第1話 ──目覚め── 続

 「ん─っ」


 ひどくなつかしい夢をみていた。

 そんな気はするけど、よく覚えていないのがいらつく。

 そして起きてから二時間経ったあとで、医者は昨日と同じように静希の体を調べて、ついでに血も摂っていた。どうしても注射の痛さは慣れないものだ。


 それから三か月が経った。

 言葉を話すことさえままならなかった静希にリハビリをほどこした。それを続けて三か月で、やっと人との会話がまともにできるようになった。声もはっきり出せる。


「静希くん、君には病気やケガは見られない。きっと体が丈夫なんだろうね。だから静希くんは明日には退院できるよ。……ああ、退院っていうのは自分のおうちに帰れるということだよ」


 その言葉を聞いてうれしい、と思うべきなのだろうか。

 家族のところへ帰れる。それは普通の子どもにとってはいい知らせなのかもしれない。けど静希にとっては、どうもそのいいおしらせには聞こえなかった。あんなさむいところ、つめたいところには帰りたくなかった。


 静希の家族は目がさめてから一度も見舞いに来ていない。先生にきいてみれば、気まずく「……いや、来ていなかったね」と言っていた。


「やだ、帰りたくない。先生、おれまだここにいたいよ」


 ひさしぶりに自分の気持ちを言葉にした。

 すると先生は顔をかたむけて、「うん?」と声をもらす。


「だって、すごくさむいんだ。いたいんだよ。それにこわいんだ、ほんとうに。あの家は……家はまるで──」


 まるで、化け物みたいだ。

 そう思えて仕方がなかった。

 たしかな記憶はない。けれど、静希の本能がそう感じとっていた。


「それは勘違いだ。忘れなさい」

 先生は色を失ったみたいな目を少年に向けて、そう言った。さっきまでの安心する笑顔と逆転したみたいに、その顔は静希の心にふりかかる雪のようだった。

「まあ、長い間帰れなかったからね。きっと緊張しているんだと思うよ」

「……うん」

 静希はうなずいた。

「じゃあ、僕はもどるよ」先生は少年に背中を向けて、つめたい顔でこう小さく言っていた。「──こんな子供に、なんてことを……」

 その言葉が静希には理解できなかった。

 

 昼の十二時ちょうどにだれかが来た。

 きれいな人だった。母はよく化粧をしているけど、その女性は化粧なんてものはしていなくて、それでもきれいだった。美しい姫、そう言っても過言じゃないことは誰よりも静希がわかっていた。


 その美しい女性は、まぎれもない静希の姉だからだ。

 やっと自分のところに来てくれた。それがすごくうれしくて、静希の表情はほころんでいた。


「静希ちゃん、元気してる──」


 元気してる? と言いかけたところで姉は動きを止めてこちらを見ていた。しばらくだまり続けてばかりで少年は不安になった。


「……そう、なんだ」姉はやっと口を開ける。「……やっぱり、ね」

「?」


 静希は顔を右にかたむけた。その言葉がよくわからないものだったからだ。今日は本当に静希にとってよくわからない言葉ばかりが飛び交う。いい加減、自分にちゃんと説明してほしいものだ。


「静希、元気してる?」

「え、ああ、うん」


 それからの姉からはつめたい何かを感じていたけど、話をしていてとても楽しかったし、あたたかいとも感じていた。


「静希。あなたは何か訳のわからないものに対して、いらいらすることはない?」


 姉が通っている学校での、面白おかしい友達との話の途中だった。とつぜん、姉は本当にわけのわからない質問をしてきたのだ。


 わけのわからないもの。かすかに胸に感じる、なにかに対する怒りがある。けどそれはきっと、姉や先生が口にした言葉がその何かの正体なのではないか。静希はそう思っている。


「ううん、違う。それじゃない。わたしが求めてるものはあなた自身が抱く、恨みや憎しみよ」


 静希は顔をかたむけて、「ん?」と声をもらした。

 そう言うと、姉はあきらめたような顔をしてため息を吐く。


「ごめんね。今のは忘れて。──うん、ちゃんとわたしが対処するわ」


 わからないことが多すぎて、どう答えればわからなくなる。どう答えようか、と悩んでいたら姉はすっと立ち上がった。


「明日にはうちに戻ってくるんだよね?」

「うん」

「じゃ、また明日ね」


 そう言って姉は背中を少年に向けて、この部屋からでていってしまった。

 その背中に、静希は寒気を感じた。


 夜。少年は目がさめてしまった。

 まくらは汗でぬれていて、すごく気持ち悪い。こんなところで寝ていられるか、と少年は思って、ベッドからすぐに出た。部屋からも出て、ろうかを歩き続ける。

 あかりが少なくて、目の前がまっくらだ。その先はどんなに目を細めて見ても見えない。なぜか、見ちゃいけないものがあると思った。でも、少年は歩いた。もう少しはやく歩いて、その先をもっと近くで視たかった。

 おでこから汗がふきでて、すごく気分が悪い。ついでに吐き気もするから、ベッドで休みたかった。でも、好奇心には勝てなかった。

 自動販売機。そのあかりが周りをてらしていた。そこには白い服を着た、だれかがいた。そのひとはしゃがんで、くるしそうにしている。いたそうだ。少年はそれに近づいて、「大丈夫?」と声をかけたかった。けど、めまいというのだろうか。目の前がゆれて、まるでそこが現実世界じゃないみたいだった。

 そこで少年は崩れおちた。最後に見たのは、そのだれかの前にもう一匹、だれかが赤い目でこちらを見つめていたことぐらいだった。



 有馬静希は目覚めてから三日目にて、退院となった。朝起きてから、すぐに迎えに来るということで、静希は朝早くから準備をしていた。

 昨夜、なにか危険物に触れてしまったような感覚を覚えている。決して近づいてはいけない、なにか。しかし静希とてまだ幼い少年。その正体に好奇心と抱きつつも、恐怖心もあった。だから思い出すことをやめて、家に帰ることだけを考えた。

 だが……せっかくの退院だというのに、少年を担当していた医者は所要により休んでいた。仕事だから仕方ない、と看護師は言っていたが、なぜこのタイミングでと思った。

 少年はここ三日で、医者とは多少仲良くなれた。それこそ会ったときに笑顔であいさつし合えるぐらいには。だからぜひ、退院の日には彼に感謝と別れの言葉を告げてからにしたかったのだが、それが叶うことはなくなった。

「それじゃ、元気でね」

 少年の目覚めを第一に見たあの女性。話す機会はおそらく医者である彼よりもこの女性のほうが多かった。だからある程度には仲が良かった。


 雲がかかった青空のもと、看護師である人たちとやっと解放される少年とその迎えの者が入口の前に立っている。


 迎えの者は女性であった。これはまた昔ながらの西洋の給仕メイド服を着て、静希を迎えに来ていた。黒塗りのいかにも高級然とした自動車を道に停めて。


「うん、さようなら」


 まるで感情を失った人形のような口調だったけど、少年なりに情をこめていた。すこしだけさみしい。ときおり、奇妙な夢を見て怖かったけれど、優しい人たちだったから、ふつうに過ごせたと思う。


 それからのことはあまり印象がうすく、覚えていない。車に乗って、豪邸と言っても差しつかえないぐらいの自宅に帰り、ロビーで家族が待っていた、ということだけ。不満はあまりなかった。……強いて言うなら。


「お帰りなさい」


 そんな、人間とは思えない薄い声で少年を迎えた、この洋館のつめたさぐらいなものだ。

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