第3話 食堂で麻婆豆腐とドーナツを

 試験結果を見終えた界斗かいとが昼休みに食堂に行かず、掲示板の前でカタツムリみたいにのろのろと過ごしていたのは、何も敗北の味をみしめようなどと思っていたわけではない。(敗北の味はこれまでの一年半で舌苔ぜったいのごとく常に味わっていた)

 日直当番で仕事をしていた政也まさやを待っていたのである。

 界斗と政也はクラスメイトであり、政也は四時限目の道徳の授業の後、担任から提出物を運ぶのを手伝ってほしいと頼まれ、職員室まで行っていたのだ。

「ああ。ほんと人使いが荒いぜ、うちのお姫様は」

 政也はった肩をほぐすように回しながら苦笑する。

 界斗たちのクラス担任は城ケ崎じょうがさき亜沙子あさこという女性で、三十歳独身。高飛車たかびしゃな性格の持ち主でとにかく人使いが荒い。特に男子生徒への当たりが強いと感じるのは界斗たちの気のせいではあるまい。

 二人は教室棟一階廊下の掲示板の前から離れ、職員室がある方とは逆の方へと廊下を歩き出す。

 教室棟と保健室の扉をつなぐほんの一メートルほどのアスファルトの道を左に折れ、建物の間を抜けると、正面に中庭が広がる。その中央では大きなかしの木がしなやかな枝葉を天高く伸ばし、陽の光を浴びて輝いていた。

 風に飛ばされたのか、中庭のあっちこっちにドングリが転がっている。

 そんな「ドングリ庭」と生徒たちが呼ぶ中庭を二人は横切り、校舎より一回りも二回りも小さな白い外観の食堂に入る。

 券売機に並ぶ生徒たちの列に加わりながら、横のショーウィンドウに陳列された今日のメニューを眺める。

 高坂中学の食堂は学校食堂としてはメニューが充実しているほうだと界斗は感じていた。カレーやうどん、そばなどの定番メニューは毎日注文可能だし、定食メニューは毎日献立こんだてが替わり、しかも二種類も提供される。大抵の場合、二種類のうち一種類が肉系のおかずで、もう一種類は魚系あるいは丼物である。

 そして、なんと今日は、

「麻婆豆腐だ」

 界斗の大好物が提供されていた。

「いいねぇ。俺はカレーにでもするか。食堂のカレーは絶品だからな。――って、おい、見てみろよ」

 政也が背後を指差したので振り返ると、ちょうどショーウィンドウの向かいに位置する壁の前で、エプロン姿の女性二人が折りたたみ式の長机を挟んで生徒たちにドーナツを販売していた。ベージュの七分袖しちぶそでのブラウスに青色の腰エプロンを身に着け、ブラウスの胸元には全国展開している有名ブランド「ミスタードーナツ」のロゴが刺繍ししゅうされている。

 食堂では時折こうして出張販売が行われ、学校内でも地域の飲食店の食べ物を味わうことができる。

「どうする、先に買っておくか?」

 人気商品はすぐに売り切れてしまうため、欲しい場合は昼食をとる前に買っておいたほうが無難だ。

 界斗の提案に政也は首を横に振ると、

「いいや、帰るときに余ってたら買うってことでいいんじゃねえか。確かに店舗よりは少しばかり安い価格で提供されているが、食べたくなったら駅前にある店舗に直接行けばいいだろ」

 界斗も同感だった。食堂の定食のメニューはある程度の数が用意されているが、もしドーナツの列に並んで大好物の麻婆豆腐を買い損なったとなれば目も当てられない。

 ドーナツよりも麻婆豆腐優先だ。

 界斗は無事麻婆豆腐を、政也はカレーを購入し、トレーを持って空席を探す。

 ちょうど食べ終えて席を立つ男子生徒二人組と手入れ替わるようにして、界斗たちは二人用の対面席に腰を落ち着ける。

「今日はツイてるな」

 食堂の収容人数は二百人ほどで、一学年三百人超えの生徒数を誇る高坂中学ではしばしばキャパオーバーになってしまい、空席が見つからずしばらくトレーを持ちながら立って待機、なんてこともざらにある。

 なぜそのような生徒の数に不釣り合いな座席数になっているのかと言えば、食堂開設前はそれほど多くの生徒が食堂を利用するとは学校側が考えていなかったためだ。

 食堂ができたのは十年ほど前で、当時の生徒数は現在のそれと同じ一学年三百二十人ほどであった。食堂ができる前は各自で弁当を持参して教室で食べるのが普通で、学校側は食堂開設に当たり生徒たちにアンケート調査を行い、その結果、食堂利用者は全体の二割くらいが見積もられ、依然として多くの生徒が弁当を持参するつもりであることが分かった。こうして全学年千人弱の高坂中学で二割となる二百人を収容人数として食堂の建物は造られたというわけだ。

 しかし、実際にふたを開ければ半数近くの生徒が食堂を利用し、一時間ある昼休みの最初から最後まで食堂スタッフは馬車馬ばしゃうまのように働くことになっている。

 結果的に多くの生徒が弁当持参から食堂利用へとかじを切ったのは、ひとえに食堂の料理が魅力的というのに尽きる。元三ツ星レズトランでコック長を務めていた人間がレシピを考案して全体の指揮を執り、切り盛りするスタッフも料理店で働いた経験のある人物ばかり。彼ら彼女たちが腕を振るった美味い料理をワンコインという手ごろな価格で楽しめるというのだから、食べない手はない。

 母親に土下座して弁当持参をやめてもらうように懇願した男子生徒もいたと聞く。

 界斗たちはスムーズに席を確保できた喜びを噛みしめつつ食事を終えた。

 トレーを返却し、ミスタードーナツの出張販売ブースに目をやると、どうやらまだ品切れにはなっていないようで販売を続けていた。

 数人が並ぶ列の最後尾につけ、残っている商品をざっと見る。

 球体型の生地がリング状に連なったポン・デ・リングやサクサクのドーナツにチョコがかかったチョコファッションなど人気商品のいくつかは完売していたが、ふわふわの生地にホイップクリームが包まれたエンゼルクリームや黒光りするチョコレートドーナツに黄色の粒々がふんだんにまぶされたゴールデンチョコレートなどはまだ残っていた。他にもイチゴ味のドーナツ、クルーラー系、チュロスなんかも販売されている。

 界斗の家は彼を含めて四人家族で、父と母と三つ上の姉がいる。界斗が学校を出るのは部活終わりの十八時過ぎ。そこから家まで自転車で二十分ほどかかるので、帰宅はいつも十八時半頃になる。夕食後のデザートにドーナツを一人一つずつ食べると考えれば、全部で四つ買うのがちょうどいいだろう。

 どのドーナツを買うか決めるため、家族それぞれの好みを思い出そうとするが、上手くいかない。

 界斗や彼の姉が小学生の頃は家族でよくミスタードーナツに行ったものだが、ここ数年はご無沙汰ぶさたしていた。以前食堂でミスタードーナツの出張販売があったのは一年生のときで半年以上も前の話だし、そのときも同じようなことを考えた気がするのだが、結局当て推量で買った記憶がある。そのとき持ち帰ったドーナツについて三人から特に不満の声が上がった記憶もないので、今回も同様に見繕えばいいだろう。

 堅物かたぶつな印象を受ける顔に似合わず甘党あまとうな父にはチョコレートたっぷりのダブルチョコレート。

 食後のデザートは控えめ派な母には小ぶりなドーナツポップ六個入り。

 来週の中間テストに向けて猛勉強中の姉には糖分多めのオールドファッションハニー。

 三人の分を選び終え、次は彼自身のドーナツを選ぼうとトングをわきわきさせていると、

「お、今週の金曜ロードショーは《天使と悪魔》らしいぜ。原作は読んだけど、そういや映画は見たことねえな」

 食堂にある大型モニターに映るCMを見て政也がそう言った。

 天使と悪魔か……天使はAngel。エンゼルクリームにでもするか。

 そんな風に何となくエンゼルクリームを選んだことが、のちに取り返しのつかない事態に巻き込まれる引き金になるなんて、このときの界斗は思いもしなかった。

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