第25話 信じてよ

 いや、けなかったと言うべきか。

 それは何も彼女の上話うえばなしに足を突っ込むのに遠慮えんりょして、とかそういう理由ではない。

 彼はただ別のことに気を取られて、彼女の表情に気を配る余裕がなかっただけだった。

 ……うそが、見破られた、だと。

 彼にとって、嘘は誇りだった。

 決して誰にも見破られない嘘。それこそが彼の自慢で、心の大黒柱だった。

 そんな数千年かけて磨き上げられた彼の嘘が、たった十年ちょっとしか生きていない少女によってあっさりと看破かんぱされてしまった。

 悪魔はそのことに打ちひしがれて、焦点の合わない瞳でぼんやりと隣の彼女の顔を見つめている。

 がら悪魔の誕生である。

 このまま放っておいたら、それこそ数千年もの間こうして抜け殻状態だったかもしれない。

 が、幸運にも(そもそも彼をこの状態にしたのは彼女なわけだが、それはこの際考えないことにすると)目の前には彼女がいて、彼女も彼がこれほど傷ついた反応を示すとは全く思っていなかったので、彼女は彼にあわてて声をかけ、結局彼が抜け殻になっていたのはほんの十秒にも満たなかった。

「た、確かに、人には誰でも言いたくないことの一つや二つあるよね」

 必死のフォローからの、

「でも、やっぱり人に頼みごとをするときには、嘘はよくないと思うんだ。言いたくないことまで言ってほしいって無理を言っているわけじゃなくて、それはもちろん隠してくれて構わないんだけど、嘘でりつぶしてほしくはないの。もしどうしても理由が言えないなら、言えないって言ってほしい。真正面からぶつかってきてくれないと、私も本気になれないから」

 真正面からぶつかる――その言葉がどうにも悪魔の心に釣り針のように引っかかって、ぷかぷかとたいで浮かんでいた彼の意識が引き上げられる。

 アタンにいた頃から悪魔は真っ向勝負よりもからめ手の戦い方を好んだ。敵をまんまと出し抜いたときに得られる達成感は悪魔にとって何よりのご馳走ちそうだったし、真っ向勝負なんて馬鹿で無能な奴らのための戦い方だとさえ考えていた。

 そんな悪魔に、佐久間は正面からぶつかってこいと言う。

 もちろん彼女は彼の正体が悪魔であることを知らないし、まして彼が数千年もそうやって生きてきたことなど知るよしもない。

 アタンにおける天使との十三に及ぶ大きな戦いと数えきれないほどの小さな戦い。いずれにおいても悪魔は二手、三手と搦め手を用意して戦いに挑んできた。

 それが悪魔にとっての当たり前だった。

 その当たり前に対して正面からストレートをぶち込まれて、衝撃から悪魔の意識は揺さぶられ、覚醒し、それから少しして彼は彼女に伝える言葉を拾い上げる。

「……どうしても、負けたくない奴がいるんだ」

 本心を吐露とろすることに慣れていない悪魔は、佐久間の顔から視線を外して告げる。

「そうなんだ」

 そのとき佐久間がどんな顔をしていたのか、えて悪魔は目を向けなかったが、声だけで彼女の喜びが伝わってきた。

「それで、私は何をすればいい? 日本のことをあっくんに教えればいいの?」

 負けたくない奴とは誰なのかとか、何で戦っているのかとか、そういったことを佐久間は一切訊いてこなかった。

 約束通り真正面からぶつかってきてくれた相手には、全力で手を貸すつもりだと、そう言っていた。

 悪魔の当面の目標は、日本で悪魔側の人間の数を増やして三年後に過半数をとることだ。

 ただ、そのことを話しても彼女は信じ……るかもしれないが、それでも悪魔は彼女に話そうとは思わなかった。悪魔がこの世界ではみ嫌われる存在として伝えられていることは知識として知っていたし、彼が悪魔であることを知った彼女がどういう行動に出るのか読めない。もしおびえた彼女にこの家を追い出されて、折角手に入れた衣食住を失うようなことになれば、かなりの痛手だ。人間の体である以上、きちんとした生活基盤を築いておくことは必須。そうしないと日本侵略なんて夢のまた夢で、衣食住の確保に奔走ほんそうしてあっという間に三年なんて終わってしまう。

 だが、嘘をつけば彼女にあっさりと見破られてしまう。そうなれば彼女は手を貸してくれないだろう。

 彼に残された選択肢は、話したくないことは正直に「話したくない」と言い、それでも彼女に協力をあおぐというもので、そばで聞いていたら「聞き手を馬鹿にしてるのか」と言いたくなるような内容であった。

 悪魔が彼女に会う前に考えていたシナリオなんて何の役にも立たず、真正面から馬鹿正直にぶつかるという彼が嫌っていた方法をとるしか道は残されていない。……いや、厳密には背後にも道はあって、彼女に助力を求めることをあきらめて後退し、別の道を探すことも可能だ。

 別に手を貸してもらうのが彼女である必要はないのだ。

 たまたま彼女が一番助力を得やすい相手だとさっき嘘が見破られるまでは考えていただけで、その前提がくずれたのなら無理に彼女に助力を求める必要はない。別の相手を探すなり、他の方法を考えるなりすればいい。

「いや、やっぱりやめて――」

 前言撤回ぜんげんてっかいして撤退てったいしようとした悪魔だったが、

「信じてよ」

 佐久間が彼の言葉をさえぎった。

「私を信じて。出会って間もない相手を信じろなんて無茶を言っているのは分かってる。だけど、私はあっくんを家に連れ帰ることを決めたときから、とことんまで付き合うつもりなの」

 三角座りから正座になって、隣の彼女は体を悪魔のほうへと向けて、彼の瞳をまっすぐに見つめてきた。

 この少女に出会ってから調子をくるわされてばかりだ。

 ――信じられるのは自分だけ。誰かを信じるなんて愚か者のすることだ。

 それは悪魔の心の深いところに根を張っている考え方だ。

 アタンで何万もの軍勢を率いていたときだって、彼らのことを信じたことなど一度もなかった。悪魔にとって彼らはただのこまで、手下で、従魔じゅうまだった。

 そこには信頼なんてあるはずもなく、信用すらもなかった。

 結局のところ最後に信じられるのは自分だけ。それなら始めから誰かを信じることなんてやめてしまえばいい――。

 だけど、目の前の少女は「信じて」と言う。

 十年ちょっとしか生きていない少女の言葉なんて、数千年も生きている悪魔にとっては取るに足らない言葉のはずだ。けれど、先ほどその少女に一本取られたばかり。生きている時間だけで相手をあなどるのは間違いだと思い知らされていた。

 それでも、信じてと言われてそれを鵜呑うのみにするほど馬鹿なことはない。

 彼女に嘘が通じない以上、悪魔は何も言わないか本当のことを言うかしか選択肢がない。

 何も言わなければ彼女は納得しないだろう。

「悪いが、俺は佐久間を信じることができない」

 悪魔は本音を吐露し、彼女の真摯しんしなお願いを一刀両断する。

 ほほビンタをお見舞いされるか、彼女が怒って部屋を出ていくか、もっと悪いところで言えば両親に彼を追い出すように言われるか、そんなリアクションがあるのではと身構えていた悪魔だったが、彼女はただ一言、

「そう」

 とつぶやいただけだった。そのたった二文字から一抹いちまつの寂しさが感じ取れたが、悪魔は前言を撤回するつもりはなかったし、そもそも情に流されて、なんていうのは悪魔にとって無縁の長物だった。――相手を殺そうとするたびに情に流されていたら、その一瞬の迷いで殺すべき相手に殺されてしまう。悪魔はそんな世界で生きてきたのだ。

 佐久間は無理に作ったと一目で分かる、見る者によっては痛々しいほどの笑みを悪魔に向け、

「でも、始めの約束は守るよ、日本のことを教えるって約束。あっくんは正直に答えてくれたし、私もその点については協力するって言っちゃったしね」

「……ああ、それは助かる」

 当初想定していたシナリオとはひどく違ってしまったが、結果的には彼女に日本のことを教わるという約束を取り付けることができたわけだ。ぶっちゃけ彼女の最後の言葉は悪魔にとって意外以外の何物でもなかったが、わざわざ彼女自ら手を貸してくれると言っているのだ。断る理由はなかった。

 だが、今後彼女に何かを頼むことはできないだろう。

 何せ彼は彼女の歩み寄りに対して拒絶を返したのだから。

「じゃあ、何が知りたい? やっぱりまずははしの持ち方からかな、この前あっくん箸を持つのは苦手って言ってたでしょ。あ、でも日本のことを知るってことに当てはまらないかな。だったら私が中学でどんな風に過ごしているのか、それを話してもいいかな。あっくんも日本の学校について知れるし、もしかしたら何か思い出すかもしれないし――」

 沈黙を避けるように矢継ぎ早に語る佐久間の話に適度に耳を傾けながら、悪魔はこれからのシナリオを頭の中で思い描き始める。

 そのシナリオの登場人物には、もはや隣にいる彼女は含まれていなかった。


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