第11話 好きなだけ

 それはともすれば一世一代の告白にもとれる言葉だったわけだが、もちろん界斗かいとがそんな誤解をするはずもなく、

「運命って?」

 彼はいたって冷静だった。

 彼女に合わせて彼もまた立ち上がり、両者は互いに向かい合う。身長は天使のほうが十センチほど低かった。

「先ほどお前は私にくれたであろう。エンゼルと名の付くドーナツを。――私はAngel(天使)だ。その名の食べ物を手にしたお前とこうして出会えたことに、運命を感じずにはいられない」

「運命って……たかがドーナツで大げさすぎやしないか」

「何を言うか。運命とはいつだって最初は些細ささいなものだ。植物の芽のように運命はその片鱗へんりんしか私たちに見せてはくれない。それをより大きな運命に育てられるかは当人たちの努力次第。こうして出会った運命のきざしを私はみすみす逃すつもりはない。……だが、お前にももちろん選択する権利がある」

 最後の言葉を口にしたときの彼女は少しばかり辛そうな顔をしているように、界斗の目には映った。面と向かっている彼だからこそ気づくことのできた些細な変化だった。ひょっとしたら彼女自身も自らの表情が変化したことに気づいていないかもしれない。

「お前にもお前の生活や事情があるだろう。私に手を貸すとなれば、否応なくお前の日常は変わると考えてくれ。私はお前に日本について教えてもらうよう頼むつもりだし、天使側の人間を増やすための助力を求めることも考えている。……慣れ親しんだ環境はかけがえのないものだ。それを手放すように私はお前に迫っている。なんて自分勝手なとお前がいきどおって当然なことをしている」

 大抵の者であれば、聞き手にそんな無茶な要求を突きつけることに対して申し訳なさを感じ、そのことを態度で示すだろう。だけれど、天使の目には彼に対する申し訳なさは微塵みじんも感じられず、彼女はただ一心に彼のことを見つめていた。

 まき暖炉だんろに一つずつくべるように、彼の瞳は赤く燃えていた。

 その誠実で揺るぎのない眼差しに、彼は久しく忘れていた感覚が胸の奥で目を覚ますのを感じた。

「どうして私がこんな風に前もってリスクを話すのか、お前は疑念を抱いているかもしれない。話さないほうが私の望みどおりにお前が手を貸す可能性が高くなるのではと。……だけれど、それじゃあ意味がない。私はお前に、そういったリスクも込みで、自らの意思で、協力してほしいんだ。互いが望んだ関係でなければ長続きしないし、積極的に行動できる者でなければこの戦いは荷が重すぎる」

 天使はちらりと界斗の左目を見やって、

「もちろん無理強いはしない。お前が首を横に振れば、もちろんその瞳に貸した《眼》は元通りにすることを約束するし、その後のお前の生活に一切関与しないと天使の名にけてちかおう。だから断ってもお前がかぶるデメリットは全くない」

 そう、これは自らのしんを通すことに対する誇りだ。

 申し訳なさを演出して彼にびいることをせず、彼女は自身の行動に誇りを持ち、正面から事に当たろうとしている。

 それは、芯の通った不器用さとも言えるかもしれない。

 だけれど、小器用こきように生きる者が多く、それが許容、どころか賞賛されている風潮がある今の社会で、彼女の在り方はとても珍しく、同時に好ましいものに界斗には思えた。

 その違いは単に生きてきた世界、環境の違いに起因するのかもしれないが、それならそれで構わない。ただ、彼女がこの世界で生きていくうえで、その誇りを、不器用さを、失っていくのはいたたまれない。

 界斗もまた、彼女のように誇りを持って生きたいと、かつては願っていた。

 定期考査で一番をとれば、バドミントンの大会で優勝すれば、部活動の部長に選ばれれば、あるいは――。

 それらは、彼の誇りが確かなものであることを証明するための戦いだったはずだ。

 しかし、彼はいつしかその本来の目的を忘れ、目の前の勝負事に一喜一憂していた。

 戦いの本質は、いずこへ……。

「一つかせてくれ」

 界斗の言葉に、天使が大きく頷く。一つと言わずに気が済むまで訊いてくれと言う具合に。

「僕は、いつまでお前と共にいればいい?」

 天使は日本を戦場にすると言った。それはつまり日本全国の人間たちを対象に、天使側と悪魔側の人間の数を競うということだ。まずはここ秋葉原から攻略していくつもりなのかもしれないが、いずれ東京を出て、さらには関東圏を飛び出して、全国の都道府県を回って、天使側の人間を増やすために行動するつもりなのだろう。

 しかし、その旅路のうちで界斗が付き合えるのは、よくて関東圏までだ。

 界斗はまだ中学生。学校があるし、家での生活もある。それらを放り出して全国を回ることなんて両親が許すはずがない。

 もし天使が「戦いの最後まで付き合え」と言うのなら、界斗は首を横に振るしかない。本心では天使に力を貸したいと思っていたとしても……。

 そんな彼の不安は、けれど次の彼女の言葉で跡形もなく霧散むさんする。

「好きなだけ。――好きなだけ私と一緒にいてくれればいい」

 嫌になったらいつでも言ってくれ、と苦笑しながら言葉を付け加えた天使は、とても嬉しそうだった。

 なぜって?

 それは、彼女の言葉に界斗が手を差し出したから。

 彼女は満面の笑みを浮かべて、彼と握手する。

 彼女が人――ヒューマンと握手を交わしたのは、これが二度目だった。

 一度目は遥か昔。まだ天使が生まれたばかりの頃の話で、そのときの記憶はおぼろげだ。握手をしたのが彼だったのか、彼女だったのか、性別すらはっきりしない。すでに天寿てんじゅを全うしたに違いない彼あるいは彼女と、どうして握手をしたのか、その経緯すらも思い出せないでいた。

 ただ、ほんのりと手を伝う温かさだけはおぼえている。

 その懐かしさに、天使は目を細めた。

 界斗は息をのむ。

 ……やっぱり、女の子は笑った顔が一番だ。

 そんな月並みな感想しか浮かんでこないほど、彼女の笑顔は可愛らしくて――何よりも気高かった。

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