった。つまり追いたいという意思より全力疾走の反動による疲労が勝った、というわけだ。


────あたまが、いたい。


 頭痛だ。すごく頭が痛い。吐き気もだ。予想以上に反動が大きすぎた。無理に走ったせいだ。


 視界が曖昧になっていく。

 目の前に広がる現実という現実がうすれて、歪んで、まるで違う居場所にいるみたい。


 そんな揺れ動く視界がかすかにとらえたのは、彼の姿だった。路地裏に入っていくのが見えた。それが幻覚や見間違いでないことを祈りつつ、俺は自分の体にむち打って、そこへ向かった。


 路地裏に進める角を曲がって、真っすぐ歩を進める。

 おぼつかない足。

 ゆらゆらと左右に揺れる身体。

 頭蓋ずがいをことごとく破壊し尽くす鈍痛。


 空地にたどりついた。そこまで長くない道のり。けれどここまで着くのに長い時間を要していたのではないか、とそう感じていた。

「……あぁ……」

 そっと息を吐いて、姿勢を整える。

「なお、き……」

 俺がずっと追っていた弟の名前を呼ぶ。

「どこ、だ……」

 直紀は、どこだ。

 空地を見渡す。視界は少しずつ鮮明になっていく。薄暗い。たった一つだけ光が灯されている。

 空地のはじ。気を抜けばうっかり見逃してしまうかもしれない。そこには何か大きなものが置いてある。それは断片的だった。大きなものと小さなものに分かれて、そこに散乱している。

 それがなんなのか、わからなかった。そこに光は当たっていたなかった。だから俺はポケットから携帯を取り出して、カメラを使って、明かりをつけることにした。


「え────」


 目の前に散らかっているものを、俺は信じたくなかった。現実のようには思えない。普通に過ごしてきた人間にとってみれば、信じがたい惨状だ。


────赤い、血。


 その、円状に広がっていた深い赤の液体。


────でたらめな、肉片。


 その、でたらめにちぎられている肉片ども。


────血をみるたびに沸き起こる。


 あのころの、記憶が。

 少年だったころの記憶が。

 まだ、人でいられた記憶が。


「兄さん」

「……」

 背後。俺をそう呼ぶやつは、間違いなくあいつだ。あいつしか、ありえない。

「これ、お前がやったの?」

 苛立いらだちが少しこもった声で、そう問いかけた。

「ああ、そうだよ、兄さん」

 俺はその死体をずっと見ているままだ。

「──そう。ならさ、今回が……初めて?」

「いや。むしろ、慣れてしまったよ」

 そう、淡々と行われる一問一答。そこに兄弟の間にあるはずのお決まりの情は、すでに撤去されていた。

「いつから?」

「ずいぶんと前の話だよ。今ではニュースにもなってるぜ」

「そうだな。お前、すっかり有名人じゃないか」

 己に湧く苛立ちは、際限さいげんなく、音をたてて膨張ぼうちょうしていく。

「なあ、なんでこんなことしたんだ?」

「そうだねぇ。いやさ、単純にすっごく楽しかったんだ」直紀の声もすごく楽しそうだった。「この遊びを教えてもらったとき、そりゃ最初は怖かったけどさ。それでも、やってみりゃすごくハマるんだぜ、これ」

「──」

 言葉を、失っていた。

「殺って、喰って、殺って、喰って、そんな繰り返しさ」俺の背中の向こうで、奴はどんな表情をしているんだろう。「ま、兄さんにはわからねえだろうさ。当然だよね」そんな、意味不明なことを当たり前のように言ってみせた直紀。

「じゃあ、姉さんや父さんにはわかるっていうのか、お前は」

 どうしても、その発言だけは気がかりだった。

「──さあ、ね」

「ごまかすな」

「ごまかしてなんかいないよ。本当にわからないんだってば」

「……へえ。お前さ、本当はそんなおしゃべりだったんだな」

「……」

 有馬直紀という生物が、ついには黙ってしまった。

 俺があおったからだろうか。だが、こうやって煽り気味な口調で話しているけれど、すべて自分を抑制するためのものでしかない。そう、こう見えて内心は、恐怖やおびえといったものがたまっている。

 本当はもうここから逃げ出してしまいたい。この化け物をあおっているひまがあるのなら、今すぐにでも────。


「ところでで兄さん。それを見たってことは、あんたはこの事件の目撃者ってことになる。それに、犯人にも会っている」


 空気が凍るような冷たい声色。

 その空気を吸うことで、俺の肺も凍ったかのようになる。満足に息を吸うことさえ、許さないような。


「そのあと、その目撃者はどうなる? 犯人にも会っているなら、そいつは結果としてどうなると思う?」


 ……俺は黙るまま。


「オレに殺されるんだよ」


 そう言って、直紀という怪物は俺に近づいてきた。

 かつかつ、と足音が大きく、そして早く鳴る。


 俺はその場で立ち上がって、逃げようとした。けれど、そのまま俺はその怪物に押し倒された。


「ぐっ……!」


 奴の冷えきった手が、俺の首をおおう。そしてだんだんとその手は力を強くしていって、俺の首をめつけた。

 息が止まる。けれど体が酸素を求めている。そのため息を吸おうと必死になるけれど、馬鹿なことに、そうすればそうするほど、苦しみというものは大きくなっていく。

 眠気のようなものが、脳の機能を低下させる。


「──こに、いったんだよ───」


 耳が遠くなっている。奴が何かを言っているけれど、俺には一部分しか聞き取れなかった。

 そして空白。視界は一瞬、何かを消すように真っ白になった。


「──いちゃんは──こに、いったん──」


 聞こえない。

 聞こえないものを聴こうとすることは、無駄だ。

 俺は何かないか、と辺りを探る。手を動かすと、奴の手の力は強くなった。まだ意識があることに驚いて、早く殺さなくちゃと必死になているのだろう。俺はどうやらタフらしい。


 おそらく、服のようなものに触れた。やわらかい、なめらかとした感触だ。それからポケットのような、手を入れられるすき間があった。その部分が、妙にふくらんでいる。俺はそのすき間に手をを入れて、そいつを抜き取った。


 薄れていく意識。

 視界はもう揺れている。けれど、かすかに見えるのは瞳を大きくさせて、唇を開けて歯を見せる、まさに怪物のような顔。それと、右はじに見える、刃物のようなものと、それを握っている俺の手、だった。


「──兄ちゃんは、オレたちの兄ちゃんは、どこにいったんだよ!」


 減少していく力。俺は残りわずかな生命ちからを振りしぼって、その刃物の切先を、奴の首に突き刺した。

 首から血しぶき。俺の手がそのしぶきによって、赤く染まっていく。

 怪物の手はだんだんと力をゆるめていって、最終的には俺の首から離した。

 怪物は首にささったものを抜き取ろうとして、必死になる。あえいで、その瞳から涙を流しながら、唇から血を流しながら。

 あまりに、無様ぶざま────だ──。

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