第30話 異音の影

 空を見上げても星が見えない。昼間の雨雲が晴れていないのか、鈍よりとした曇り空のようであった。

 来るときには気にしなかったが、光源が限られる山道の下りは厳しい物がある。山の中なので当然なのだが、クネクネとした下りカーブが続いていた。その下り坂なせいで思うような速度が出せない。敦は気ばかり焦っていた。


「早く速くはやく……」


 ハンドルに縋りつくように握り、その目は道の先を見詰めている。汗が止め処なく流れ出る。

 すると、ライトの中へ突然に鹿が現れた。暗い中で急に照らされてビックリしたのか、鹿は硬直したように立っている。ライトが反射する赤い目が敦を見据えていた。

 猫や犬などにも見られる行動だが、眩しさで車が分からず、判断に迷うと固まってしまうらしい。


「ああっ!」


 敦はとっさにブレーキを踏み込んだ。山の中にブレーキ音が響き渡る。

 カーブでブレーキを踏むなど、決してやってはいけない操作だ。車は少し斜めになって停止した。どうやらたいして速度が出ていなかったようだ。

 車が停止したのを確認したのか、鹿は鼻を鳴らしてから山の中に飛び込んで行った。


「ビ、ビックリさせるなよー……」


 敦はハンドルに突っ伏したまま安堵のため息を漏らした。緊張が解けたのか肩で息をしていた。

 そんな敦がハンドルから顔を上げて、山際の木を見た時に不思議な物を見た。


「なんだアレ?」


 車のライトに照らされた白いモノに気が付いたのだ。正確には木々の隙間に変な白いモノが詰まっている感じだ。

 よく見てみると、それはヒモ状に伸びた白く細いねじれた女だった。その女が木にしがみついて敦の方を見ているのだ。


「…………」


 敦は動けない。女は無表情で髪が短く白い合羽を着ているように見える。

 そして敦と目が合ったことに気がついたのか、みるみる内に顔がひしゃげて何かを喚き始めた。悪意が剥き出しにされた狂気に感じた。


『バ、バジャッ……バババァッ……ブアアアァァァァっ!』


 そう喚いているように聞こえた。


「ひぃ、ひぃ、ひぃーーー」


 敦は思わずハンドルに突っ伏してしまった。自分がヘタレなのは自覚しているが、流石にコレはきつい物が有ったのだ。

 永遠の時間が経ったような感じがしたが、力を入れすぎたのかハンドルのクラクションを鳴らしてしまった。


ぱぁん


 自分が立てたクラクションの音にビクンとしてしまった敦は再び顔を上げた。すると女はまだ居た。


「ひ……え?」


 良く見ると女はビニール袋に印刷された女であった。それが風に吹かれて揺れているのだ。

 ビニールが風に吹かれてバタバタしているのを、喚きながら自分を見つめていると勘違いしたようだ。


「なんだよ……」


 怪異の正体に気がついた敦は山道を下り始めた。人は思い込むと他の考えが浮かばなく成ってしまう。

 焦りで思考が停止してしまうものだ。汗を拭い車の方向を変えた。


(落ち着け……俺)


 敦は焦りを感じながらウネウネとした山道を再び運転して下り始めた。その間中、落ち着かせるように言い聞かせていた。

 木々が道の際まで張り出して行く手を阻む。頼りになるのは車のヘッドライトだけだ。


「え?」


 一瞬だが人の顔がライトの中に浮かんだ気がした。


(四つん這い男?)


 敦は何となく四つん這い男が追いかけてきたのかと考えた。


「……」


 だが、男は一瞬で消えてしまった。

 ひょっとしたら、さっきみたいに印刷物の早とちりかも知れないと考えた。


(また、怪異なのか?)


 だが、異常なことが続く敦には、豊平と川崎に続いて自分も拐われるのかと恐怖の方を感じていた。拐われるとどうなるのか不明だが、きっと違う世界に連れて行かれて訳の分からないことになってしまうのだろう。それは嫌だったのだ。


 下っている最中。山道の中ほどに花束が供えてあるのに気がついた。事故でも起こった現場なのかも知れない。こういった場所では僅かな油断で事故を起こしてしまうものだ。

 すると、不意に車のカーラジオの電源が入った。


「なんだ?」


 ラジオは砂嵐の音を大音量で流し始めた。砂嵐の音は大きく成ったり小さくなったりしている。

 音量を調整しようとしたが上手く行かない。


「ええ?」


 ラジオの電源を切ろうとしたが、何故か切ることが出来なかった。スイッチが反応しないのだ。

 故障でもしたのかと思ったが、ラジオは買い替えたばかりだと親が言っていた。それに朝は音楽を掛けながらやって来たのだ。

 同時に耳鳴りもなり始めた。


「止めてくれよ……」


 おかしいと思ってたら、その砂嵐の音にお経が混じって聞こえてくるのが分かった。

 砂嵐の音が小さくなった時にお経が大きく聞こえる感じだ。耳鳴りも同期したかのようにうわーんと言う感じで襲って来る。


「……近づいている?」


 砂嵐の音が聞こえなくなってお経だけになった。敦は車を停車させた。どう考えてもお経の音源に近付いていってる気がしたからだ。

 だが、困ったことに山道を一本道だ。先に進まないと人里に辿り着けない。


「あ……」


 お経の音を聞いていると頭が痛くなって来ているようだった。

 戻って山道を反対側に抜ける手も考えたが遠回りになってしまう。敦は暫く考えて車を進める事した。

 すると、視線の先には白い煙のようなモノが立ち上っているのに気がついた。


(また、ビニール袋に印刷された女か?)


 敦は白い煙を無視しようと車を進めた。


「え?!」


 唐突にボンネットにドンッという衝撃が襲った。

 敦は咄嗟に急ブレーキを掛けた。


キキィーーーッ!


 ブレーキ音を響かせながら急停止した車。敦は衝撃の大きさから何か動物を跳ねてしまったと考えたのだ。

 何かを跳ねて放っておくのも嫌なので確認することにした。生き物だったら目覚めが悪くなるからだ。


「くそっ、こんな時に……」


 車から懐中電灯を手に降りた敦は、自分の周囲を照らしてみた。

 しかし、暗闇が広がるだけで何かが倒れていたり事故の形跡が残っていたりはしていない。車にもぶつかった形跡は無かった。

 ため息を一つ付いた敦は車に戻ろうとした。


「あれ?」


 一瞬だが、車のボンネットの前に女が立っていたのが見えたのだ。


「……」


 ボンネットに手をついて車を抑える感じで見えた。しかし、一瞬目を離した隙に消えてしまった。もちろん、人が走る音などしなかった。

 それにお経も聞こえなくなっている。ラジオは沈黙していた。


(何か気持ち悪いな……)


 懐中電灯で周りを探してみたが女はいなかった。気のせいであろうと思うことにした。

 そのまま、嫌なもん見たなあと思いつつ、運転席に戻り車を発進させようとした。

 ふと、気になってバックミラーをチラリと見た。すると髪の長い女が車に向かって走って来るのが見えた。


「ひぃやあああぁぁぁっ」


 敦は悲鳴をあげ車を急発進させた。背もたれに体重が掛かるのが分かる。

 バックミラー越しにこちらを見ている女は笑っていた。口を大きく開けて笑っていた。それも段々と近づいてくる。


「なんで引き離せないんだよ!」


 再びバックミラーを確認すると、女がまだ追いかけて来るのが見えていた。夜で山の中とは言えそこそこ速度が出ているのにだ。

 きっと、停車してはいけない相手に違いない。捕まると川崎や豊平のように連れて行かれるのだ。敦には確信していた。


「なんだよアレ…… なんだよアレ…… なんだよ…… アレ…………」


 敦は前だけを見て運転していた。ハンドルに顔を近づけて脇が見えないようにガードしているのだ。

 バックミラーは見ないように我慢していた。きっと、女がさっきより近付いているのが見える気がする。

 そういう感じがしていたのだ。



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