第13話 耳に映る虚像
三人は探検を続けようと病室のある方に足を向けていた。
二階の廊下も一階と同じく廊下にはゴミひとつ落ちてはいない。
「ん?」
敦が踊り場を離れようとした時。鏡に何かが映った気がした。
一瞬だけ影が通り過ぎた気がしたのだ。
「なんだ?」
目の端だったのでチラリとだが中年男性の印象を受けたのだ。
敦は振り返って階段の方を見たが誰かがいる気配すらなかった。
(気のせいか…… な?)
不思議に思いながら後ろの気配を探る敦。だが、人の息遣いすらも感じ取れなかった。
「おい、行こうぜ」
中々、踊り場から離れようとしない敦に川崎が声を掛けてきた。
「おう、今行く……」
敦は川崎たちの後を追いかけた。
「こういった廃墟だと消化器を振り回す連中が多いもんだけどな……」
川崎が廊下に設置されている消化器を指差しながら言った。そこには赤く塗られた消化器が壁に掛けられていた。
「振り回すって?」
「言葉通りさ、消化器の中身をそこら中に撒き散らすんだよ」
ピンク色の消火剤が床一面に広がっている光景を廃墟などで見かけるのは、侵入した奴が消化器を操作したためであった。中には経年劣化で中身が漏れてしまうケースもあるが稀である。
「何が面白いんだ?」
「その場のノリって奴だろ」
「意味のある行動をヤツラがする訳が無いんだよ」
「そうなのかー」
そんな話をしながら廊下を進んでいく三人組。
二階の病室を順繰りに見ていったが、どこの部屋も似たような感じにベッドが置いてあるだけで変化は無かった。
それでも珍しいのか三人は中に入ってぐるりと一周して次の部屋を見て回っていた。
(何かの宗教儀式みたいだな)
ふと、そんな事を思って敦はクスリと笑ってしまった。
しかし、どの部屋も見事に一緒だった。最初は珍しいかもしれないが、入院で毎日見ていると飽きてしまうだろうなと敦は思った。
(そして、精神を病んでしまって宗教に付け込まれると……)
心の支えを欲しがる瞬間を、商売上手な宗教家は見逃さないのだろうなとも思っていた。
(まあ、本人が満足してるのなら宗教も悪くないのかもな)
人が何を信じようがそれは本人の自由だ。それを強制する連中が敦は嫌いなのだ。異質である事に許容が無い連中には辟易していた。
そんな事を病室を見周りながら考えていた。
「……」
すると、敦は奇妙に静かな豊平に気付いた。ずっと黙りっぱなしなのだ。賑やかな彼にしては珍しい事である。
「どうした?」
「何か変な音しね?」
「さっきからずっと……」
すると豊平は、やや険しい表情で答えてきた。
「音?」
「うん、なんかこう…… きぃ、きぃっ…… みたいな音」
「俺には聞こえない……」
「うん、別に聞こえないね……」
敦と川崎には聞こえないようだ。お互いに耳に手を当てたりしているが無駄だった。
「その音…… どっから聞こえてるの?」
「多分、奥の方だと思う」
「よし、じゃあもっと奥まで行ってみようぜ」
「ええーーっ」
川崎が怖気付くどころか奥に向かって進み始めた。
「あっ」
奥の病室に足を踏み入れた途端。敦は声を出して足を止めてしまった。
そして、豊平も川崎も全く同じタイミングで足を止めた。
「い…… 今、聞こえた……!」
きぃっ きぃっ
そんな音が、確かに敦の耳に響いて来る。それは錆びたブランコが揺れている音に似ている。
(いいや、囁き始めた…… と言うべきか……)
その音は思っていたよりも酷く耳障りであった。通常であれば聞き漏らすなんてことはありえないものだ。
何故、こんなに大きな音がさっきまでは聞こえなかったのだろうかと、疑問は敦をとても大きな不安をもたらした。
だが、そんなことはお構いなしに川崎は部屋の中にずかずか進んでいった。
「本当に何か聞こえてんの? 俺は相変わらず何も聞こえ無いんだけど……」
やはり、川崎には何も聞こえないらしい。
「聞こえている……」
「ああ、頭の中で木霊するような音だよ……」
「どんなんだよ」
豊平や敦が自分をからかっていると思い始めているのか不機嫌そうになっている。
「窓から風が入ってきて何かを揺らしているんだろ」
そう言って窓のカーテンを開け放った。すると、そこには雨がそぼ降る風景が広がっているだけで窓は開いてなどいなかった。
「じゃあ、空調かね?」
病室には換気用の通気口があり、そこから空調された空気が給気されるのだ。しかし、換気のシステムを動かすのには電力が必要であり、廃墟と化した廃病院で送風機が動いているとは思えなかった。
それに通気口から聞こえている感じはしていないのだ。
「いいや…… 壁の中から聞こえるみたいだね……」
豊平が病室の壁を指差した。
『聞こえてるんだろ?』
壁には赤いペンキでそう書かれていた。謎の音に夢中で気が付かなかったが、どうやら自分たち以外にも聞こえていた奴がいるらしい。
そして、音は壁の中から響いているのは確かのようだった。
「ふーーーん」
それでも川崎には聞こえていないらしい。まだ、半信半疑のようだ。
「壁の中を通っている配管が何かの音を出してるって処だろ」
川崎がそんな事を言った。確かに建物の配管を通して雑音が他の部屋に届く事があるものらしい。ウォーターハンマー現象と言うらしい。
敦が間借りしているアパートでもそんな騒動があったと聞いたことがある。
トイレ工事の施工不備でトイレの排水音が共鳴して不気味な音がアパート中を鳴らして大騒ぎになったのだ。
もっとも、アパートの大家さんが直ぐに原因に気が付いて、再工事を行って事なきを得た話だった。
「おお、さすがに物知りだね」
「任せろ」
「わはははは」
そんな事を話している間も音は鳴り響いている。会話などをしていると気にはならないが耳障りである事は確かだ。
(今は昼間だからある程度は平気だけど夜中に来た連中はビビったろうな……)
もっともらしい理屈を聞いて安心したのか敦はそんな事を考えてほくそ笑んだ。
「結構、音が高い気がする……」
「ああ、耳がピーンとなる感じだ」
ここで敦は或ることに気が付いた。聞こえている音はきっと高周波音なのだ。
(モスキート音……)
人間の耳で識別出来る音の周波数は限られている。可聴範囲というらしい。年齢を重ねると高い音が苦手になってしまう。これは、耳の中にある器官が衰えたりして高周波部が聴き取りにくくなる為だ。
(じゃあ、これが聞こえない川崎は……)
豊平も同じ思いに至ったのか敦の方を見ながらニヤリと笑った。
(ついに見た目通りにおっさん化してしまったのか)
敦は苦笑いを豊平に返して、下階に降りようと手で合図をした。おっさん化を誂うのは気が引けたから。何しろ自分たちも行く道だからだ。
何故、モスキート音がここで鳴らされているのか分からない。
(ひょっとしたら蚊除けの機器でも動いてるのかも知れないな……)
敦はそう考えた。一時期、高周波音を出してメスの蚊を避けるとされる機器が売られていた。
実際には効果が無い。メスの蚊は聴覚が鈍いからだ。だが、化学薬品を使わないので、病人や赤ん坊のいる家庭では流行ったことがあった。敦はそれを思い出していたのだった。
実際は、空のパイプ内を空気が通過する時に、僅かに空いた隙間で鳴らされた音が共鳴して増幅されただけだった。だが、専門家でも無い三人には分からない話だ。
「下に降りてコーヒーでも飲もうぜ」
「ああ、そうするか」
「どうって事無かったな……」
川崎と豊平はがっかりしたようだが敦は胸を撫で下ろしていた。やっとひと息つけると思ったからだ。
三人は一階に降りようと階段に向かった。
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