第30話 一人の少女の願い

「途中で話が逸れたが、さっきの黒髪の少年の名前は何と言う」

 あの少年についても情報を集める必要がありそうだ。もし彼のそばにいるのがアタンの天使であるなら、彼女の動向を知る手掛かりになり、戦いを有利に進められる。

「ああ、界斗かいとっち? 本名は古遣こがつか界斗くんだけど、彼がどうかしたの?」

 悪魔であると正体を見破られた今となっては、えて隠しておく必要もなくなった。

佐久間さくまは気づかなかったか、やつの左目に赤い炎が燃えていたことに」

「ん? 界斗っちの? 左目、左目……うーん、記憶にないかも。それって最近のこと? 私も会うたびに相手の目に火があるかどうか確認してるわけじゃないし、夜ならともかく明るい昼間だとじっくりと見ないと分からないから……。え、でも、その質問って、え? 界斗っちが実は天使さんってこと?」

 あわてる佐久間に、悪魔は先ほど考えた仮説を話した。

「なるほどね、界斗っちは天使さんから火を受け継いだと。そういえば、おばあちゃんも言ってた。旦那さんの瞳に天使の赤い火をあげたって。……でも、確か火のやり取りって、夫婦とか、よほど親密な関係じゃないと行わないって聞いたと思うんだけど」

 悪魔もその点は気になっていた。天使と悪魔がこの世界に飛ばされてまだ五日だ。その間に瞳の炎を分け与えるほどの親密な関係になれるとは思えなかった。まあ、それこそ天使が界斗に命の危機を救ってもらったとか、そういうことがあれば別だろうが……(幸運にも初日に佐久間に拾ってもらった悪魔に、まさか天使が三日間飲まず食わずで歩き回ってついに空腹で行き倒れ、死にそうになっていたところを界斗に助けてもらった、などと想像できるはずもなかった)。

「その点は俺にもよく分からない……。だが、彼が天使から炎を授かったのは確かだ。最近彼の様子で気になることはなかったか?」

「ああ、うん、あったよ。今日の練習なんだけど、界斗っち、心ここにあらずって感じだった。部活に集中できていないみたいで、ショットのミスを連発してたし、いつもより動きにキレがなかったし……何かあったのかなって心配してたんだ。その、天使さんと関係があるかは分からないけど」

「昨日とかはどうだったんだ?」

「昨日は部活の練習がなくて、界斗っちとは会ってないから分からないけど、金曜日、つまり一昨日の放課後は特に変って感じはしなかったよ。いつも通りの界斗っちだった」

 金曜日には特に何ともなかったが、日曜日の今日になると様子が変だった、か。

 土曜日の間に何かあったのだろうか。例えば天使から悪魔との戦いについて聞かされて、協力するかどうか悩んでいるとか。あるいはすでに天使と界斗は協力して自軍の勢力を拡大中で、土曜日は一日中ことに当たって、その疲れが今日も残っていたとか。

 いずれにせよ早急に界斗に接触を図り、天使の存在とその関係性を明らかにするのが賢明と言えそうだ。

「……」

 ふと隣の佐久間を見ると、何やら思案顔である。

「何か気になることでもあるのか?」

 これは別に悪魔が彼女のことを気遣きづかったわけではない。単に何か役立つ情報を彼女が思い出したのか、その確認だ。

「ううん、そういうわけじゃないの。ただ、その……」

 佐久間はちらりと悪魔に目をやって、

「界斗っちに何かするつもりなのかなって、それが気になっちゃって。できればその、争うとかそういうことはしないでほしいなと。悪魔さんも界斗っちも、それと会ったことはないけどその天使さんも、誰も傷つかないような未来であったらいいなって」

 佐久間のさっしのよさ――これもまた天使の血を引いたからこそなのか、悪魔には分からない。

 彼に分かったのは、彼女の言葉に昨夜感じた力強さがないこと、それだけだ。

 彼女は躊躇ためらっているのだ。昨夜本当のことを話してくれなかった悪魔に対して、再び踏み込むかどうかを。どんな人間でも、それがたとえ天使の末裔まつえいであろうと、他の人から拒絶されると辛い。何度も好んでその気持ちを味わいたいとは思えない。

 拒絶とは、すなわち相手のことを信頼していないことの証明に他ならないのだから。

 このときの悪魔はそういう風に思っていた。

 そして何も言わずに彼女の言葉を待っていた。

 彼女がどんな風に踏み込んできても、どんな言葉を放ってきても、り返すつもりだった。

 お前には関係ないと突っぱねるつもりだった。

 だけど、彼女は少しの間逡巡しゅんじゅんして、

「私が、その争いを終わらせるよ」

 踏み込むどころか、――踏み抜いてきた。

 ともすればそれは傲慢ごうまん極まりない発言。げんに悪魔も、

「何も知らないくせにふざけたことを言ってんじゃねえぞ。ひねつぶされてぇのか」

 この世界に来てからかぶっていた温厚な皮を思わずぎ取ってしまうほどに、怒りの感情が湧きだす。

 佐久間は天使と悪魔がどういう争いをしているのか、そもそもなぜ争っているのかも知らない。そんな部外者に「争いを終わらせる」なんてことを言われて、黙っていられるはずがなかった。

 激情げきじょうられた悪魔のおどし。いくら今の彼の体が人間として作られていようと、その感情の奔流ほんりゅうを受ければ、並の人間は呼吸することさえままならないだろう。

「そうだね、私は何も知らない」

 けれど、彼女はくっしない。

「でも、何も知らないからと言って、何もしなくていい理由にはならないでしょ」

 彼女の瞳には赤い炎も青い炎も宿っていなかったが、その眼光は暗雲あんうん立ち込める空をつらぬ一条いちじょうの光のごとく力強い。先ほど感じた弱々しさは微塵みじんも感じられなかった。

 彼女は今この瞬間、相手の顔色をうかがうことを止めたのだ。

 それほどの決断を彼女に促したのが一体何だったのか、悪魔には分からない。

 いや、本当は分かっている。

 だけど、――分かりたくないのだ。認めたくないのだ。

 彼女は先ほど言っていた――天使や悪魔、そして界斗が傷つく未来は見たくないと。

 つまり、そういうことなのだ。

 彼女は誰かのために、他人のために、争いを止めることを決めたのだ。

 そもそもこの世界での戦いは、神のもとで天使と悪魔が盟約めいやくを結んで始まったもの。その盟約に一人の人間が横槍よこやりをさすことなど不可能だ。

 佐久間にできることなど何もない。

 それに、別に血みどろの戦いをするつもりは毛頭もうとうない。彼らはこの日本を舞台に天使側と悪魔側の人数を競うだけだ。

 別に始めから誰も傷つかない。

 そんな風なことを悪魔は口走った。彼女の意志をへし折るつもりで。

 だけど、彼女は首を横に振って、

「体が傷つかなくても、心は傷つくよ。――それに、私にだってできることはあるはずだよ。だって、私も一人の人間なんだから」

「一人の人間にできることなんて限られてる」

「その限られた中でも、できることは確かにある。私はそう思うの。……そう思わないと生きていけないっていうのもあるけどね」

 彼女が時折見せる寂しげな表情が何から来るものなのか、悪魔には分からない――分かりたくもない。

「あっくんが何と言おうと、私は関わるって決めたんだから」

 彼女は一歩飛び出して、悪魔の前でくるりと身をひるがえし、その場で立ち止まる。

 悪魔も自然と足を止めることになった。

 悪魔と天使の末裔が向かい合う。

 二人の視線が交差し、

「……好きにしろ」

 先に目をらしたのは、悪魔のほうだった。

 こうしてこの地球の天使の末裔である一人の少女が、争いを止めるために立ち上がった。

 

 果たして勝つのは、天使か、悪魔か、あるいは――一人の少女の願いか。

 

 日曜の昼下がりの住宅街。家屋かおくからただよってくる昼食の美味しそうなにおいがからまり合う道を、悪魔と天使の末裔が肩を並べて歩いていく。

 道は上り坂で、左右に連なるカラフルな屋根が、まるで天空にかる橋のように、遥か先にぼんやりと見える稜線りょうせんへと続いている。

 未来のかたちは、はっきりとしない。

 それでも、歩き続ける。

 それは、悪魔も、天使も、人間も変わらない。

「改めてよろしくね、あっくん」

 れあうつもりはない。彼女が一方的に関わろうとしているだけだ。

 佐久間を悪魔側に引き込むことはできなかったが、彼女が今後天使側に組み入ることもないという点を考えれば、それほど悲惨ひさんな結果と言うわけではあるまい。

 彼女は言わば第三勢力。

 この戦いの終結を望む、イレギュラー。

「それにしても界斗っちが天使さんとお友達だったなんて驚きだよ」

 緊張感の欠片も感じられない風にそう言う彼女に、言ってやりたいことは山ほどあったけれど、

「……佐久間が何をしようが、最後に勝つのは俺だ」

 一つだけ選ぶとしたら、この言葉だった。

 このとき悪魔自身は気づいていなかったが、その言葉は彼が佐久間を対等な存在として認めた証に他ならない。

 佐久間はそのことに気づいていて、だから彼女は悪魔の言葉に目をぱちくりとさせてから、

「うん、望むところだね!」

 晴れやかに笑った。

 ぐんと自転車のペダルを踏み込むような、溌溂はつらつとした声だった。

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