第7話 累と結

 それから十日ほど経ち、ようやく累は通常生活に戻って良しという許可が出た。

 と言っても終始浸かりきりではなく数時間ごとに出たり入ったりしていたのだが、それでも水中になれた身体は重く感じていた。


 「全身ふやけると思ったけどそうでもなかったな」

 「あれは魂に作用するのでお風呂のお湯とは違いますよ」

 「ふうん……」


 依都が言うには、鯉屋で暴れたり逃げたりしたら困るから納品する金魚はこの湯の中で眠らせるらしい。

 そう言われると確かに納品した金魚はくたりとしていて、金魚屋の水槽にいる金魚は元気に泳ぎ回っている。触る事の出来ない金魚がどんな悪さをするのかは分からないが、現世の常識で測るもんじゃないか、と累は独り言ちた。


 そんな話をしていたら、累は急に後ろを振り向いた。

 じいっとあらぬ方向を見つめていて、依都もその視線を追うがその先は襖しかない。けれど累はそのままばたばたと店の表に向かってしまう。それに驚いて依都も後を追うと、店先にいたのは結だった。鯉の鱗柄の羽織と豪華な着物を着ていて、それは鯉屋の人間と認められた証拠だ。依都はそれを見て、ふあっ、と奇妙な鳴き声を上げて姿勢を正した。

 けれど累にはそんな事は関係無い。


 「結!」

 「あ、累だ~」


 累はがばっと結に抱き着いた。

 依都は一瞬ぎょっとしたけれど、結は特に驚く事もなく累の髪を軽く撫でた。それはまるでじゃれつく犬と飼い主のようで、あはは、と依都は笑った。


 「何で結様がいらしたの分かったんですか?」

 「何となく。結がいるなって!」

 「ええ?じゃあ結様はどうして急にいらっしゃったんですか?」

 「何となく。累が起きるなあって」

 「ええ……」


 依都は何それと眉をしかめて説明を求めたけれど、累はそういうもんなの、と笑いながら結に頬を摺り寄せた。

 そして、累はうきうきと足取り軽く結を店内に引き入れ長屋に連れて行こうとした。けれど依都が「跡取り様を従業員の自室になんてとんでもないです!」と言って許してくれず、依都の部屋に案内してお茶を淹れてくれた。


 「へー。じゃあよりちゃんがここで一番偉いんだ」

 「偉いのは旦那様です。僕は単なる管理人なので」

 「でも当主なんでしょ?あ、でも鯉屋も一番偉いのは大旦那様で次期当主は紫音さんだっけ」

 「どうでもいいよ。それより、結!今何してんだよ!」

 「あ、うん。その話しに来たの」


 依都は本当に結様以外に興味無いですね、と呆れ果てた。

 目の前に本人が、しかも居候させてもらってる相手をどうでもいい呼ばわりなんて、と依都はぷうと頬を膨らませた。けれどあれだけ心配していた大切な弟が目の前にいるのだからそれも仕方のない事なのかな、と依都は微笑ましそうに笑った。


 尻尾を振ってぐいぐい来る累の頭を撫でて、結は巾着の中から真っ赤な房飾りを二つ取り出した。

 それには直系一センチメートルほどの鈴が付いていて、結の首に巻かれた細い帯にぶら下がっている飾りに似ている。


 「ナニコレ」

 「跡取りのお披露目会場への入場鈴だって」

 「お披露目?」

 「うん。すーっごいおっきなお祭りになるらし」

 「待てよ!お前跡取りになるつもりなのか!?」

 「え?うん」


 けろりと言う結に、累は目をひん剥いた。

 ぐぐぐと鼻がぶつかりそうなほど顔を近づけて結の肩をがくがくと揺さぶった。 


 「駄目に決まってるだろ!何させられるか分かんないんだぞ!」

 「だからやってみれば分かるよ。揺らさないで」

 「危険な目にあったらどうするんだよ!」

 「大丈夫だよ。お嬢さんもいるし護衛もいるし。ゆら、揺らさないで」

 「そいつらに見捨てられたらどうすんだよ!」

 「なら邪魔になりそうな累の介抱なんてしないでしょ。うわ、うわ、揺らさないでえ」

 「わかんねーだろ!」

 「揺らすなー!」


 累は結の大声に驚きすてんと尻餅をついた。

 今までは急激に息を吸い込むと咳き込んでしまうから突発的な大声を出す事なんてなかった。それを避けるために累は結の感情を大きく揺らすような事は避けていたし、本人もそれを気を付けていたのだ。

 そんなあり得ない事を当然のようにする結の姿にぱちくりと瞬きを繰り返して呆然としていたが、いい加減にしてよね、と結は口を尖らせる。けれど累はじわあと涙を浮かべ、ついには泣きながら結に抱き着いた。


 「ちょっと、泣く事ないでしょ」

 「だ、だって、結のでかい声初めて聴いた」

 「え?ああ、そっち」


 結は相変わらずけろりとしていて、過保護だなあと笑う。

 だが最愛の弟の元気な姿は累にとって物心ついた時から望んでいた事で、それは何物にも代えがたいものだ。累は泣きながら抱きしめて、結を放そうとしなかった。


 「あ、もう駄目。こうなると累はもう駄目」

 「結様に盲目ですねえ」

 「過保護なの。分かるけどさ、もうちょっと信用してくれてもいいんじゃない?」


 うんうんと結と依都は意気投合した。

 急に仲間外れ状態になった累は、何かこの二人似てるな、と泣きながら累はそんな事を思っていた。実は累が依都にあっさりと心を許したのはそれもあった。雰囲気や髪型が子供の頃の結に似ているのだ。

 累は「泣かないの」と子供のように叱られて、大人しく膝を抱えて結の隣に座り込んだ。


 「僕だっていつまでも累に守られてばっかりじゃないんだから」


 そんな事は累にも分かっている。

 元気にさえなれば、結は元々しっかり者だ。本を読むのが好きで、人生の半分以上を病院のベッドで過ごしていても知識量は多い。勉強に至っては累が教えられる側だ。

 それでも累にとっては守らなければいけない存在だ。それが一人立ちを宣言されるなんて、累には考えられなかった。

 うう、と不満そうに声を漏らして、累は拗ねてそっぽを向いた。


 「……お披露目って何すんだよ」

 「御神輿であちこち回ったり舞台で踊ったりするんだって。そのための舞とか唄のレッスンしてるの」

 「れっすんて何ですか?」

 「練習って意味だよ」

 「じゃあパレードみたいなモンか。危なくないんだろうな」

 「ないない」

 「ぱれーどって何ですか?」

 「歌ったり踊ったりして練り歩く行列だな」

 「ふうん。現世は難しい言葉が多いんですね」


 こちらの世界には英語も和製英語も無い。

 累と結にとっては当たり前の物だからつい使ってしまうけれど、この世界の人には毎回突っ込まれてしまうのだ。れっすん、れっすん、ぱれーど、ぱれーど、と忘れないように依都は繰り返していた。

 結が紙に文字で書いてやると、依都もそれに倣って書き出した。こういうところもよく似ている。


 「大店の広場に舞台ができるんだって。そこで紫音さんと一緒に踊るから見に来てね」

 「踊る!?駄目だ!!発作が起きたらどうすんだ!!」

 「だから、それはもう大丈夫なんだってば」

 「あ――……そっか。そうだったな」


 子供の頃は累も結自身も走り回ってはいけないという自覚が薄く、周りの子供はもっとそうだった。

 そのせいでよく発作を起こして倒れ、入退院を繰り返していた。それは中学や高校に上がっても多少はあり、移動教室で遅れそうだと走った友人に付いて行こうとして倒れたりもした。その度に累は授業を飛び出し病院に付き添っていたのだが、累は一日中ソワソワして授業どころじゃないし結が倒れたら累を呼ぶのは必然だから教師も走り回るしで、結局中学二年生から高校卒業まで二人は同じクラスにしてもらっていた。

 それが面倒だと思った事は一度も無いし、これからだって傍にいると何の疑問も持たずに生きていた。それを今急に忘れろと言われても無理な話だ。それを分かっているから結もふわりと微笑んでいた。


 それからしばらく三人で話をしていたけれど、二時間ほどしたら結が立ち上がった。


 「僕そろそろ帰らないと」 

 「え!?もう!?」

 「うん。鯉屋は食事の時間が決まってるんだ」

 「だってまだ明るいじゃないか。つーか帰る必要ないだろ」

 「だーめ。規則なの。門限」


 そんなのあるのか、と累はあからさまにガッカリと肩を落とした。

 仕方ないなあ、と結はよしよしと撫でて、しょぼくれる累をぎゅうっと抱きしめてやった。


 「明日また来るよ」

 「明日?絶対?」

 「絶対」


 それでも累は納得せずしょんぼりと俯いたけれど、結は構わずすたすたと店の外に出て依都に有難うとお礼を言った。

 ある程度のあしらい方は見に付いているようだ。


 「それじゃあまた明日ね」

 「そこまで送る!」

 「はいはい」

 「累さん!鯉屋様の中に入ったら駄目ですからね!」

 「分かってるよ」


 結にべったりとくっついていて、依都の目には『嬉しい』という文字が飛び交って見えた。

 金魚屋の当主である依都としては、金魚屋にいる以上は仕事をしてもらわなければいけないけれど言っても無理だろうな、と早々に諦めて見送った。


 けれど結の輝かしいお披露目本番に、累はこの世界の新たな事実を知る事になる。


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