第23話 ココニオルヨ

 二人が豊平のいる場所に追いつくと彼は上を見上げていた。

 そこには白い紐が無数にぶら下げられていた。


「改めて見ると不気味だよな……」


 豊平がボソリと言った。白い紐は風に吹かれて揺れているようにも見えるし、手招きするかのように踊っているようにも見える。


「まあ、皆がそういう目で見ているからだろう」

「確かに……」


 心が恐怖に囚われていると雰囲気がまるで違って見えるものだ。

 辺りを見回すと明らかに異質な物がそこにあった。電灯だ。もっとも明かりは点いてはおらず、赤い夕日に照らされてポツンと草木の中に立っていた。

 一つだけそびえ立っている元電灯には、クモの巣に絡まった蛾がジタバタともがいている。


 すると森の木がまばらになっている事に気が付いた。何故か気の向こう側の山が見えるのだ。

 もう、何を見ても恐怖心を掻き立てられてしまう敦には、樹々の間から何か飛び出てくるのではないかと考えてしまった。


「ん? 森が途切れているな……」


 敦の視線に気が付いた川崎が言った。


「本当だ……」


 川崎に言われて気が付いたのか、豊平が樹々の薄くなっている方に歩いていく。彼は自分の目で確認しないと気が済まないのだ。

 辺りの森はとても静かで、豊平が藪を掻き分ける音だけが聞こえてくる。所々に浮かぶ赤色っぽい雲のすきまから、遠くの夕焼けが見えていた。


「おーっ、此処は崖になっているな……」


 豊平は崖から覗き込むように下を見ていた。


「へぇ」


 川崎と敦も近付いていった。


「ちょっと、深そうだな……」

「底の方は暗すぎて見えなくなっている」


 昼間に見るとどうって事の無い物だろうが、夜が近付いている中だと桁違いに不気味だった。

 敦には大地に空いた真っ暗な空間にしか思えなかった。落ちたら助からないかもとの恐怖が湧いて来るようなものだった。


「もう、良いから戻ろうぜ……」


 好奇心より恐怖心が勝る敦は戻ろうと言い出した。


「そうだな……」


 川崎も同じ考えなのか賛成した。

 そして、二人で点灯しない電灯まで戻ったても、豊平は崖の下を覗き込んでいた。


「降りるのは無しだぞ?」


 川崎は何かに夢中になっている豊平に言った。


「いや、それは流石に無いでしょ……」


 敦が苦笑しながら宥める。こうしないと豊平は本当にやってしまうからだ。


 それと同時だった。突然、豊平が笑いだしたのだ。


「わはははは……」


 正気とも狂気ともつかない笑い声だった。

 呆気に取られる川崎と敦をよそに、崖の際にある木の幹を掴み崖下を覗き込みながら豊平は笑い続けた。


「おーーーいっ!」


 豊平が崖の下に向かって何故か呼びかけだした。


「おーーーいっ!おーーーいっ!」


 豊平の叫びは山彦となって木霊してくる。


「善治、どうしたんだよ」


 敦の声が届かないのか、豊平は呼びかけるのを止めない。

 すると、別の叫び声が上がった。廃病院の地下で聞いた叫び声に似ている声だった。

 それがウワンウワンと敦の耳元で響き渡り始めたのだ。


「うがっ!」


 思わず顔をしかめた敦は手で耳を塞いでいた。しかし、その程度では防げないのは地下で経験している。


「すごいっ! すごいっ! 人だっ!」


 叫び声は豊平には届かないのか平気なようだ。相変わらず崖の下を覗き込んでいた。


「這いあがって来るっ! すごいっ!!」

(ええ、それって何?)


 川崎と敦はお互いに顔を見合わせた。


「おいっ、ヤバそうだから戻ってこいよ!」


 川崎は何か異変が始まった事を察知したのだ。そこで川崎は豊平を迎えに歩き出そうとした。

 だが、ピタリと止まってしまった。正確には動けなくなったと言うべきかも知れない。


 人だ。或いは人と思われるナニカだ。長く細い黒い腕が崖下から伸びて木の枝を掴んでいた。

 それが豊平を探すかのように空中を探っている。


「え……」

「ええーーっ!」


 瞬く間に黒い腕は増えていく、何かを掴みそこねた黒い腕は空中をウネウネと彷徨っている。


「すごい数だっ!」

「やべぇよ」


 もはや数十本の数になった腕に囲まれているのに豊平ははしゃいでいた。


「あははははっ!」


 川崎や敦の心配を他所に、豊平は崖から身を乗り出して笑っていた。それも心底楽しそうにだ。


(何かが這いあがって来ている!)


 腕があると言うことは、それに繋がっている本体が或るはずだ。どう考えても異形のモノであるに違いない。

 敦は逃げ出したかった。だが、両足が震えて動かない。

 それに豊平を残して逃げるわけにもいかない。


「善治……」


 辛うじてか細い声が出た。けれど豊平には届かないようだ。

 敦は目を瞑り、一度深呼吸をしてから叫んだ。


「善治!」


 一瞬の間、敦の声がやまびことなって戻って来た。


「……」


 その山彦が返ってくるのと同時に黒い腕たちは消え去ってしまった。

 あとに残されたのは崖を覗き込むのを止めた豊平だけだ。一陣の風が吹き抜けていく。


「それにしてもすごかったねー」


 豊平はまだ興奮している様だった。此方を振り返って満面の笑みを浮かべている。

 きっと、崖をよじ登ろうとしていた黒い手のことを言っているのだろう。

 もしかしたら、豊平は異形の全身が見えていたのかもしれない。


「なに、アレ?」


 川崎が豊平に尋ねた。


「わかんない」


 豊平が事も無げに答える。既に終わったことなのでどうでも良いのだろう。


「でも、みんな顔中が口だけだったし、目も鼻も無いけど人間の形はしていたよ」


 やはり豊平は異形の連中が見えていたのだ。

 敦はぞっとしていた。敦には恐怖以外何ものでは無いが豊平は愉快に感じていたのだ。


「大丈夫だったのかよ……」

「大丈夫。 危険な感じはしなかったからさ……」


 豊平は危険を察知する能力は凄い。それは山登りで培われたものなのだろう。


「でも、どうして、何かいるって分かったんだよ……」


 敦が尋ねた。豊平がいきなり崖の下を見たような気がしていたからだ。


「下から声は聞こえてきたからさ」

「声?」

「廃病院の地下で聞こえてた奴か?」

「いいや、普通に『~オルヨー』って聞こえていた」

「俺には何も聞こえなかった」

「俺が聞いていたのとは違うな……」


 敦に聞こえていたのは廃病院の地下で黒目たちの叫び声のような奴だ。今回も川崎には何も聞こえていなかったようだった。


「あの変なヤツラはいっぱい居たの?」

「おう、二十体以上居たんじゃないかな……」

「男も女も髪が長い奴に短い奴色々居たよ。 服を着てたり着てなかったり、同じなのは顔中口だけってだけ」


 そんな異形がうじゃうじゃと崖を上って来るのを眺めていたらしい。


「口がね」

「?」

「たくさんの口が、それぞれ何か呟いてたんよ」

「なんて?」

「よく聞こえなかったけど『~オルヨー』は分かった」

「そうなのか……」

「ひょっとしたら『ココニオルヨ』って言ってたんじゃない?」

「そうかも知れないな」

「何でそう思うんだよ」

「崖から落ちた人が助けを求めてるのかなと思っただけなのよ」

「ああ、そういうのも或るよな……」

「崖から落ちて助けを待っている内に、衰弱して間に合わなかったとか……」

「ああ、その人の思いが残って『ココニオルヨ』になるのか……」

「じゃあ、あの黒い長い手は幽霊だったのか……」


 豊平がそう言いながら今度は自分たちの地面を照らした。光は眩しい光を反射して周りの闇との境界を際立たせる。


「幽霊というより妖怪って言った方が良いような……」


 敦の感覚ではモノノケの方がしっくり来ていた。


「うん、俺が持ってる幽霊のイメージには合わないな」


 珍しく川崎が幽霊の存在を肯定してきた。あの黒く長い手を見た後では仕方があるまい。


「俺が山で遭難した時にも黒い腕は見えてたよ。 その時にさあ……」


 豊平が何かを言いかけた瞬間。

 背後にある影の中から黒い手が出て来た。豊平は黒い手に絡め捕られるように、あっという闇の中に引き込まれてしまった。


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