少年と少女編

第31話 殴打、少年

 日曜の部活の午前練を終えて、駅前のファーストフード店で昼飯を食べた後に政也まさやと別れた界斗かいとは、自宅とは違う方向に自転車を走らせていた。

「――マジで、何でこんなことになってんだよ……」

 界斗のため息交じりのつぶやきは、自転車の速度に流されてあっという間に背後でき消える。

 彼は昨日ショッピングモールで会った生徒会長、伊豆湖いずこ舞歌まいかの家に向かっていた。「生徒会長になるのよ」などといきなり突拍子もないことを姉の伊予いよから言われた後、界斗の意見はガン無視のまま伊予と舞歌の間で話し合いが進められ、そしてどういうわけか今日舞歌の家で「生徒会長選挙に向けた特訓」なるものが行われることに決まった。

「界斗は午前部活でしょ。来るのは午後からでオーケーだから」

 昨夜界斗の部屋にやってきた伊予はそう言って、

「私は午前から舞歌の家に行っておしゃべりして、のんびり昼食食べながら界斗が来るの待っとくよ。――遅れたら承知しないからね」

 くぎを刺されたので、行かないわけにはいかない。行かなかったら、あとで何をされるか分かったもんじゃない。気づいたら何故なぜか生徒会長に立候補させられていた、なんてことになりかねない……いや、マジで冗談じゃなく。

 理不尽に巻き込まれ、昨夜から心労絶えない時間を過ごしていた界斗は、部活でショットミスを連発し、さらにテンションが下がった状態でただいま自転車をいでいた。いつもよりペダルを踏む足に勢いがないのは気のせいではあるまい。

 そんなテンション爆下がり中の界斗が、大通りをれてこれからわき道に入ろうかというときに、前方に見知った人物の姿を捉えた。

 部活の後輩の笠根かさね藻野花ものかと、顧問の待平まつだいら小四郎こじろうである。

 二人は大通りを並んで歩き、わきの小道へと右折していくところだった。

 あの二人、一体ここで何を……。

 時間的に彼女や彼が今ここにいるのは不思議ではない。部活が終わってから一時間ほど経っている。学校から駅前まで歩いたとしても二十分ほどあれば到着可能だ。

 界斗がついペダルを踏む足を地面に下ろして停車したのは、笠根と待平が二人でいることに疑問を覚えたからだった。

 バド部のメンバーにとっては公然のことだが、笠根と待平は仲が悪い。

 いや、「仲が悪い」と言うとどうしても同年代同士の仲を想像してしまうだろうから、先生と生徒の関係を表す場合には「りが合わない」という言葉のほうが適切か――なんてことは今はどっちでもいい。

 現国モードにおちいりそうになった頭を切り替えて、彼は再び二人の関係性と先ほど見た光景についてうまく説明しようと試みたが、……どうにも納得のいく答えが見つからない。

 反りが合わなくても道でばったりと出くわせば挨拶くらいするだろし、その後流れで嫌々ながらも帰り道をともにすることもあるかもしれないだろう――と思ったそこのあなた。

 いやいや、二人の反りの合わなさはそんなレベルではない。一方が「右」と言えば他方は「左」と言い、一方が「上」と言えば他方は「下」と言うような間柄で、まさに水と油。

 そんな二人が並んで歩いているところを見て、疑問を抱かない部員はいない。

 ひょっとすると彼の見間違いだったかもしれないと一度立ち止まって考えてもみたが、やはりあれは笠根と待平だった。

 見えたのは後ろ姿だけで顔や表情までは分からなかったが、笠根が来ていたのは界斗と同じバド部のジャージだったし、髪を胡桃くるみ色に染めている部員は笠根以外に一人もいない。隣にいた男性も、身長や髪型、それに服装から待平に違いなかった。

 界斗は近くにあったコンパスみたいな模様をした時計塔を一瞥いちべつする。

 ――十三時過ぎか。伊予からは特に何時までに来いとは言われていない。多少寄り道しても大丈夫だろう。

 生徒会長選挙に向けた特訓という嫌な予感しかしない未来の到来を少しでも遠ざけたい気持ちもあり、界斗の足は伊予たちの待つ家の方角を逸れて、笠根たちが消えた路地へと向かった。 

 自転車を足早に押して路地の入口に辿たどり着くと、幸いにも彼女たちはまだ路地をまっすぐに進んでいた。

 路地には段ボールや空きびんがそこかしこに乱雑に転がしてあり、自転車を漕いだり押したりするのは難しそうだった。

 自転車を大通りの道の端に停めて、界斗は路地に足を踏み入れた。

 二人の後を一定の距離を空けてついていく。

 何度か路地を曲がり、そのたびに頭上のビルに切り取られた空はせまく、そして辺りはその闇を深くしていく。

 ……秋葉原にこれほど暗い場所があったのか。

 秋葉原で生まれ育ってきた彼すらも知らない闇が、複雑怪奇な路地裏に蔓延はびこっていた。

 まるで……ありの巣みたいだ。

 背中にじっとりとへばりつくような嫌な汗をかき、胸の内に得体のしれない嫌な予感が広がっていた。

 前を行く二人は、時折ときおり笠根から何事か言って、それに待平が答えるというやり取りをしているようだったが、二人の話す内容までは聞き取れない。

 彼の直感は「引き返せ。これ以上は危険だ。引き返せ」としきりに告げていた。

 身をひるがえしそうになる己の体を何度もふるい立たせ、界斗は二人の後を追い続ける。

 何が彼をり立てるのか。

 笠根には苦手意識を持っていて、どちらかというと距離を置きたい相手だ。

 待平だって部活の顧問という以上に特に関わりはなく、ドライな関係に過ぎない。

 そんな二人が、こんなところで何をしようが、どこに向かおうが、ぶっちゃけるとどうでもいい。

 彼自身の身の安全を確保するのが最優先だと、最も大切なことだと、彼も分かっている。それが分からないほどに冷静さを欠いてはいない。

 彼はただ、彼自身の周りを囲う日常という空間から、一歩踏み出してみようと思ったのだ。

 日常――同じようなことが繰り返される変わらない日々。

 日常が悪いわけじゃない。むしろ日常は人々に心の平穏を与えてくれる素晴らしいものだ。

 だけど薬も過剰に摂取すれば毒になるように、日常ばかりが続いていては、いつか心の隙間すきまに非日常という言い訳が生じてしまう。

 天使と出会ったとき、彼は心の中で彼女の存在を別世界からやってきた非日常の存在と考え、言い訳をした。

 自身の日常が囲う範囲が間違っていたことを認めず、彼女を彼の日常から切り離した非日常という空間に押し込んだ。一歩引いた場所から彼女の存在を認めることにした。

 あのときは、それで何とも思わなかった。

 そもそもあれが言い訳だったなんて思いもしなかった。

 だけど、直後の会話で彼女が示した誇りは、目もくらむほどに気高けだかくて、彼は直前の自分を心から恥じた。彼女は言い訳などを一切せず、ただまっすぐに彼にぶつかってきた。

 そんな彼女の誇りを思い出し、「自分もああなりたい」と、このときの彼の背中を押していた。

 思わず非日常に放り投げて逃げ出してしまいたくなるような光景に向かっていく。

 ほんのりと日の光を浴びたときに感じるぬくもりが、汗でべとついていた彼の背中をちょっぴり乾かし、そうして彼は次の一歩を踏み出す――その繰り返し。

 どれくらいの時間歩いたのか分からないが、前を歩いていた二人がようやく足を止め、建物に入っていく。

 十秒ほど時間をおいてから、界斗は二人が入っていった建物の扉に近づく。

 少し古びてはいるが、何の変哲へんてつもないこげ茶色の木造の扉だった。ドアプレートのたぐいはなく、この扉の向こうに広がる空間の情報を示唆しさするものは何も見当たらない。

 視線を上げれば、鉄筋コンクリートの無骨な三階建ての灰色の建物で、上空を遮るようにベランダが少し飛び出した形をしている。確かに飛び出したつくりをしたベランダではあるが、路地を挟んだ向かい二メートルほどのところには同様の造りの建物があるので、日当たりはとてつもなく悪そうだ。

 この辺り一帯の建物は住宅なのだろうが、それにしては人が住んでいる気配が全く感じられないほど辺りはしんと静まり返っていた。しかしながら、先ほどからこちらを見つめる、刺すような視線をいくつも感じる。……極度の緊張で神経が過敏になっているだけかもしれないが。

 ここが待平の住むアパートなのだろうか。

 木造の扉以外の部分の外壁は灰色一色で塗られ、おそらく中にあるであろう階段も外からではその存在を確認できない。優男という彼のイメージにそぐわず、優雅さの欠片も感じられない。まるで外からの干渉を拒むように、そのアパートは建っていた。

 さて、どうするか……。

 目の前にあるドアノブを少しひねれば、中の様子を見ることはできる。

 二人はすでにアパートのどこかの一室に入ってしまって後を追うことはできないだろうが、おそらく中には各部屋番号が記された郵便受けがあって、運が良ければそこに「待平」という名前を見つけることができるかもしれない。

 依然として嫌な予感は胸の内でくすぶったままだが、他人の家に土足で上がり込むわけにもいかない。郵便受けのネームプレートを確認するまでで追跡劇はおしまいにしよう。

 そう考えた界斗がドアノブに手をかけた瞬間、彼の背後でブンッと空気が震える音がしたかと思うと、後頭部で鈍い音が鳴った。

 ――殴られた⁈

 気づいたときには扉に顔面をぶつけ、殴られた衝撃でうまく動かない体が、扉にしなだれかかるようにして、そのままアスファルトの地面にうつ伏せで倒れ込む。

 かすんでいく意識の中で、界斗は必死に視線だけを背後に向けようとして――、

 けれど、ぷつり、と彼の意識は途切れ、犯人の姿を見ることは叶わなかった。

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