第6話 5-1
/3 午後十八時二十五分 有馬邸
〝有馬静希〟
食堂から出て、ずいぶんの時間が経ったと思う。あれからいったん、自分の部屋に戻ったあと、しばらくしてむずがゆい気分になり、こうして出てきた。今の状況はそういうわけである。
ただ、さきほどの件もあって、澪と姉に顔を会わせるのは避けておきたかった。だから、食堂辺りには近づきたくなかった。だからせめて、庭に出て、外の空気を吸おうというそれらしい理由で、俺は玄関を抜けた。
そうして、右を見ると白い花畑があり、左を見ても白い花畑があった。そしてその間に、門へとつづく道ができている。いかんせん、その光景は少々、異常ともいえるが、誰もが感動するであろう絶景には間違いない。
俺は左の花畑のほうにつま先を向けた。花畑には小路があって、そこをたどっていたのである。
ちなみにその白い花、というのは『彼岸花』と呼ばれるものだ。この花の名前を言われて、脳裏にうかぶのは赤色の種類だろう。でも赤色以外にも、黄色や白色があるのだ。
それと、たしかにこの一面の彼岸花を目にして、心を揺り動かさないわけがないだろう。でも俺には、なぜこの花にだけ執着するのだろうとばかり思っていた。執着、という言葉にはもちろん他意はない。単純に気になってしまうのだ。
でも、たしか──ここの花畑を管理しているのは──。
「あら、静希じゃない」
「え?」
ああ、そうだった。
たしか姉である有馬冬子だった。
「────」
姉──有馬冬子は、夜空にかかっている月の光を当たっていた。一瞬、風が吹き、姉の長い黒髪がなびく。その姿は視界いっぱいに広がる花畑
俺はずっと黙りこくっているばかりだった。澪よりはまだマシとはいえ、姉とも顔をあわせたくなかったのだが、とんでもない失態である。
「……さっきのことは、気にしなくていいわよ。私も気にしてないもの」
俺の顔を見て、そう察したのだろうか。
「いや、でも──」
そう言葉を切ると、しばらく風が吹いた。ひどく冷たい風が、俺の頬に当たり、そして通り過ぎていく。
「そう。ほんとに気にしなくていいのに」姉は残念そうに眉を下げつつも、少し微笑んでそう言った。「ここ、なんで彼岸花ばかりなのか、離したことなかったわよね」
「え、ああ、うん」
突然、違う話題を出してきたものだから返事にとまどってしまった。
俺は姉の声が少々、聞きとりにくかったため距離をつめた。
「父方の祖父──おじいちゃんがね、すごく花が好きな、やさしい人だったの。小さかった私はあまり花に興味を示さなかったんだけれど、あるきっかけで大好きになったの。おじいちゃんがあるときね、『庭に散歩をしにいこう』って言ってきたの。そのころからおじいちゃんっ子だったから、喜んでついていったわ」
たしかに──幸せそうだ。
頬を赤くさせて、空を見上げながら、誰かを思いやっているようなやさしい表情。これは大げさかもしれないけれど、そういう姉の顔は初めて見たような気がした。
「しばらく歩いているとね、そこに小さな花があったわ。まだ立派に咲いていない、半人前のお花。さっきも言ったけど、私、そこまで花に関心はなかったのよ。でもそのときだけは例外だった」
姉の横顔をじっと見つめている自分がいる。見とれているのかどうかは知らないが、人間というのはこういう風に幸せというのを表すんだろうか、と感動はしていた。
「その花はね、この庭ほとんどに咲いている彼岸花よ。それぐらい、その花に見とれていたし興味も持っていた。でもね、一つ違うところがあるの。まあけっこう大きな違いなのだけれどね」
「違い?」俺は首をかしげるようにして言った。
「そう。──それはね、色よ。当時見た彼岸花は赤色だったわ」
「へえ、赤だったんだ。じゃあなんで、ここには白ばっかりなの?」
俺は少々気になってきて、連続で相手に問いかけた。
「そうねえ。実際、あまりそれらしい理由ではないと思うんだけどね」姉の言うそれらしい理由というのは、単純に好きな色嫌いな色云々のことだろう。「その花はね、お墓に咲いていたの。まあそこに咲いていたことはおかしくはないんだけどね。あれは、まあ墓というほどのものではないわね。単純に、スズメの墓だったらしいわ」
「スズメ?」
──突然、頭痛がした。
「ええ。おじいちゃんの話によると、ひどい大けがだったらしいのよ。見てるだけで痛々しくなって、せめて安らかに眠れるようにってお墓を──」
──まずい。
そんな単語が何度か、俺の頭のなかをよぎった。冷たい風が吹いた。その風が全身を突き刺す鋭い刃のように思えてしまった。変な錯覚だ。
「そのスズメを、誰が殺したんだ?」
俺の口から、勝手にそんな言葉がこぼれていた。そう問おうと思って言ったわけじゃない。そのときはまるで違う誰かに乗っ取られたかのような感覚になった。
──そんなこと、あり得ないのに。
そう、あり得ないはずなのだ。
俺が? そうなのか?
そんなわけ、あることが……。
「殺し、た? なにを言っているの?」
「違う……! 俺は殺してない……オレは……殺してねえ……!」
頭をぶんぶんと左右に激しく振って、そんなみっともない怒鳴り声をとなりの姉に浴びせていた。
「し、静希……! しっかりして? ね?」
姉は俺の前に来て、肩をつかむ。
その瞬間──、
「触るんじゃねえよ……!」
肩に乗せてきた姉の手を、オレは振り払った。
そうして俺ははっと我に返った。そのとき、最初に視界を占領していたのは姉の人形のように美しい顔と、うるんだ瞳だった。
「ち、違う……ごめん。ごめん姉さん。違うんだよ、今の俺じゃな……」
俺が誤解を解こうとするときにはもう、姉は揺れていたその眼から一粒、また一粒と涙を流していた。
「ううん、大丈夫。ぜんぜん気にしてないよ」
姉はいったん目を伏せて、流れ出る涙を指で拭きとっていた。そのあとでまた顔を上げる。笑顔だった。涙が通った筋はてらてらとしているけれど、笑顔だった。もうこんなことは慣れているとでも言わんばかりに。
「だから、赤い彼岸花を見るとね、白色のものよりもすごく綺麗だって俄然感動するし、同時にいたたまれない、痛々しいというような気持ちになってしまうの。だからおじいちゃんには『白い花でお花畑を作りたい』と、言ったの」
そうして、俺のとなりに移動して話を続けた。同じ笑顔で。まったく表情を動かさないでいる。
これは気にしないでいいのだろうか。
姉は、せっかくさきほどの非日常からいつもの日常へと繋いでくれた。気にしたらまた、壊れるだろう。
だから俺は姉に便乗、話を続けることにした。
「てことは、この庭の花畑は全部──」
「そう、おじいちゃんがしてくれたわ。ああ、もちろん私も手伝ったわよ、さすがに」
言い訳するようにして姉は言った。
「すごく痛いことかもしれないけどね。すごく、変なことを言うけどね。このお花たちは私にとっては唯一の友達であり、救いなのよ。自分の心をいやしてくれる、そんな存在」
「──やっぱり、食堂でのこと……気にしてたんだよね」
「──うん」
それから楽しく話していたはずの姉は顔をうつむかせて、じっと立ち尽くしていた。俺と姉の間には微妙な距離感がうまれ、同時に低くも大きい壁が隔たっていた。そして、沈黙がその場の空気という空気を重くさせていた。
「ごめん、姉さん」
「え?」
しばらくして、俺の言葉がその
「俺はさ、どうしても大輔の仇を討ちたいんだ」
「どうしても……?」
「うん」
「──そう──」
悲しそう、だ。
姉の横顔は食堂で見たときとひどく似ていた。
もう、そんな顔は見たくなくて、顔を背けてしまった。
「じゃあ、俺、部屋もどるよ」
「……」
それから姉はしきりに黙りつづけていた
単純でありながら豪勢な花畑を抜けて、俺は玄関を通り、館のなかに入った。そこでは二階に俺の父と藍沢雅臣が話していた。俺はそんなのは無視して、自分の部屋へ直行した。
そのときの自分はひどくのらりくらりとしていたと思う。
少し、わからなくなってきたよ、俺。
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