第42話 決着

 こぶしを構えていた待平はそのまま動きを止め、辺りを見回す。

 路地のほうから何やら大きな物音や叫び声が聞こえてくる。

「……何だ一体」

 拳をほどいて立ち上がると、待平は部屋のカーテンを開けてベランダに出た。ベランダから顔を出して路地を見下ろすと、二人の中高生くらいの少年が喧嘩けんかをしているようだった。

「おいこら! めてんじゃねえぞ豚野郎ぶたやろう! 俺様にぶつかっといてごめんなさいで済むと思ってんのか! さっさと金出しやがれっつってんだろうが!」

 中高生とは思えないほどのどす黒い声を出している黒髪の少年は、待平から見てもとても整った顔立ちをしていた。顔が怒りに染まっていなければ、さそがし多くの女性をとりこにできるだろうとも。

 方や、今にも泣きだしそうな表情を浮かべているもう一人の少年は……って、あれはうちの学校の生徒じゃないか――待平は気がつく。確か名前は田辺と言ったはずだ。何度か校内で見かけたことがある。

 そのまま見て見ぬふりをしようと思った待平だったが、ふと田辺と目が合った。

「せ、せんせーい! 助けてください!」

 こうなっては無視することもできない。無視してこのアパートに逃げ込んで来られても面倒だ。

 待平は「待っていろ!」と一言声をかけると、ベランダから部屋の中に戻って、界斗たちに「大人しくしていろ」と釘を刺して部屋を出る。

 そのままアパートの扉を開けて路地に出た待平は、田辺のところへと近づいていき、

「ちょっとそこの君、乱暴は止めなさい」

 と黒髪の少年に声をかけた。少年は漆黒しっこくの瞳をこちらに向け、相手を値踏みする視線を送ってくる。

 ……なんて美しいんだ。

 近くで見ると、その少年の顔立ちはさらに美しく、まるでこの世の人間ではないかのようだった。そしてどういうわけか少年の漆黒の瞳の奥で青い炎が燃えているように見える。まぼろしを見ているのだろうか――そんなあり得ない想像が待平の頭に浮かんだ。

 その少年は他ならぬ悪魔だった。

「ああ? お前誰だよ」

 悪魔が待平にガンを飛ばす。

「わ、私はその子の学校の先生でね」

 待平が人前でむのはこれが初めてだった。

「だからどうしたよ?」

 大抵の生徒であれば相手が先生であることをチラつかせれば尻尾しっぽを巻いて逃げるものだが、どうやら目の前の少年には何ら効き目がないらしいと待平は考え、別の手段をとることにした。

「彼を離してやってくれないか。……君も大事にはしたくないだろう」

 ズボンのポケットから携帯を取り出し、警察への連絡という手段もさないことをアピールする。だが、またしても彼はこの場から立ち去ろうとしなかった。それどころか、

「あっちで勝負しようぜ。おっさんがわりしてくれるんだろ」

 待平に喧嘩けんかを吹っかけてきた。

 アパートの中に二人を捕らえている以上、ここを離れたくはない。ここはすきを見て田辺に逃げてもらうのが得策とくさくだろう。

 そう考えて待平は悪魔の背後にいる田辺に目をやった。

 すると田辺は待平の背後に視線をやっているようだった。待平の視線に気づいた田辺があわてて目をせる。

 ――まさか!

 背後を振り返った待平の目に映ったのは、路地の角からこちらをうかがう少年の顔。その少年はさっと顔を引っこめたが、その少年が誰であるかを待平が認識するほうが早かった。

 東雲政也!

 待平は彼のことを以前から警戒していた。

 定期考査であれほど七位を連発したり、部活の会計として限られた予算を的確に振り分けたり――彼は頭の切れる人間だと待平は考えていた。

 背後にいる二人を警戒した待平が振り返るのと、悪魔の拳が彼の顔面に突き刺さるのは同時。

 顔面にクリーンヒットをらった待平はよろめくが、意識をり取るまでには至らない。

 連続で攻撃を仕掛けようとする悪魔だったが、待平のほうが一瞬早く、悪魔の鳩尾みぞおちに拳を叩きこんだ。その拳にはナックルダスターはけられていない。着用する時間などなかったし、結果的には素手で十分だった。

 悪魔はその場で倒れ、ピクリとも動かなくなる。強烈な痛みで意識を失ったのだ。

「ヒィィ!」

 次は自分の番だと、田辺の顔が恐怖の色に染まる。

 だが、待平はそんな彼を無視して身をひるがえす。田辺よりも先に政也を処理することを優先しようと考えたのだ。だが、アパートの扉の前を通り過ぎようかというときになって、彼の心の中に迷いが生まれた。

 このままアパートを離れてしまったら、捕らえている二人から目を離すことになってしまう。確かに彼は危険だが、彼が何かをする前にあの二人を殺してしまえばいい。どうせ笠根を殺した後は逮捕されるつもりだったのだ。問題はない。

 瞬時に思考を巡らせた待平はアパートの扉の前で急停止し、ドアノブに手をかけた。

 瞬間、彼の頭上を一羽の鳥が飛んだ――いや、あれは、――人だ!

 向かいの建物にひそんでいた佐久間が、ベランダからベランダへと飛び移ったのだ。先ほど待平がベランダから下の路地をのぞき込んだ際に、待平の部屋の位置を遠くから見張っていた美衣香が、向かいのアパートに潜む佐久間に携帯でその情報を伝えていた。

 続いてベランダの窓ガラスが叩き割られる音が、待平の頭上で鳴った。

「ちっ!」

 舌打ちした待平は勢いよく扉を開け(それでも扉の開閉音は全くしなかった)、一気に階段を駆け上がり、界斗と笠根を捕らえていた三階の部屋に突入する。

 ちょうど佐久間が笠根の手を縛っていた縄を解き終え、これから口のガムテープをがそうとしているところだった。界斗は部屋の端で手足を縛られたままだ。界斗が先に笠根の縄から解くようにと佐久間に言ったため、そういう形になっていた。

 待平は右手にナックルダスターを装着し、佐久間に襲いかかる。

 佐久間は武器などもちろん持っていなかったが、持ち前の運動神経と反射神経を生かして彼の攻撃をたくみにかわす。

 らちが明かないと思ったのか、待平は標的を界斗に切り替えた。界斗、笠根の順に殺せば当初の彼の目的は達成される。あとでじっくり佐久間を殺せばいいと彼は考えた。

 それを見た佐久間は、ベランダを割った際に辺りに散らばったガラス片の一つを手に取り、手首のスナップだけで待平に向かって放り投げる。それは走る待平のほほを正確に切り裂き、彼の足が刹那せつな鈍る。

 そのすきねらって、反対の手で先ほどまで笠根を縛っていた縄をしならせて投げ、彼の浮いた足に引っかけた。

 まさに神業かみわざとしか言いようのないことをさらりと成し遂げ、待平がその場ですっ転ぶ。

 待平がアパートに戻ったのを見て引き返してきた政也が、扉から入ってきた。

「ヒュー! やるね~」

 部屋の様子を見て決着はついたとでも言いたげな政也に、声を飛ばしたのは笠根だ。

「油断しちゃダメ!」

 待平が腰から引き抜いたのは一本のナイフ。

 彼は足にからまった縄を一太刀で断ち切り、そのまま振りぬく形でナイフを投擲とうてきする。

 ナイフは政也の顔に目掛めがけて一直線に飛んでいく。

 佐久間が足元に散らばっていたガラス片をナイフに目掛けて放り投げたが、距離的にナイフのほうが早く政也の顔に届いてしまうのは明らかだった。

 政也も待平の咄嗟とっさの反撃に身動きが取れないでいた。

 絶望的な結末に誰もが息をのんだ、まさにその瞬間、

「ハァァァァァ!」

 ――踵落かかとおとしが横合いからナイフを叩き落とした。

 床を転がったナイフがカラン、カランと気の抜けた音を鳴らし、そして部屋に静寂が訪れる。

「ふぅ、何とか間に合ったみたいね」

 現状を作り出した彼女は、一仕事ひとしごとやり終えた風にそう言って、

「界斗、帰るよ」

 部屋の端で転がる彼にそう告げる。

 彼女は、界斗の姉の伊予いよだった。

 そして、その片目には界斗と同じく赤い炎が宿っていた。

 ――ということは、

 伊予の背後から姿を見せたのは、金髪の美少女である天使だ。

「私のが役に立っただろう?」

「うん、まさか動体視力も良くできるなんて。天使度がえるとか言われたときは使えねーって思ったけど、これなら便利だし、一生もらっておいてあげる」

「そ、それはダメだ! あくまでも今回限りって約束だっただろう! 私の眼を一生預けてもいいのは界斗だけだ」

 わちゃわちゃと騒ぎ始める彼女たちのせいで注意がおろそかになってしまったが、待平は――。

 界斗があせって待平のほうを見ると、すでに佐久間が彼を縄で捕縛ほばくしていた。

 ……さすがだな。

 自然と彼女のことをめた自分を、界斗は意外に思った。これまでの彼であれば歯噛みして、彼女の優秀さや有能さを決して認めようとはしなかっただろうに。

「「「オォォォォォォ」」」

 穏やかな勝利ムードが流れていた部屋に、突如けもののようなうなり声と手を叩く音が舞い込んできた。

 割れたベランダの窓ガラスの向こうから、扉の向こうから、――この部屋を取り囲むようにしてそれらは聞こえてきた。

 何事かとベランダに出た佐久間と笠根が「「おお!」」と二人して驚きの声を上げる。

 扉から入ってきた田辺が、界斗のもとへとやってきて、縄を解いてくれた。

 依然として歓声と拍手は続いていた。

「……これは?」

「僕のオタク仲間さ。僕たちの勝利を祝ってくれているんだ。……彼らのおかげで、君の居場所が分かったんだ」

「そうか……。それは感謝しないとな」

「うん」

 彼が言葉につっかえないのを聞いたのは初めてかもしれない――そんなどうでもいいことを思い、彼が歓声と拍手のうずに身をゆだねていると、

「こ、こんなことが!」

「ま、まさか、あり得ない!」

 何やら天使と見たことのない少年(悪魔)が騒いでいた。

「どうしたんだ?」

 痛む体を起こして天使のそばに行き、そう尋ねた。

「……彼らを視てみろ」

 天使はそう言って、向かいの建物からこちらに手を振るオタク達を目で示す。

 界斗は《眼》で彼らの天使度と悪魔度を視た。

 すると――驚くべきことに、彼らの天使度が上昇していくではないか!

「本来なら深夜零時にしか更新されないはずの天使度や悪魔度が変化している。訳が分からない!」

「くっくっく、もはや意味が不明だ。悪魔度がどんどん下がってやがる。どうなってんだよ!」

 どうやら端正な顔立ちをしたこの少年は悪魔のようだ。

「なになに、どうしたの?」

 騒ぎを聞きつけた佐久間がこちらにやってきた。彼女に事情を説明すると、

「ふーん、これは使えるかも」

 とつぶやき、そのまま笑顔でベランダに戻っていく。

 そんな彼女に首をかしげながらも、界斗は田辺から携帯を借りて(彼自身の携帯はそのとき待平に没収ぼっしゅうされていた)、警察に通報した。

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