第10話 眼
なんと距離十センチほどの至近距離から、天使はさらに顔を
九センチ、八センチ、七センチ――もちろん界斗に正確な距離が分かるはずもなく、そのカウントダウンは単なる界斗の主観的なものに過ぎない。
がむしゃらに
「お、おい」
それでも天使にはきちんと伝わっていたようで、
「おいじゃない。じっとしていて」
さらにがっしりと顔をホールドされてしまう。
ぐんぐんと彼女の顔が近づき、思わず界斗が目を
「目を開けなさい」
と今度は別の
もうなるようになれと目を開けた界斗の左の瞳に、顔の位置を右にずらした天使の左の瞳が……合わさった。
密着、と言って相違なかった。
黒の瞳と赤の瞳が重なり、瞬間、界斗の瞳に熱い何かが流れ込んでくる。
まるで彼女の赤い瞳の奥で眠っていた炎が彼の瞳に燃え移るようだった。
瞳同士が触れ合っていた時間は
けれど、次の瞬間、界斗の左目が捉える視界はその様子を大きく変えていた。
――天使度:100%
――悪魔度:0%
天使の手による顔の拘束が
「心配するな、ちょっと私の
天使は袋から最後の一つのドーナツ――ダブルチョコレートを取り出して、自身の顔の前に持ってくる。
「天使や悪魔だと、0%か100%かの二択、俗にいう
天使はドーナツの輪っかの一部を食べ、欠けたドーナツを目で示す。それで円グラフのように人間の天使度や悪魔度の状態を表しているつもりなのだろう。
「最終的に天使側の人間のほうが数が多い場合は私の勝ち、悪魔側の人間のほうが多かった場合は悪魔の勝ち、というわけだ。偶然か必然か悪魔も日本に飛ばされたらしく、まずはこの日本を戦いの舞台とし、その数を競おうという話になった」
目の前の少女が本当に天使であるのかは未だに分からない。
だが、ここまでの話を聞いて、何より「彼女の眼」を共有されて、彼はようやく彼女が彼の知っている人間という存在ではなく、彼の日常とは遠く離れた別の世界からやってきた存在なのだと、納得することができた。……納得というより、そう考えざるを得なかった、と言ったほうが正しいか。そうしなければ、目の前のことを非日常に分類しなければ、これまで彼が積み重ねてきた日常が壊れてしまいそうだったから。
日常は心の
そう簡単に壊れることは受け入れられない。
「この日本という島国で戦って勝つこと。それが私の
天使は食べかけのドーナツをじっと見つめている。その
「……つまりだな、私はお前に教えてほしいのだ。この日本という国のことを」
唇の周りにチョコがベトベトとついている顔で言われても、真剣味も何もあったものではなかったが、彼女の頬はほんのりと赤く染まっていた。相手がそんな風に勇気を出して
「教えるって言ってもな……。この世界に飛ばされたときに一通りの知識は身につけたんだろ。率直に言って僕は一介の中学生で、あんまり教えられることは多くないと思うが」
「いいや、そんなことはない。私はこの食べ物の名前すら知らなかった」
天使は最後の一欠片となったドーナツに目をやる。
「それに、この三日間、無一文で街を
……彼女が身に着けた「この世界の一通りの知識」というのは、どうやら思っていたよりも抜けている部分が多くありそうだった。あるいは著しく
彼女の頭の中には他国との交易という概念がなさそうだったし(もしくは周りを海に囲まれた島国である日本では、鎖国同然に外部の国との国交が不可能であると考えているのかもしれない)、先ほどから初対面の彼のことを「お前」と呼び続けているあたり、礼儀についての知識もなさそうだ。
「まだまだこの世界には学ぶべきことがたくさんある。それに、何より……」
ひょいと最後の一欠片のドーナツを口に放り込み、彼女は立ち上がる。
「私は、お前に運命を感じたのだ」
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