第6話 5-3

   /5 午後十九時五十五分  有馬邸


      〝有馬静希〟



 あれから俺は部屋にこもっていた。理由はもちろん、澪や姉に顔をあわせづらいからだ。なにせあんな自分勝手なことを言ったんだ。きっと怒っているに違いない。なにより澪には怒られた。彼女なりに心配して怒っていたんだろう。でもごめん。俺はそれでも、せめて犯人の顔にあざ一つ作ってみせたいんだ。


 ちく、たく。壁にかざってある時計の秒針の音が、静寂というすき間に入りこむようにして反響する。まるで海で漂流しているみたいだ。けれど、別に嫌というわけでもない。むしろ、こんな無意味な時間が俺は好きなのだ。

 有馬の者は無駄や無謀、無価値や無意味を嫌う。そういった傾向があるように見える。だからどんな卑怯で人道に反した行動であっても、それに何かが『有』れば、しとする。それは……もしや俺もなのだろうか。

 いや、こんなことを考えても仕方がないだろう。

 犯人捜しが先だ。

「……でも、捜すったってなぁ……」

 どうすればいいのか、さっぱりわからない。

 夜に街中を歩けばいいのだろうか。おそらくそうするしかないのだろう。目星がつけられない以上、当たりを見つけるまで耐久戦と行くしかない。

「ふぁぁ……ん」

 あくび。眠気が思考を侵食してくる。門限は十時まで。それ以降に出て、十二時には帰るようにしたい。

 まあ……しばらくの気休めには……なる、だろう──。



 独り、だった。

 俺は砂場にいた。遠い記憶。夏の音の残響が耳に届く。

 それはいつのことだっただろう。まだ幼かった日のことだろうか。正確なものは覚えていない。どれもが曖昧で、不確かなものばかり。けれど、それは俺にとって大切なもの。


「ねえ、君」


 砂場で遊んでいた俺に、背後から話しかける人がいた。

 振り返る。少年だ。見た目は幼い。当時の俺と同じくらいだと思う。

「一人? もし、そうならさ。おれと遊ぼうよ」

 そう言って、俺を、普通という名の輪へ誘った。その輪の内側は、外側の景色と違っていて、すごくきれいなものだった。ずっと、俺が欲しかったもの。ずっと、俺が居たかった場所。

 その場所に俺は、魅入られた。

 それから俺は少年とよく遊ぶようになった。たまに──親には内緒で少年の家で遊んだり、俺の屋敷に招いたりしたこともある。

 当時の俺においては、初めての友達であり──初めて親友と呼べる存在だった。同時に人間として憧れてもいた。


────そうか。俺は……俺はずっと、普通とくべつがほしかったんだ。


 俺がずっとほしかったもの。

 誕生日、ほしいものというものがわからなかった自分。

 クリスマスの日、白いひげの人に何がほしいのかを、手紙に書けなかった自分。

 でも。これでやっとわかったんだっけ。こうやって、少年と出会うことで、自分がずっとほしかったものが、わかったんだ。


────あれ、ここはどこだろう?


 場所が変わった。一瞬にして。そこは誰かの部屋のようだった。幸せな気分でいたのに、そこは絶望という、血のように真っ赤な色彩で乱暴に染まっていた。喜びをかみしめていた自分の体は、恐怖や怯えによる震えで、小刻みに動く。


 目前。少年がいた。想い出の少年。俺が憧れていた人。親友。友達。そう呼べる唯一の人。周りは赤色のペイントでぬりたくられている。赤色。血のいろ。見るだけで気が狂ってしまう。

 血の匂い。錆びた鉄のような異臭。ガスのようにこの部屋を漂い、広がっていく。気持ち悪い。吐きたくなる。

 早くここから出よう、と少年に呼びかける。ぬちゃぬちゃ。応答してくれる様子はない。ただぬちゃぬちゃと生々しい音だけが少年のほうから鳴る。

 早く! と叫んだ。さすがに気づいたらしい。ゆっくりと少年は振り返る。


「だれだ、おまえ?」


 俺はそう言った。

 だって、べつの、誰かだった。

 後ろ姿はどこか似ていた。けれど、顔は違った。まったく違う、誰か。前とは違う。あのときよりは少し鮮明な記憶だ。


────ああ、なんだろう。


 踏み込んではいけない領域だ。


────その顔はひどく、


 でも、その境界線を俺はまたごうとしている。


────今の俺の顔に、似ていた。


 ひどくなつかしい。

 それこそ別の記憶を思い起こさせるような──ああ、だめだ。そんなのは思い出しちゃいけない。だめだ。そこは踏み込むな。踏み込んでいい場所じゃない。


 そして次の場面。

 俺はいつの間にか、そいつの首をしめていた。


 そこから暗闇のような場所に訪れて、意識は底にひらりひらりと落ち葉のように墜ちていった。

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