第22話 依都との決別

 「結!!」

 「うわあ!」


 結が生け簀に閉じ込められた時、遠く離れた金魚屋にいた累がそれを察知し叫び越えをあげた。

 それは目の前に結の姿が浮かび上がるような超常現象ではなく、ただ何となく嫌な予感がしただけだ。現世でもこういう事はあったけれど、何となくそんな気がする程度で明確に状況を察知できるわけではない。

 だがこの世界に来てからはそれが顕著だった。それはこの世界が魂で出来ているからだろうと累は漠然と思っている。


 そして今、累は結に何かあったように感じていた。体の内側が凍り、それこそ魂が震えているようだった。

 累は座卓をひっくり返しながら勢いよく立ち上がり金魚屋から飛び出した。


 「結!!」

 「ちょ、ちょっと!何ですか!今度はどうしたんですか!」

 「結が泣いてる!結!」


 依都はしがみついて累の足を止めようとするけれど、対格差もありずるずると引きずられてしまう。


 「跡取りは鯉屋でぬくぬくしてんだろ。捨てられたショックでついにおかしくなったか?」

 「何かあったんだ!結が泣いてる!」

 「双子テレパシーですか!?それにしても落ち着いて下さい!神威君止めて!!」


 事態が呑み込めていない神威だったが、依都に言われるがまま累を羽交い絞めにして持ち上げた。

 累は放せ、と暴れ狂うけれど神威の力からは逃げられない。


 「放せよ!結が泣いてるんだ!助けに行く!」

 「どうやってですか!鯉屋様に入れば累さんが死んじゃいますよ!」

 「つーか裏切ったのあっちだろ。自業自得じゃねえの」

 「じゃあお前依都に嫌われたら泣いてる依都の事見捨てるのかよ!」

 「……いや」

 「結がどう思ってるかなんて関係無い!俺が結を守りたいだけだ!結!」


 そう言われると放してやりたくなってしまう神威だったが、依都はだめだめ、と何とか累を落ち着かせようとする。

 けれど依都が何を言っても累は聞かず、神威はどっちの味方をしてどうすればいいか困りあぐねていた。

 しかしその時、神威は一瞬驚いたような顔をして、するりと累を降ろす。


 「神威君何してるの!!」

 「二人共落ち着け。どうやら詳細知ってそうな奴が来たぞ」

 「は!?」

 「ほら、あれ」


 イラついている累はぎりぎりと歯ぎしりをしながら神威が見ている方向に視線を移した。

 すると、そこにいたのは――


 「紫音さん!?」

 「紫音お嬢さんがお供も無しに一人で出てくるとは穏やかじゃねえな」


 鯉屋を背景に据え、累の元へかけて来たのは鯉屋の紫音だった。

 美しい着物は振り回されたせいで着崩れていて、整えられていたであろう髪もすっかり崩れてしまっている。

 草履も足袋も真っ黒に汚れていて、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。明らかに様子がおかしかった。

 

 「どうしたんですか!ああ、今何か羽織を」

 「いいえ、いりません。累様、すぐに鯉屋へお越し下さい」

 「結に何かあったんだな!!」


 累は顔を真っ青にして、慌てる依都を振り払い鯉屋へ乗り込もうと足を向けた。

 けれど、神威がぐいと累の後ろ襟を引っ張った。


 「落ち着け。鯉屋に潜り込むなら無策じゃ駄目だ。どこでどんな風に捕まってて何をするか把握して作戦を練るのが先だ」

 「けど結が!!」

 「だーから落ち着け!一回で助けないと二度目は無い!お前の侵入が問題になったら弟が殺さるかもしれないぞ!」


 神威につままれたまま累はびくりと恐怖に震えた。

 あ、あ、と声を漏らして震える累を依都に持たせると、神威は紫音を振り返った。

 

 「お嬢さんよ。跡取りは殺されるのか」

 「い、いいえ。捕らえられていますが今すぐどうこうなるわけではありません。大旦那が戻るのは明日の夜ですし」

 「なら準備する時間はあるな。話は中でするぞ。お嬢さんがこんなとこにいるだけで異常事態だ」

 「はい……」


 依都は歩くのもやっとの状態になっている累を支えながら金魚屋の中へ入って行く。

 累の倒した座卓を直し紫音に座布団を出すと、汚れて崩れた着物を隠すように羽織とひざ掛けを用意した。こんな時でも鯉屋に対して保つべき姿勢を失わない冷静さはさすが依都だ。


 全員がふうと一息吐くと、紫音は申し訳なさそうな顔で声を潜めた。


 「結様は生け簀に入れられています」

 「生け簀?何だよそれ」

 「鯉屋の地下にある水の牢です。錦鯉を入れる場所で、結様は錦鯉の檻に捕らわれているんです」

 「な、何で!あいつは大事な跡取りだろう!」

 「放流のお役目を拒絶なさったのです。お役目を果たさぬ跡取りは過去にもおりましたがその場合……」


 紫音は発言を逃れるように目をそらし、膝の上でぎゅっと手を固く握りしめ口を噤んだ。


 累には錦鯉について、ずっと考えないようにしている事があった。

 錦鯉は強力だ。出目金を消す事ができるというのはこの世界でも特殊な事例なのに、何故かそれが鯉屋に従う。けれど有限で使い捨て。


 それはまるで跡取りそのもののようだ。


 「……跡取りを殺して錦鯉にしたのか」


 え、と驚く神威と依都だったが、紫音は黙って頷いた。

 人殺しかよ、と神威は思わず口走った。それは暴言だったが、しかし依都でさえ言い返す事も発言を注意する事もできなかった。


 「けど何であんたがそれを俺に教えるんだよ。俺達をこっちに召んだのはあんただったじゃないか」


 累は憎々しげに詰め寄るけれど、紫音は何も言わずただ俯いた。

 何とか言えよ、と累は紫音を責め立てるけれど、珍しく神威が間に入った。


 「その議論は後にしろ。まずは弟を取り返すのが先だろ。お嬢さん、大旦那はあんたがここにいる事を知ってるのか?」

 「いいえ……」

 「いいのかよ。大旦那を裏切る事になるんだろ」


 しん、と場が静まった。

 累にはそれが単なる親子喧嘩とどれだけ違うのかは分からないけれど、そんなくだらない事で今足を止められている事は苛立ちを募らせた。


 「裏切ったとして、それで結を助けるアテはあるのか」

 「ありません。けれどやらなくては。生け簀に捕らわれて二日と正気を保った者はおりません」


 何としてもお連れしなければ、と言う紫音の表情は、累から見ても心から結を心配しているように見えた。

 それを信用しても良いのか迷っていると、ふいに依都が立ち上がった。


 「……累さん、ごめんなさい。僕は手伝えません」

 「依都?」

 「金魚屋は鯉屋様に背く事はできません。紫音さんが鯉屋の主導権を持っていないのなら紫音さんの指示は聞けません」


 ごめんなさい、と依都は俯いた。

 そもそも累が金魚屋にいるのは鯉屋に頼まれたからだ。預かりますと立候補したわけではない。依都には累よりも優先しなければならない物があるのだ。


 「分かってる。お前は金魚屋を守ってくれ」

 「……ごめんなさい」

 「謝る事じゃない。金魚屋当主として正しい判断だよ」


 本来ならこの段階で出て行ってくれと突き放されても仕方が無いのに、それを辛いと思うのは依都の優しさだ。

 それでも縁が切れる事も無いし責める事でも無い、そう言うかのように神威は依都を引き寄せぽんぽんと頭を撫でた。


 「そんな事より、肝心な事忘れてねえか。累は鯉屋には入れないんだろ」

 「そうなんだよ。なあお嬢さん、それどうにかならないか」

 「できません。輪廻回廊がある以上魂は流転するので私ではどうにもできないのです。けれど一つだけ方法があります」

 「何だ!あるのか!先に教えてくれよそれ!」


 紫音は俯く依都に目をやり、膝を向けると顔を覗き込んだ。


 「依都。お願いします」

 「でも……」

 「お願いします」


 何で依都に、と累は神威に疑問の視線を向けたけれど、神威も首を横に振った。

 けれど依都は紫音の言いたい事が分かったようで、渋々立ち上がり戸棚から急須と湯呑を取り出した。

 急須には既にお湯が入っているようで、依都はこぽこぽと注いで累に差し出した。


 「白湯?」

 「いえ。魂を癒す金魚湯です」

 「魂を癒すって、俺が倒れた時入れてくれたあの風呂?」

 「そうです。そしてこれは本来、鯉屋の跡取りのために作られた物なんです」

 「跡取りの?なんでそんな重要な物を依都が持ってるんだ?」


 累は依都に訪ねたが、依都はそれ以上は語らずちらりと紫音を見た。


 「私がご説明します。累様は金魚屋が鯉屋から離れた場所に店を構えている理由はご存知ですか?」

 「いや。意味があるのか?」

 「あります。金魚屋は跡取りに万が一の事があった場合に身を置く保険なのです。跡取りといっても半生者。もし累様のように鯉屋で生きられなかった場合、鯉屋の外でその魂を癒し守る必要がありますが、それは誰にでもできる事ではありません」

 「……なるほど。俺を金魚湯で助けてくれたのは最初から存在したフローだったのか」


 累が鯉屋で倒れた時、紫音が依都を呼び金魚屋へ連れて行くよう指示をしていたのを累は思い出した。

 紫音はどう対処するかを考え込む事も無く、さも当然であるかのように素早い対応をした。だからこそ累は死なずにすんだのだが、それは本来跡取りのために考えられた対応だったのだ。


 「跡取りは鯉屋でも想定しきれない特異な存在です。そのために金魚屋は鯉屋から離れました」

 「定期的に金魚の納品が決まってるならもっと近くに店を置けばいいと思ってたけど、そういう事なのか……」


 納品は気まぐれに行うものでは無い。定められた業務だ。

 ならば鯉屋の中で行うのが一番早いし依都が単身水槽を運ぶ必要もない。

 利益を得る概念の存在する世界の中で何故そんな無駄を放置するのかと思っていたが、どうにもできない事情があるからだった。

 累は金魚湯の入った湯呑を受け取った。


 「それで、これをどうしたらいいんだ?」

 「飲んで下さい。そうすればひと月は鯉屋でも生きられます」

 「飲むだけ?それ実証されてるのか?やってみて駄目だったじゃすまないぞ」

 「実証されています。何故結様が鯉屋でお過ごしになる事が出来ると思いますか?」

 「魂が死んでるからじゃないのか?」

 「いいえ。死んでいるのは肉体です。魂が死んでいたらこちらに来る事はできません。私がこちらに召ぶのは魂で、肉体は附属品のようなもの」

 「……それ、半生者半死者って事だよな。俺と結は同じ状態って事か?」

 「およそ。ですが跡取りには鯉屋に居てもらわなくてはなりません。そしてそれを可能にするのがこの金魚湯」


 依都は急須を傾けて、手のひらに一滴だけ金魚湯を注いだ。

 そしてそれを肌に塗りこむように浸して見せる。


 「金魚湯は薬です。浸かれば肉体を通して魂を癒しますけど、直接体内に取り込めばすぐに魂を眠らせます。塗り薬か飲み薬かの違いです」

 「魂が眠れば輪廻回廊はそれが生者であると認識をしません。結様は魂が眠っている状態なのです」

 「跡取り様は毎日これを飲んでるんです。金魚の納品の時に僕が持って行ってます」


 街の中でも鯉屋に脚を踏み入れる事のできる人間は依都を除けばほぼ皆無に近い。鉢にしてみればそれは考えられない事で、だから依都は嫌煙されていた。

 それは全て跡取りのために必要な店だからと思えば、依都が特別扱いをされる事にようやく納得がいった。


 「……でもこれは跡取り様にしか使っては駄目だと大旦那様から言われています」


 金魚屋が特別なのは鯉屋が取り立てているからだ。

 それは鯉屋には逆らえないという事で、なのに金魚湯を渡したらそれは裏切りだ。これだけ特別な存在である依都は罰せられなかったとしても、従業員はただではすまないだろう。

 依都はぎゅっと急須を握りしめたけれど、累はそれを見て立ち上がり急須の入っていた棚を殴って引き戸を壊した。


 「累さん!何するんですか!」

 「俺が依都から金魚湯を奪ったんだ。依都も従業員も仕事をしていた。そしていつも通り依都の傍にいた神威がその証人だ」

 「累様に知恵を与えたのは私。あなたは知らなかった。良いですね」


 こくん、と依都は声は出さずに頷いた。

 じわりと涙を浮かべているのを見ると、優しい依都に嘘を吐かせる事に胸が痛む。

 依都の涙にいち早く気付いた神威はぐいと依都を抱きしめて、ぽんと頭を撫でる。大丈夫だと言ってやると、紫音をじろりと睨んだ。


 「跡取りは俺が匿ってやる」

 「神威?」

 「逃げた後隠れる場所が必要だろ。まさか金魚屋に戻るつもりか?それは俺が許さない」


 例え連れ出せたとしてもまた掴まっては意味が無い。

 安全に隠れる場所はどうするのかというその問いは、以前破魔屋の大旦那にも言われた事だった。

 金魚屋に戻れば依都に迷惑がかかる。けれど累と紫音には助けを求められる相手がいない以上、今口先で金魚屋には戻らないと言ったところで逃げ込むだろう――と神威は思っていた。

 つまり依都を守るためにはこの二人が金魚屋に行く必要が無い状態にしなければならないのだ。


 「けど破魔屋はただじゃ動けない。報酬を寄越せ。そうすれば破魔屋の屋敷で保護してやる」

 「では私の持つ全財産を。大店にある私の屋敷と内装全てを破魔屋に差し上げましょう。前払いはこの簪で足りますか」


 紫音は髪から簪を引き抜くと崩れていた髪がさらに崩れて、けれど絹のようなその髪は美しく広がった。

 神威は簪を奪うように手に取りじろじろと品定めをするけれど、その腕には依都を抱えたままだ。依都も不安そうにじいっと神威を見上げていて、それに気付いた神威はまた一つ、ぽんと依都の頭を撫でてやった。


 「いいだろう。ただし俺の部屋で我慢しろよ。跡取り様には窮屈だろうがな」

 「……いいのか。鯉屋を敵に回すぞ」

 「勘違いするな。お前のためじゃない」


 依都のためだとは言わなかったが、依都を支えるその腕は累をも安心させた。

 そして依都はぎゅうっと神威の腕にしがみつく。


 「神威君。累さんの事お願いね」

 「ん?それは跡取りを匿うのとは別依頼だな。報酬は?」

 「ほ、報酬?えっと、えーっと……」


 いつもの冗談のノリで誤魔化せる雰囲気ではない事を感じ取り、依都はどうしよう、ときょろきょろと部屋を見渡した。

 けれど神威はクスッと笑って依都を抱き上げた。


 「俺が迎えに来るまで金魚屋の仕事だけをしろ。分かったな」

 「……分かった」

 「報酬は後で貰う。考えとけよ」

 

 依都は、うん、と涙声で神威の首にぎゅうと抱き着いていた。

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