第29話 天使の末裔

 ちょうど話の区切りがついた雰囲気が流れたので、悪魔は何気なにげなさをよそおって話題を変えた。

「そういえば、さっき自転車に乗っていた男子たちって――」

「ああ、界斗かいとっちとまさやんのこと? そうだよ。私と同じ二年生で、副部長と会計をしてる。すごい頼りになるんだから」

 彼女は歩きながら自慢げに胸を張るという器用なことをしてから、

「なに、もしかして何か思い出したとか?」

 佐久間さくまが期待に満ちた目をして彼のほうに体を寄せてくる。部活で体を動かした後だからか、彼女からただよう甘い香りは昨夜よりも一層強まっていた。

「いや、何も……」

 悪魔は記憶喪失をいつわっていたのだが……。

 ――待てよ。

 さっきまでの甘ったるい匂いは彼の意識から消え去り、悪魔は遅ればせながら気がつく。

 彼女は昨夜言っていたはずだ――相手がうそをついているのか分かると。

 それはつまり、今この瞬間彼がついた嘘も、もっと時間をさかのぼれば彼女と出会ったときに記憶喪失だと偽った嘘も、すべて目の前の彼女にはお見通しだったと、そういうことになる。

 悪魔は努めて平静を装いながら、隣を歩く彼女の顔にゆっくりと視線を移していく。

 数千年生きてきた悪魔にとっても、それはとても長い時間に感じられた。

 ついに視界に入った彼女の顔は、にこりと邪気じゃき一つ感じさせない笑みを浮かべていた。

「気づいちゃった?」

 悪魔は戦慄せんりつする。

 数千年生きてきた悪魔の嘘をいとも簡単に見破るというだけでも異常なのに、その異常がかすむほどに彼女の思考回路はくるっていた。

 どうして今しがた彼のついた嘘に対してくもりのない笑みを浮かべているのか。昨夜はあれほど彼が嘘をつくのを許さなかったのに。

 どうして彼女は彼と出会ったときに、彼の「記憶喪失」という嘘を指摘しなかったのか。

 どうして――こんな狂った人間が存在するのか。

「そんなにおびえなくても……。私だって一応女の子なんだよ、そんな化け物を見たみたいな態度とられちゃうと傷つくってば」

 沈黙する悪魔に、彼女はそんな風に言う。

「私だって別に嘘をつくのが絶対によくないことだとは思っていないの。優しい嘘っていうのがあるのは確かだと思うし。それに誰かが嘘をつくたびに《嘘をつくのはやめて!》なんて言っていたら友達付き合いなんてできないでしょ。みんな嘘が当たり前の世界に生きているんだもの。私だけ嘘をのけ者にしようとしても、それこそ私がみんなからのけ者にされちゃう。この世界はそういう風にできている」

 ――なんちゃってね。

 佐久間は可愛らしくおどけてみせて、少ししてから、

「あっくんって、別の世界からやってきた悪魔さんなんでしょ?」

 今日の天気をくみたいに、軽い調子で問うてくる。

 何の脈絡みゃくらくもなく突然に真実を言い当てられ、悪魔が驚きのあまり言葉を失っていると、

「あ、やっぱりそうなんだ。――本当はね、あっくんからそのことを明かしてほしいなと思ってたんだ」

 一メートルほどの幅の川にかる橋を渡って、二人は住宅街の中へと歩を進める。

「昨日の夜にあっくんにめ寄って、《嘘はつかないで》なんて無茶なお願いしたのも、そうしたらあっくんが本当のことを話してくれるかなと思ったからなの」

 彼女は両手を後ろに組んで歩きながら、住宅街を一直線に抜ける道の先を見つめている。

「……いつから気づいていたんだ、俺が悪魔だってこと」

「公園で見かけたときから、かな。悪魔さんの目には青い火がともっているって聞いていたから。実際にあっくんに会うまでは、目の中で火が燃えているなんてまさかって思ってたけどね。――夜の真っ暗な公園に何となーく目をやったら青い炎がちろちろと揺れていて、始めは火の玉か何かのお化けだと思ってびっくりしたんだから」

 彼女はほほふくらまして、冗談交じりにご立腹りっぷくであることを主張する。

「少し近づいたらペンチに人が座っているのが見えて、それで、ああ、お化けじゃなくて悪魔さんだったのって気づいて安心したんだけど」

 どうやら自分は彼女の内心を読み違えていたらしい――と悪魔は思った。昨夜は彼女のことを「見ず知らずの困っている人に無条件で手を差し伸べるような心優しい人間」だと考えていたが、彼女はきちんと彼が悪魔であることを知っていて、それで彼に声をけてきたというわけだ。

 確かにこの世界の常識に照らし合わせてあのときのことを思い返してみると、夜の公園で一人ベンチに座る人に女子中学生が声を掛けるという行為は少なからず女子中学生に身の危険を感じさせるものだし、よほどの理由がなければ声を掛けないだろう。

 しかし、彼女は公園にいた彼のことを悪魔だと知って、恐ろしくはなかったのだろうか。

 自分で言うのもなんだが、悪魔なんて人間やそれこそ火の玉みたいなお化けよりもよほどたちの悪い存在だと思うのだが。

 悪魔のその疑問は、続く佐久間の話で解消された。

「悪魔さんが世間一般で言うところの悪い存在じゃないって言うのは知っていたから。――私のおばあちゃんがね、天使だったの。おばあちゃん子だった私は、よくおばあちゃんの家を訪ねて、いろんな話を聞かせてもらった。天使さんや悪魔さんのお話、実は世界は一つだけじゃなくてたくさんあるんだってお話、他にも色々なお話をおばあちゃんはしてくれた。当時の私はお伽噺ときばなしを聞いているみたいな感覚で、こうして実際に悪魔さんに出会えたことを当時の私が知ったら、すごく驚くと思うな」

 彼女はふと空を見上げて、その突き抜けるような青さに目を細め、

「……おばあちゃんは、二年前に死んじゃったんだけどね。あのときはすごく泣いた、全身が干乾ひからびるんじゃないかってくらいに。――知ってた? 人って泣きすぎると目の周りがパンパンにれるんだよ。それで出目金でめきんみたいになっちゃうの」

 親指と人差し指で作った輪っかを目元に当てて、彼女は悪魔のほうに顔を向けた。それは何だか不意に顔に出たさびしさを隠そうとしている仕草に見えた。

「おばあちゃんは言ってた。悪魔さんは道行く人を無差別に手にかけるような残虐ざんぎゃくな存在じゃないって。ちゃんと悪魔さんは悪魔さんなりの正義があって、それで行動してるんだって」

 正義?

 その言葉を聞いて悪魔は虫唾むしずが走った。

 そんな大層な、いかにも天使がかかげそうなものに乗っ取って行動しているだなんて冗談じゃない。この世界の天使は一体何を考えているんだ。いや、もしかするとこの世界の悪魔は本当にそういう正義みたいなものを掲げて行動しているのか? だとすれば、この世界の悪魔は甘いとしか言いようがない。

 そんなやり場のない気持ちを悪魔は何とか押さえつけて、

「おばあちゃんが天使って、人間と結婚したってことか」

「うん、おじいちゃんは人間。て言っても、私が生まれた頃にはおじいちゃんはもういなくて、私は一度も会ったことがないんだけどね」

 天使が人間とえんを結ぶ例がアタンでもなかったわけじゃない。悪魔が子供の頃、その話を聞いて、「人間と結婚するなんて天使は一体何を考えているんだ」と感じたことは覚えているし、今でもその気持ちは変わらない。

 同族以外の存在、しかも人間なんて下等な生き物とちぎりをわすなんて、同族に対する裏切り以外の何物でもないだろう。

 幸いなことに、悪魔が人間と、というケースはその話をしてくれた悪魔も知らなかったようで、愚かなのは天使だけなのだと彼は一安心したわけだが。

「で、昨日ちょっと話したでしょ、私が相手の嘘を見抜けるって。幼い頃の私はその力を誰もが持っている当たり前の力だと認識していたんだけど、どうにも違うらしいって小学生の頃に気づいて、なんでそんな力を私だけが持っているんだろうって考えたときに、たぶんおばあちゃんの天使の血を引いているからなんじゃないかなって思ったの。それで私のお母さん……あ、さっきから言っている天使のおばあちゃんは、母方ね。それでお母さんに訊いてみたらその通りだって。お母さんも人が嘘をついているか分かるみたいなの」

 彼がこの少女に対して底知れない雰囲気を感じてしまうのも、天使の血を引いているから、ということなのかもしれない。悪魔の本能――悪魔の血が「この少女は危険だ」と言葉なき警告を発しているという風に。

「嘘を見破れる以外に、何か特別な力を持っているのか」

「特別な力って言うほどでもないんだけど、何をしたら正しい選択になるのかっていうのはなんとなく分かるかな。正しい選択って言うのは、天使にふさわしい選択って意味ね」

 彼女の言う正しい選択とはつまり天使度を高める選択という意味だろう。道理で彼女の天使度は90%以上と高いわけだ。

「それ以外の力は特にないかな。お母さんは他にも、壁越しに音を拾えたり人より少し早く走れたりとかできるみたいだけど」

 佐久間の天使の力が弱いのは、代を重ねるごとに天使の血が薄くなっているからだろう。母親も天使の血を半分引いているとは言え、天使自身の力と比べれば些細ささいな力だ。天使であれば壁越しとは言わず十キロ先の音まで拾えるはずだし、歩く速度と言わずビュンと空を飛ぶことだってできる。

 だが、それでも彼女たちは十分な脅威きょういだ。

 人間ばかりのこの世界で、彼女たちは間違いなく特異な力の持ち主で、悪魔と天使の日本における戦いに少なからず影響を及ぼす存在になり得る。

 二人の存在を天使が知ったら、自陣のこまにするのは明らか。

 一度は佐久間を放っておくことに決めた悪魔だったが、ここで再び彼女の母親も含めて、彼女たちが天使の手に渡ってしまわないように今後行動していくことを決めた。

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