第3話 2-2

      /5  午後十五時二十二分 学校 


          〝有馬静希〟


 どうやら俺は今まで保健室で眠っていたらしい。すごく寝心地がよかった。感想を述べるとしたらそんなところだ。


 窓の向こうに映る景色のほうに視線を移した。

 空は若干、雲がかかっている。太陽はもう沈みかけていて、周りは太陽に照らされ、オレンジ色に染まっていた。


「あ、ちょうど目覚めましたので、お電話お代わりしますね」

 保健室にいた中年女性の先生は、そう言って俺に電話を差し出してきた。

「誰からですか?」


 俺が出した声はあからさまに寝起きなのだと思わせるような、のらりくらいとしたものだった。


「水川澪さんって人よ」

 俺専属の使用人の名前だ。

「ああ」


 俺は察して、電話を耳に近付けて、「もしもし?」と相手に言った。

 今どき、あまり「もしもし?」なんて言わないらしいけれど。


「静希さま、お体の調子はいかがですか」


 少しだけ、心配そうな声を出していた。いつも感情を表に出さない性格とは裏腹に、彼女は俺を心配してくれていると、その声からはっきりと理解できた。そういう優しいところが、彼女の第一の長所だと俺は思う。


「大丈夫だよ。だいぶ調子はよくなってきた。ま、いつものことだしね。体が弱いのは知っているだろう、澪も」

「……だからこそ、心配しているんです」


 今度は少し、怒ったような声。

 あれ。意外と澪って、わかりやすいな。

 そんなふうに思えてきてしまった。


 そういえば彼女と初めて会ったのは俺が退院したあとのことだった。俺と同い年くらいの子で、学校には通ってはいないが能力自体は優れているらしい。


 あのときはもっとわかりやすかったし、そういうところは俺は好きだったのか、ついからかっては彼女に怒られてきた。


 やはり根は変わらないものなんだな、と俺は苦笑しながら思った。

 

「そういうものなのかな」

「そういうものです。ですからもう少し、自分の体を大事なさってください」

「まあまあ。で、わざわざ電話をかけてきたってことは他にも何かあるんだろ?」


 俺への心配だけで電話をかけてくることはないだろうから、そう問いかけた。


「はい。そちらに迎えの車が来ているので、帰りはお車にしてください。……ただでさえ、いつ死ぬのかわからないのですから」


 死ぬ?

 澪ってそんな冗談を口にする人だったか? 


「死ぬ、なんて縁起の悪いこと言うなよ。この歳で死ぬのは早すぎるって」

「冗談で言っているんですか?」


 どうやら相手からすれば、今の自分の発言こそ冗談に聞こえるものらしい。不可解だ。

 電話の向こうから、はぁ、とため息が聞こえた。


「いえ、もうなんでもございません。とにかく、そちらに迎えが来ますので。それでは」

 と、電話を切られた。なんで怒るんだろう、と不思議に思い、自然と首をかしげていた。

 

 そのあと俺は、保健室から出て、靴箱に向かった。靴をとりだして、外に出る。おそらく校門前にいるだろうから、そこに向かった。


 すると案の定、そこに名家らしい黒塗りの高級車が来ていた。まったく。もう慣れてしまったのだから仕方ないのだけれど、こういういかにも名家然とした雰囲気はあまり好きじゃない。もうすこし庶民らしくしてもいいじゃないか。


「……はぁ」


 小さくため息をつく。


 運転手のほうに目を向けると、見たことのない人だった。以前は三十代の、よく言えば成熟した女性が運転手だったはずだが、今度は男だった。初めてだ。うちの使用人には女性しかいなかったはずなのだが。


 運転手がこちらに気がついて、ドアを開けて、その姿を現した。その動きは、なんというか、すごく気持ちの悪いかもしれないけれど、きれいだと感じた。


 しかし。

 その姿は、なにか不吉な雰囲気をまとっていた。まるで何者かにつかれてでもいるかのような、あるいは誰かを殺してきたかのような。実際、不吉であるものならなんでもよかった。俺が思ったことは、その人間は、この世のあらゆる不吉と結びつけても、なんら違和感を感じさせない、「不吉」な男であるということなのだ。


「お待ちしておりました」


 色っぽい低めの声で男はそう言った。

 うしろで結っている長い銀の髪を風になびかせて。

 目をつむり、それは芸術と言われてもおかしくないほどに、綺麗に頭を下げる。


わたくしは本日より有馬家の給仕を務めさせていただきます藍沢雅臣あいざわまさおみと申します」


 頭を上げて、男はこちらをじっと見据えてそういった。

 その双眸そうぼうはどこか冷たくて、懐かしくて、謎に満ちたものだった。

 身長は百八十ほど。平均の日本人男性よりもずっと高く、髪色も銀なので、外国人かと思った。しかし、その藍沢雅臣と名乗った男の顔はどちらかといえば日本人よりの作りをしていた。どちらにせよ、おそらくその人は日本人と何かのハーフなのだということは何となくわかった。


「初めまして。僕は有馬静希と言います」

「あなた様のことはご当主さまからうかがっております」


 それと、やはりこの気持ちはぬぐいされない。

 この男に対して、「なつかしい」と思うこの気持ちだけは、どうも合点がいかない。


 初対面のはずだ。初めて会った人で、初めて話した人のはずだ。だというのに、俺はなぜか、この人とは話しなれたような気がしてならないのだ。


「あの」

「はい?」

「どこかで、会いませんでしたか」

 俺はおそるおそる、そう訊いてみた。初対面でこんなことを口にするのはおかしいのかもしれないが。

「……いえ、今回が初対面でございます。もしや街でわたしのお顔をごらんになられたのではありませんか?」


 そうなのだろうか。

 しかし、街中を歩いているとき、この男の顔を見たおぼえがない。

 いや見たのか? 見たんだっけ?


 頭の中を巡る疑問はどうしても消え去ってはくれないものだから、とりあえず頭の隅に置いておくことにした。


「さ、お車に」


 男──藍沢さんにうながされて、俺は車の後部座席に乗った。


 わざわざ後部座席に座ったのは、大した理由はないのだけれど、あの人のとなりに座るとなるとやはり緊張してしまう。なにせ初対面の相手こそ、俺が苦手とするものなのだから。


 藍沢さんも俺が乗ると、運転席に座り、エンジンをかけた。しばらくして車は動き出していた。そのとき俺は窓のむこうの景色を見ていた。


 夕陽のいろに染められた住宅街。もう今となっては人数が数えられるほどしかいない下校中の生徒。


 その生徒たちは、みんな同様に俺が乗っているこの車に注目していて、こちらとしては恥ずかしい気持ちになった。


 やっぱり俺には庶民らしいものが似合う。俺自身、そこまで高級感のあるところは好きじゃない。退院してからずっと思っていたことだが、あの洋館はどうしても慣れない。今になっても、たまに迷子になることがある。それでは他の家に示しがつかない、と父に怒られたことはあるけど、いつも思うのだ。


 どこか父は冷たいと思うのだ。


 それは別に思春期特有の悩みでもなんでもない。ただ単に、俺ばかりが冷たいということに少しばかり疑問を抱いているだけなのだ。


 姉や弟がなにかしたら、それこそ鬼の形相で約一時間ほど時間をかけて𠮟りつける。その場面には俺も何度か、出くわしている。


 姉が怒られるところは今まで数回しか見たことがなかったが、弟の直紀に関しては週に四、五回ほど。


 入院以前はどうなっていたのかは触れたくない。たぶん俺は何度も怒られたのだろう。

 そしておそらく直紀がそこまで怒られるようになったのは、やはり次期当主としての座に直紀がつくことになったからだろう。


 ……正直、複雑な気持ちだ。


 交通事故とはいえ、俺の身勝手が直紀に苦しみを与えたのだ。

 だから責められても文句は言えない。


 「なにやら浮かないお顔をなさっていますが、どうかなされたのですか?」


 藍沢さんはミラーを通して、俺を見ていたらしい。


「いえ、別になんでも」

「なんでもない、というお顔のようには見えませんが?」


 お見通し、ということだろうか。


「……少し、弟のことが気になって」


 俺は諦めて、藍沢さんに話すことにした。


「ほう」


 それらしく、相槌をうつ藍沢さん。


「父は弟ばかりに怒ってて。それも全部、俺のせいなんだなと」

「なぜ、あなたが?」

「俺、交通事故に遭ったことがあったらしいんです。けど、それが原因で次期当主の座から俺は外されました。その座についたのは弟になったんです。退院後、弟ばかりがきつく叱られることが多々あって」


 なるほど、と藍沢さんはうなずいた。


「姉はどうなんですか?」

「姉さんは、怒られるところなんて数回しか。まあ自由なとこはありますけど」


 姉。有馬冬子ありまふゆこはまさにお嬢様然とした雰囲気を漂わせている。それでいて、大人の女性らしい魅惑も持ち合わせている。


 あの人と結婚できる人はきっと幸せなんだろうな、と思うほどだ。


 けれど、俺はある本を読んでそうでもないのかな、と思い始めた。別にそれは姉を侮辱しているわけではない。


 ただ──なにもかもが完璧なだけに──どこか人間性を失っていることもありえる。そんな記述がされていた本を読んだ。著者は有名大学で心理学を専攻していた芸能人だった。だからといってその人が書いたことの何もかもを信用していい、なんてことにはならないが。


「そうですね。……失礼、これは別に冬子お嬢様を侮辱するわけではありませんので。ある本で気になったことがありまして、それが『人間として完璧なだけに、人間らしさをひどく欠落している人間』というものなんですが」

「それ、俺も読んだことがあります」


 それは奇遇ですね、と藍沢さんは言う。

 そのあと、今の話を続けた。


「知識、技能、性格、上品さ、容姿、言葉遣い、人が持つ能力はすべて挙げるときりがありませんが、一般的に評価される能力はこれらでしょう。評価はお嬢様に関して言えば、文句なしの満点でしょう。完璧な人間、という本来ならば存在しえないものを、見事に演じてみせたのですから」

「演じてみせた?」


 この男は姉の能力を演技だというのか。

 俺は少し、その言葉にひっかかった。


「ですから言ったでしょう。別に他意はありません、と。続きをお話しますが、実際にお嬢様は完璧な人間です。しかしそれはある条件のうえでの評価です。それは、あくまで能力値にしぼって評価した場合。もし、人間性──言い換えれば人間らしさという観点が増えたら、どうなると思います?」

「人間らしさ?」

「ええ。人間らしさです。誰もが持つ、人間たらしめる要素の集合。誰かのためになりたい、誰かを切り捨ててでも自分が一番になりたい、などその大半が欲です。人には欲求がたくさんあります。そのなかで大きく三つに区分したのが、三大欲求と呼ばれるものなのです」


 人を人たらしめる要素の大半、それが欲望だと、この男は言った。

 たしかに、と思う。人間というのは感情が豊富だ。それゆえにその何かを手にしたい、という野生の記憶ほんのう


「なるほど」

「あらゆる能力が完璧で、かつ人間性を優れている人物を『完璧な人間』というのであれば、やはりこの世にはそのような代物はない、ということですよ。たしかに彼女は人間として優れている。とくに知識や技能といった部分がね。だが、彼女は大事なものを忘れたのだろう。知識や技能を最大限にまで育てあげることだけに集中しすぎてしまったがために、ほかに必要なものを置き忘れてきたんだ」


 なんだろう。藍沢さんの声は優しいけれど、何かを悲しんでいるような、弱々しいものだった。


 俺はその声色の変化に気になって、その男の顔をミラーで見てみた。すると、やっぱり予想通りだった。──この人は、俺の姉について語っているようで、そうじゃない。そうじゃないんだ。


「誰のことを言っているんですか、それ」

「……勘がいいね。まあ、実を言うと君の姉とひどく似た人を思い出してね。そしたらいつの間にか、その人のことを語っていたらしい」


 途中で、「お嬢様」から「彼女」に変わっていた。それには何か深い意味があるのだろうか。


「……まったく。僕は変わらないね」


 人間観察なんぞ嫌なんだが、と藍沢さんはつぶやいた。

 何のことなのか分からないので、あえてその言葉を追及するのはやめにした。


 そしてそのあと、俺たちの間に会話はなかった。ただただ沈黙に徹するばかり──いや、沈黙せざるおえなかった、というのが正しいのだろう。場の雰囲気、というやつだ。初対面だから、とは関係なくて、これ以上話すことはないだろうとお互い察してのものだった。


 車で帰るのは久しぶりだ。それは、こういう送り迎えをしてもらったことはないからである。


 もっとも、送りますとか迎えに来ますとか言われても断っていたのは、まぎれもない俺なのだが。理由を述べるなら、ただ普通でありたいからなのである。いたって普遍的で、日常的なものを求めている。目立ちたくないのもそうだし、そういった高級な風に吹かれるのは俺らしくない。別に自分らしさを求めてるわけじゃない。けれどせめて普通の自分で過ごしたい、というのが俺のなかでずっと変わらない、小さな願いだ。


 それと──車で帰るとなると、いつもの近道(細道)を通れない。だからいつもの帰り道とは違っていた。俺はその帰り道に、いつの間にか消極的でいた。あるいは否定、拒絶していた。その道を避けるために、車も通れないような細道を使っていたのに、こうなってしまってはもうどうしようもできない。


 なぜ俺がその道に消極的でいたのか。それは、その帰り道の途中である公園があるからだ。名前は東公園なんていう、どこにでもある公園だ。ブランコや滑り台、鉄棒、砂場。公園の定番とされる遊具がそろってある、大きくも小さくもない公園。ここに来る人はなぜか少なかったので、俺にとってはぴったりの穴場──逃げ場だった。


 ある記憶を振り返った。


 有馬静希という少年は幼いころ、有馬家の厳しさに苛立いらだちを覚えていた。


 そう、俺はただただ厳しいだけの規則にうんざりしていた。


 そして俺は、ときおり屋敷から抜け出して、例の公園を逃げ場として利用していた。そこで俺はたくさんの遊びを学んだ。


 当時、俺は屋敷に閉じこもってばかりだった。学校にも行っていなかった。あの事故以来、俺は次期当主の座から外れた。つまりそれまではずっとそのための教育を受けていた。そう、その教育から逃げたのだ。


────頭が、痛い。


 それに外で遊ぶ時間はあっても、いつも庭で遊んでいた。そもそも屋敷から出ること自体、禁止されていた。なんてこった、こんなの監禁だろう、なんて毒づいていたけれど、今となってはそんな不満も解消された。


────頭痛がする。


 それから俺は、あの公園で普通の遊びを学び、そして普通の人間と会った。俺のような上流階級にいる人間ではなく──大金を見慣れたせいで、心が腐ってしまった人間ではなく。普通のお金で、普通の家庭環境で、普通に教育を受けてきた、ただの少年に──俺は出会った。


────ズキズキと音が鳴る。


 俺は、その少年の自分を飾らない姿勢に憧れた。俺はいつも、自分の優遇さを利用していた。しかもそれに感謝せず、ずっとそれを当たり前だと思い込んでいた。


 少年は俺に言った。


────きっと、きみもおれといっしょになれる。


 その言葉は、俺がずっとほしかったものだった。

 ずっと、ほしくて、ほしくてたまらなかったものだ。


 その言葉はやがて、俺の涙へと変わっていって。その涙もやがて、地べたへ俺の肌をつたい落ちていった。

 そのときの記憶おもいでを、鮮明に覚えている。


 そういえば。

 その少年の名前は──いったい、どんなものだったか。

 なんだろう。彼に関する情報は、この想い出だけで、名前や顔など、あらゆる情報が欠如していた。


「──着きましたよ?」

「はぁ……はぁ……はぁ……」

「静希さま、どこか体調が優れないのですか?」

「え? あ、いや──いえ、大丈夫です」


 突然、藍沢さんに呼びかけられた。どうやら俺は想い出に浸っていたらしく、それ以外の情報を完全に遮断していたようだった。


 浸っている途中、やはりひどい頭痛に襲われた。


「ああ、はい。ありがとうございます」

「いえいえ」


 俺はドアを開けて、玄関前に立つ。

 玄関を開けて、俺は今朝ぶりにその光景を目にした。いつまでも慣れることのできない、いつもの光景。


 ──そして、そんな自分に違和感をおぼえた。そう、それはまるで記憶を失ったよう。『お前は誰なんだ?』という問いかけに他ならない。

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