第2話 1ー1

        第 一 章


         探 偵



「んぅ……ぅ」


 朝。午前七時半ほど。本来ならば、ベッドでうたたねしている少年が学生として学校に通うころだ。しかし、昨夜に少年は今日の午前二時ぐらいまで眠っていなかった。そのせいで、いつもの起床時間、午前六時に起きることはなくなった。


 少年は朝が苦手だ。それは少年自身もわかっている。ならば目覚まし時計や携帯のタイマーを使って、早く目覚められるように努力すべきだろう。しかし少年にとってはその必要はないのだ。


 少年は、ら有馬という名家の子息の一人であった。有馬が持つ財力はそこらの金持ちどもと比べなくとも、圧倒的だと理解できるほどだ。そんな名家が主人を奉仕する給仕きゅうじ、俗物的に感じるが、いわゆるメイドという者がいても、なんら不思議はないだろう。


 そう、少年が転がっているベッドのかたわらにはそれらしい、西洋のメイド服を着た若い少女がいぶかしげに見つめている。理由はごく当然のこと。いくら少年をゆすっても目を覚ましてはくれないからだ。一回ほど、ためらいつつも豪快に少年のほおを手のひらで叩きつけた。が、少年はそのほおは赤く腫れあがっているというのにまるで起きる気配がない。ここまで来たら、さすがの少女も疲れるばかりだ。


 しかし、最後の希望とふんばることにした。


「静希さま、静希さま。朝ですよ、そろそろ目覚めていただきませんと、学校に遅れてしまいます」


 午前六時に静希を起こそうとして、ずっと言っていた言葉だ。同じ言葉を繰り返すとなると、この言葉自体が嫌いになりそうだ。


「……ぅ」


 だめね、と少女はがっくりと肩を落とす。

 そして少女はいさぎよく、これ以上ストレスを溜めたくない、とため息を吐きながら少年に背をむけた。その背中はまるで目覚めぬ眠りの姫をおいていく、外道王子のような、はかなく冷たいものだった。

 しかし非があるのはどちらかというと──。



    /1 午前八時二十分 有馬邸

        〝有馬静希〟

「……」

 俺は呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。なぜかと問われると、腹が痛いことこの上ない。その答えは自分にとって恥さらしでしかないからだ。

 おそらく俺の瞳は色という色を失っているだろう。

 しかしこの事態は初めてのことだ。今までいくらか、これに似たことはあったが、最終的にはくぐりぬけていた。ギリギリだった。


 つまり今の俺にとって、これはある種のとどめであった。残り少なかった命を確実に絶つ、まさにとどめの一撃。今までそれを喰らうまでの攻撃をいくつも受けていたが、とどめの一撃は奇跡的に避けてこられた。しかし、出会ったそうそうにとどめをくらってしまった。


「何かの冗談、だよな?」

 現実を直視できない自分があまりにも滲めすぎて、辛い。

「きっと、幻覚だよな?」


 幻覚とさえ思ってしまっている。知らず知らず違法薬物を体内に入れてしまったのか? そんなふうに思うぐらい気が狂っている。


「ええ……」


 たった今、ようやく俺は自分におかれている状況を理解した。


「はぁ……」


 大げさなまでに、大きなため息をつく。

 まぶたを閉じて、あともう一度、状況整理をした。


 壁にかざってある時計の針はどう見ても午前八時十三分を指していた。さきほどは目の錯覚かもしれないと近くに寄って確かめてみたが、結果として間違いのない事実だった。


 学校の門がしまるのは、午前八時十分。もう三分も遅れている。今の状況で言うなら十分じゅっぷんも遅れている。

 目の錯覚でもなし、幻覚でもなし、夢でもなし。これは紛れもない事実であると再確認したところで──、


「くそぉ!」


 俺は学校にむけて準備をすることにした。


 クローゼットを勢いよく開けて、カッターシャツとズボン、ベルトとジャケットを取り出す。それらを着ること二分。それからは部屋を抜け出し、赤い絨毯じゅうたんの踏み心地をかすかに感じながら、廊下を走る。そのとき、誰かが曲がり角で俺の体と当たりそうになった。その人は誰だっただろう。その誰かさんが、構わず走り続ける俺を怒鳴っている。


 俺の部屋は二階の東館におかれている。そこからロビーまで出るのに一分ほどはかかる。歩いていけば五十秒。走っていけば二十秒ほどで出られる。一軒家やアパートが多く建てられている住宅街で、明らかに場違いすぎる洋館が一つ。それが有馬家うちの屋敷である。この洋館の作りは外観の印象ほど複雑ではない。そこらへんを歩いていればすぐに屋敷の全体構造を理解できる。ただ奥行きがけっこうあるせいで、奥に部屋がある人にとっては無駄に時間がかかるだけだ。たぶん、歩いて五分なんて人もいるのだろう。


 こういうところだけは幸運といえる。正確には不幸中の幸いというべきだろう。


 ロビーにたどりついて、広々とした中央階段を同じ調子で駆け降りていく。そのとき、一階の西館を横目に玄関に向かった。そこには食堂がある。できれば食事をとりたい俺だが……。

 飯を食っている場合じゃない。今すぐにでも行かなければならないのだ。


 普通の家よりも少しばかり大きい扉を開けて、庭に出る。部屋から持ってきた通学鞄を脇にはさんで、不意に吹いてきた秋の風にのるように、全力疾走で白い彼岸花に包まれた庭を駆け抜けていく。


 俺の通う学校はどこにでもあるような進学校だ。この町の市民のほとんどが通う普通の学校。よく勘違いされるけれど、俺はたしかに有馬家の子息。本来なら俺が次期当主となる、はずだった。


 俺は七年前──十歳のころ──即死してもおかしくないと思われた交通事故から生き延びたらしい。らしい、というのは俺自身、あまりその時の記憶を覚えていない。事故以前の記憶と、事故に遭って一年後に目覚めたあとの六年の記憶しかない。いや──ない、というよりは俺が勝手になかったことにしている。

 

 事故以前の記憶を掘り起こそうとすると、唐突な頭痛に襲われる。入院当時、それに悩んでいた。だからそれ以降、あまりその記憶には触れないようにしていたのだ。

 

 つまり事故の瞬間を覚えていないのだ。脳には異常はないと言っていたが、本当なのだろうか。


 それで昏睡状態だった俺を見た父──現当主である有馬誠ありままことは俺が死んだと勘違いしたらしい。それも無理はないだろう。なにせ一年だ。それぐらいの時間が経ちながらも目覚めないとなれば、その体が生命活動を続けていたとしても、「死んだ」と判断せざるおえないだろう。


 そして長い眠りから覚めたとき。

 俺が数日して帰ってくると、少し環境は変わっていた。もともと俺たちの母は事故死していったらしいのだ。これは姉に聞かされていたことである。しかし父のとなりには、もうすでに新しい人が立っていた。


 着物姿の、綺麗な人だった。なんとなく見覚えがあった。だからまた無意識に思い出そうとして、頭痛がした。


 名前を直子という人らしい。その名前に関しても、頭痛を恐れて触れないでいた。


 でも最も驚いたのが、その顔だった。

 人形みたいに綺麗で、色白で、小顔で、はっきりとした女性の完成形ともいえる輪郭。まるで、華のようだった。


 そう、そんな特徴を持った顔を俺はもう一つ知っている。

 姉──有馬冬子と、あまりに似ていた。


 ちなみに当主となるのは男性と決まっているらしい。俺には二歳離れた弟と姉がいる。だから弟である有馬直紀ありまなおきが当主となるのは必然だった。


 それから直紀は父から英才教育をほどこされているらしく、これは恨まれても文句は言えないな、と参っていた。


 姉の有馬冬子ありまふゆこと直紀は同じ名門学校に通っている。そこはどうやら名家の子どもたちが次期当主となるための教育を受ける場所らしく、俺も以前はそこに通っていたらしい。だが、事故に遭ったあと俺は普通の学校に転入することになった。俺の存在に関してはどうしても隠したい、と父が言っていたからだ。具体的に言うと、死亡したとなると父の〝お友達〟に示しがつかない──だから父は俺は落ちこぼれだった、ということにして普通の学校に通わせた。次期当主に関しては直紀に譲っているので、そこは問題なかった。


 まあ、そんなことを考えているうちに学校にたどりついた。


 門は閉まっている……と思いきや、開けられていた。──しかし、そこに俺にとっての天敵が立っていた。


「よう、静希。ずいぶんとえらく遅いご登場じゃないか」


 体育教師兼生徒指導の先生である五里田ごりた先生。

 いつもお世話になっているゆえ、どうも目をつけられて面倒だったのだが……どうやら俺の寿命もここまでらしい


 この瞬間、俺は初めて「死」というものを感じ取った。けれど、その時点で手遅れであったことも感じ取っていた。


「あーあ」


 やっちまった。

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