第29話 天使の末裔
ちょうど話の区切りがついた雰囲気が流れたので、悪魔は
「そういえば、さっき自転車に乗っていた男子たちって――」
「ああ、
彼女は歩きながら自慢げに胸を張るという器用なことをしてから、
「なに、もしかして何か思い出したとか?」
「いや、何も……」
悪魔は記憶喪失を
――待てよ。
さっきまでの甘ったるい匂いは彼の意識から消え去り、悪魔は遅ればせながら気がつく。
彼女は昨夜言っていたはずだ――相手が
それはつまり、今この瞬間彼がついた嘘も、もっと時間を
悪魔は努めて平静を装いながら、隣を歩く彼女の顔にゆっくりと視線を移していく。
数千年生きてきた悪魔にとっても、それはとても長い時間に感じられた。
ついに視界に入った彼女の顔は、にこりと
「気づいちゃった?」
悪魔は
数千年生きてきた悪魔の嘘をいとも簡単に見破るというだけでも異常なのに、その異常が
どうして今しがた彼のついた嘘に対して
どうして彼女は彼と出会ったときに、彼の「記憶喪失」という嘘を指摘しなかったのか。
どうして――こんな狂った人間が存在するのか。
「そんなに
沈黙する悪魔に、彼女はそんな風に言う。
「私だって別に嘘をつくのが絶対によくないことだとは思っていないの。優しい嘘っていうのがあるのは確かだと思うし。それに誰かが嘘をつくたびに《嘘をつくのはやめて!》なんて言っていたら友達付き合いなんてできないでしょ。みんな嘘が当たり前の世界に生きているんだもの。私だけ嘘をのけ者にしようとしても、それこそ私がみんなからのけ者にされちゃう。この世界はそういう風にできている」
――なんちゃってね。
佐久間は可愛らしくおどけてみせて、少ししてから、
「あっくんって、別の世界からやってきた悪魔さんなんでしょ?」
今日の天気を
何の
「あ、やっぱりそうなんだ。――本当はね、あっくんからそのことを明かしてほしいなと思ってたんだ」
一メートルほどの幅の川に
「昨日の夜にあっくんに
彼女は両手を後ろに組んで歩きながら、住宅街を一直線に抜ける道の先を見つめている。
「……いつから気づいていたんだ、俺が悪魔だってこと」
「公園で見かけたときから、かな。悪魔さんの目には青い火が
彼女は
「少し近づいたらペンチに人が座っているのが見えて、それで、ああ、お化けじゃなくて悪魔さんだったのって気づいて安心したんだけど」
どうやら自分は彼女の内心を読み違えていたらしい――と悪魔は思った。昨夜は彼女のことを「見ず知らずの困っている人に無条件で手を差し伸べるような心優しい人間」だと考えていたが、彼女はきちんと彼が悪魔であることを知っていて、それで彼に声を
確かにこの世界の常識に照らし合わせてあのときのことを思い返してみると、夜の公園で一人ベンチに座る人に女子中学生が声を掛けるという行為は少なからず女子中学生に身の危険を感じさせるものだし、よほどの理由がなければ声を掛けないだろう。
しかし、彼女は公園にいた彼のことを悪魔だと知って、恐ろしくはなかったのだろうか。
自分で言うのもなんだが、悪魔なんて人間やそれこそ火の玉みたいなお化けよりもよほどたちの悪い存在だと思うのだが。
悪魔のその疑問は、続く佐久間の話で解消された。
「悪魔さんが世間一般で言うところの悪い存在じゃないって言うのは知っていたから。――私のおばあちゃんがね、天使だったの。おばあちゃん子だった私は、よくおばあちゃんの家を訪ねて、いろんな話を聞かせてもらった。天使さんや悪魔さんのお話、実は世界は一つだけじゃなくてたくさんあるんだってお話、他にも色々なお話をおばあちゃんはしてくれた。当時の私はお
彼女はふと空を見上げて、その突き抜けるような青さに目を細め、
「……おばあちゃんは、二年前に死んじゃったんだけどね。あのときはすごく泣いた、全身が
親指と人差し指で作った輪っかを目元に当てて、彼女は悪魔のほうに顔を向けた。それは何だか不意に顔に出た
「おばあちゃんは言ってた。悪魔さんは道行く人を無差別に手にかけるような
正義?
その言葉を聞いて悪魔は
そんな大層な、いかにも天使が
そんなやり場のない気持ちを悪魔は何とか押さえつけて、
「おばあちゃんが天使って、人間と結婚したってことか」
「うん、おじいちゃんは人間。て言っても、私が生まれた頃にはおじいちゃんはもういなくて、私は一度も会ったことがないんだけどね」
天使が人間と
同族以外の存在、しかも人間なんて下等な生き物と
幸いなことに、悪魔が人間と、というケースはその話をしてくれた悪魔も知らなかったようで、愚かなのは天使だけなのだと彼は一安心したわけだが。
「で、昨日ちょっと話したでしょ、私が相手の嘘を見抜けるって。幼い頃の私はその力を誰もが持っている当たり前の力だと認識していたんだけど、どうにも違うらしいって小学生の頃に気づいて、なんでそんな力を私だけが持っているんだろうって考えたときに、たぶんおばあちゃんの天使の血を引いているからなんじゃないかなって思ったの。それで私のお母さん……あ、さっきから言っている天使のおばあちゃんは、母方ね。それでお母さんに訊いてみたらその通りだって。お母さんも人が嘘をついているか分かるみたいなの」
彼がこの少女に対して底知れない雰囲気を感じてしまうのも、天使の血を引いているから、ということなのかもしれない。悪魔の本能――悪魔の血が「この少女は危険だ」と言葉なき警告を発しているという風に。
「嘘を見破れる以外に、何か特別な力を持っているのか」
「特別な力って言うほどでもないんだけど、何をしたら正しい選択になるのかっていうのはなんとなく分かるかな。正しい選択って言うのは、天使にふさわしい選択って意味ね」
彼女の言う正しい選択とはつまり天使度を高める選択という意味だろう。道理で彼女の天使度は90%以上と高いわけだ。
「それ以外の力は特にないかな。お母さんは他にも、壁越しに音を拾えたり人より少し早く走れたりとかできるみたいだけど」
佐久間の天使の力が弱いのは、代を重ねるごとに天使の血が薄くなっているからだろう。母親も天使の血を半分引いているとは言え、天使自身の力と比べれば
だが、それでも彼女たちは十分な
人間ばかりのこの世界で、彼女たちは間違いなく特異な力の持ち主で、悪魔と天使の日本における戦いに少なからず影響を及ぼす存在になり得る。
二人の存在を天使が知ったら、自陣の
一度は佐久間を放っておくことに決めた悪魔だったが、ここで再び彼女の母親も含めて、彼女たちが天使の手に渡ってしまわないように今後行動していくことを決めた。
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